THE FLOWER GARDEN
百花繚乱の章12
「日向は？」
夕食を食べ終えたところで、しずかは相川に尋ねた。
本来ならば食事はしずかと一緒にとらねばならないはずだが、日向は現れなかった。
そもそも桜王宮に戻ってきてから、しずかはこの貴丹舎で日向と顔を会わせた回数は、本当に数えるほどだったので、いつものことといえば、いつものことではある。
「さあ、先ほどどこかにでかけられたようですが」
そうして、日向の行方は、相川たちも知らない。
しずかはそれを聞いて席を立つ。
「そ」
「しずか様？」
廊下に出て、そのまま自分の部屋へと向かおうとしないしずかに、相川が思わず声をかけた。
しずかは、はっとしたように立ち止ると、恥ずかしそうに微笑んで答える。
「ああ、ちょっと―。
トイレだよ、トイレッ」
「はっ、しっ、失礼いたしましたっっ」
しずか以上に顔を赤らめ、慌てて今いた部屋に駆け戻る相川に、しずかは心の中で呟く。
ごめん、相川。
辺りを見回し誰もいないことを確認すると、しずかは素早く貴丹舎を出て行った。
その手には、一枚の紙切れが握られている。
『午後八時。この場所で待つ』
その下には、簡素に書かれた地図があり、さらにその下には、成瀬と書かれてあった。
場所は貴丹舎から少し離れたところにあるものの、馬を使えばそれほど時間はかからないはずだった。
しずかはそのままひっそりと厩に忍び込む。そして、一番近くにいた一頭に跨る。
確かに厩には日向の馬はいなかった。
先に行ってるってわけか。
けど、何でこんなところに呼び出されるんだ？
話があるっていうんなら、ここで話せば済むだろうに。
頭の片隅でそう思うしずかだが、深く考えることよりも、日向ときちんと向き合って話をしたいという気持ちの方が勝り、それ以上考えが及ばなかった。
ペンダントの話、まだ決着がついたわけじゃないし、
他にも聞きたいことはある。
今度こそ、ちゃんと聞きだしてやるんだ。
そう心に強く決めると、しずかは手綱を強く引いた。
手紙に書かれていた森の奥深い場所には、改装中と思しき建物があった。
しかし、建物の一部にかけられた布など、その作業は途中で止まっているようにも思える。
どこなんだ、ここは。
扉を開けようとしたしずかだが、ふと思いなおして軽く咳払いをすると小さくだがノックをしてみた。
「…日向？いるのか？」
軋む扉を開け、しずかは顔を覗かせる。
それなりに広い邸宅のようだが、如何せん古いために、廊下に立っていても隙間風が吹いてくる。
ふと、奥の部屋から灯りがこぼれていることにしずかは気づいた。
なんだ、やっぱり日向いるんじゃん。
ギシギシと鳴る廊下を歩きながら、しずかはその部屋に進んでいく。
その足取りは、しずか自身意識していなかったが軽やかであった。
そのため、しずかは気づいていなかった。
日向がいるのであれば、建物の付近にいるはずである日向の馬がどこにもいないことを。
また、開け放したはずの扉が、いつの間にか閉められていたことに。
まあ、退屈だこと。
華夜乃は大きく欠伸をした。
王妃を投票で決めると言うことになってから、その日まであと五日。
いつにもまして華夜乃の警備は厚くなり、花琳舎からは一歩も出れなくなっていた。
それを指示したのは、桂公爵だ。
そもそも、桂公の命令を無視し、夏目が華夜乃を連れ桜稜殿を出たことも、桂公としては許せなかったらしく、夏目が謝罪のためにと毎日通っても、面通りすら叶わなかったという。
それがあまりに不憫で、思わず華夜乃が許しを乞うべく手紙を書いたところ、逆に桂公の怒りを買い、投票の当日までは外出禁止を言い渡されたのだ。
華夜乃も納得がいかないものの、一度怒らすと長い桂公ゆえに、素直に従うことにしたのだ。
それに、優がいればいいもの。
だが、そんな華夜乃の思惑とは裏腹に、夏目がこの部屋に現れることはほとんどなかった。
尋ねると、忙しいの一点張りで、それに腹を立てて華夜乃が我儘を言うと、やってはくるが五分と経たずに部屋を出ていく。
ならばと華夜乃が出向こうとすると、お付きの山吹や護衛の薔薇の騎士たちが部屋を出ることを禁じるのだ。
ああ本当に、体が溶けてしまいそうなくらい退屈だわ。
華夜乃はそう思いながら、再び大きく欠伸をした。
結局、何もすることがないので、必然的にベッドに入る時間も早くなる。
しかし、体が疲れているわけでもないので、寝つきはこのところよくない。
本当に、つまらないわ。
山吹にしても、他の騎士たちにしても、華夜乃には厳しく接しているというのに、その陰では色恋を愉しんでいることを、その表情や視線、言葉の端々から華夜乃はかぎ取っていた。
どうして皆には許されて、私にはできないのかしら。
恋ほど愉しいことはないというのに。
ため息をつくと、小さくノックされる音が聞こえてきた。
「誰？」
しかし相手は答えずに、そっと扉が開かれる。ささっと影が動き、扉が閉まる音がした。
思わず身構える華夜乃の前で、蝋燭の乏しい灯りに照らされたのは、かつての恋人である副隊長の富樫であった。
「姫」
今にも泣きだしそうな笑顔を見せ、富樫はそう呟く。華夜乃は半ば呆れ顔で答えた。
「…あなた。どうしてここに。山吹は？」
華夜乃を護衛する為にも、また監視という意味でも、山吹は隣の部屋にいて、逐一華夜乃の部屋の状況を見ているはずだった。
華夜乃に話しかけられたことに、富樫は顔を緩めると、華夜乃に近づきながら答えた。
「誰かと逢引の約束をしているようです。すでにここにはいませんよ。それよりも…会いたかった」
言った途端に、目の前にいる華夜乃を富樫は抱きしめる。
不意打ちされた華夜乃はなすすべもなく、そのままなだれ込むように富樫の胸に抱き寄せられた。
「ちょっとっ―」
抵抗するものの、富樫の力に華夜乃のか細い腕が勝てるはずもなく、そのまま座っていたベッドへと押し倒されてしまった。
華夜乃とて、この状況がわかっていないわけでもない。
富樫そのものに興味がなくなってしまったということもあるが、何より王妃が決まる時を前に、別の男とこのような状況になっているところを他の誰かに見られでもしたら、王妃はおろか、この桜王宮から追い出されるに違いなかった。
しかし、軽く声をあげたところで、いるはずの護衛の騎士たちもやってこないというのはどういうことなのだ。
富樫はもがく華夜乃をしばし眺めながら、恍惚の表情を浮かべて華夜乃に話しかけてくる。
「あなたが桜稜殿に行った時は、私もすぐに向いたかったのだが、戸田が私の担当をこの花琳舎としてしまっていて、離れられなかった。
けれど、待っていた甲斐があった。こうしてあなたと、再び会うことができたのだから」
戸田がそうしてら富樫を引き離すようにしたのは、考えあってのことだった。
が、それが富樫の思いを募らせる結果となってしまった。
富樫が冗談ではないと気づくと、華夜乃はもがくのを止めると、富樫の顔を睨みつけながら尋ねた。
「…他の見張りの騎士はどうしたの？」
「担当は、私になりました。他には誰もいない」
ふっと富樫は微笑みながらそう答える。
富樫からは、薔薇の濃厚な香が漂い始めている。
誰もいない。
つまりは、二人だけということ。
華夜乃は再び、目の前の富樫の顔を見つめた。そんな華夜乃に応えるように富樫は微笑む。
その笑顔に、華夜乃は思い出していた。
桜稜殿で華夜乃を追いかけてきた富樫。
花琳舎の廊下で、思わず華夜乃を強く抱きしめた富樫。
会えないことの寂しさを、切ない声で訴えていた富樫。
そして、かつて緋薔館にて、何度も愛し合ったことを。
この男は、私を欲しているのだ。
抵抗しなくなったことを悟ってか、富樫は押さえつけていた華夜乃の右腕を放した。
しかしその瞳は、じっと華夜乃を見つめている。その瞳の奥にある恋情を、再び華夜乃は感じ取った。
それは、桜王宮に来てから華夜乃が忘れかけていたものだった。
「…そう」
ため息がこぼれるように華夜乃はそう呟くと、自由になった右手で、そっと富樫の頬に触れる。
そしてそのまま華夜乃は手をそっと動かし、唇に触れると、富樫は愛おしそうにその指に口づけした。
再び視線が絡み合うと、そのまま二人は深くベッドへと沈んでいった。
「日向？いるのかよ？」
ランプが部屋の中央のテーブルに置かれていたが、その部屋には他に人の気配がしなかった。
この部屋は、応接間として使われていたらしく、中央にはソファとテーブルが置かれている。
正面には、天井から床へと続く大きな窓があり、少しあいた隙間から、月明かりが部屋を照らしていた。
しかし、ぐるりと見回してみたものの、人の気配は全くと言っていいほどない。
あいつ、どこかに隠れてるっつーのかよ。
「ひゅ―」
しずかがもう一度日向の名前を呼ぼうとしたところで、背後の扉が音を立てて閉められた。
え？
慌てて扉に向い、開けようとするものの扉はびくともしない。
どうやら鍵を外からかけられたらしい。
どういうことだ？
しずかは息をのむと、再び部屋の中をぐるりと見回した。
相変わらず人の気配はない。
それでもしずかは注意深く見渡した。
埃だらけのシャンデリア。
壁際に置かれた鏡には、蜘蛛の巣がかかっている。
だけど、どうしてこんなところにあたしを閉じ込めるんだ？
誰が？
何の為に？
その時、カサカサと何かが動く音がした。
「誰だっ」
しずかは思わず叫んでその方向にランプを当てる。
しかし灯りの中に映ったのは、小さなネズミだった。ネズミは鳴きながら、暗闇の中に消えて行った。
「…なんだよ、びっくりさせるなよ」
しずかは大きくため息をついた。
冷静になれ。
閉じ込めたのは、きっと、あたしを王妃にしたくない奴等の仕業だ。
じゃあ、誰？
そう思ったところで、しずかは自然と笑みをこぼした。
思い当たる相手が居すぎて、誰だかわかんねぇよ。
しっかし、あんな手紙にだまされるなんてな。
手紙…そういや、あの手紙はどこから届けられたんだ？
蓬が持ってきたんだったけど、そういや玄関に置かれてたとか言ってたっけ？
いや、そんなことよりここを出ないと。
しずかはすくっと立ち上がる。目の前には大きな窓があるのだ。
そして窓辺に寄ろうとした時、何かが窓にぶつかり、ガラスが激しく割れる音がした。咄嗟に身をかがめたしずかが、再び窓を見た時には、ボッという音とともにカーテンが赤く燃え上がっていた。唖然とするしずかの前で、火は燃え広がり、カーテンだけではなく、近くにあった調度品にも火がつく。床に転がった瓶を見て、しずかはその火の廻りの速さに気づいた。
誰かが、火と油を投げ入れたのだ。
「…冗談じゃ、ねぇよ」
閉じ込められた唯一の出口に火が放たれ、しかも部屋を燃えつくそうとしている。
このままでは、しずかまで焼け死ぬことになる。
「ちくしょーっ、開けろよっ、おいっ。開けろっつってんだろっ！」
叫びながら、しずかは再び扉を開けようとしたが、やはり鍵がかかっており、びくともしない。
しずかの鼻を、煙が掠めた。背中を汗が伝うのがわかる。
「畜生っ、開けろってば開けろ！」
足で扉を蹴ってみたが、古びた館というのに扉だけは頑丈な作りのようだった。
こうなったら、壊すしかねぇな。
しずかは再び部屋を見回した。
何でもいい、こいつをぶっ壊せるようなもの…。
だが、そうやって視線を馳せるしずかが見つけたのは、窓の向こうで佇む人の姿だった。
黒いマントを羽織った人物は、手にランプを持ったままじっと中の様子を見ている。
「おいっ。犯人はお前かっ。
出せよっ、ここ開けろっっ」
しかししずかがそう怒鳴りつけると、マントの男ははっと気づいたように森の中に消えて行った。
「おい待てよっっ、ケホケホ…」
慌てて口を手で覆う。
火の勢いもだが、煙も部屋中に充満しつつあった。
やべ、ほんとに出れないと…。
その時、バンッという激しい音と同時に、扉がいきなり開けられた。
だが誰も入ってくる気配はない。
誰が？
それとも罠か？
踏み出そうとした足を一旦止めてそう思ったしずかだったが、すぐに胸が苦しくなり、急いでその扉から出た。
建物からも出たところで、しずかは地面にしゃがみ込み、大きく深呼吸をした。
火はすでに建物全体を飲み込み始めている。
ようやく安堵の溜息がつけると思ったところで、しずかは森の奥に遠ざかっていく灯りを見つけた。
あいつが犯人か？
しずかは急いで馬に乗ると、そのまま灯りを追いかけた。
月が綺麗な夜だった。
だが雅は考え事をしていて眠れないでいた。
あの晩聞こえてきた会話が、今も雅の中に消化されずに残っている。
『皇帝陛下とやらを、桜王宮から抜け出させた時から、計画は変わったんだよ』
相手の男が言っていた言葉。
一番ひっかかったのは、それだ。
有世を、桜王宮から抜け出させた時。
抜け出させた時、確かにあの時そう言っていた。
公式なものであれば、有世には必ず護衛として近衛がつく。
それをつけずに、つまり抜け出すには、それなりに身を隠さなければならない。
そう、近衛の格好をするとか。
抜け出させた時、それはつまり、自分が有世と会った時ではないか。
つまり、有世があの時約束をしていたのは、成瀬日向ではなかったのか。
しかし、そこで雅の中に疑問が起こる。
皇帝陛下ともあろう人物が、隊長とはいえひとりの騎士に、それほどまでに肩入れするものであろうか。
雅とて、巷の噂を聞いていないわけでもない。
つまり、日向が有世にとって信頼の厚い特別な騎士であったということ。
その一方で、先の妃である佳乃も、日向とただならぬ間柄にあったのではないかという噂。
しかし、事実として日向は有世を裏切る行為にでる。
華夜乃の強奪だ。
仮に、佳乃との仲が恋仲だったとしたら、この行為は佳乃にとっても裏切りになるはずだ。
それなのに、有世は日向を許し、水仙組を与えた。
…むしろ陛下は、成瀬日向に頭が上がらないのかもしれない。
ふとそんな考えが雅の脳裏に過る。
だけど、どうして…？
混乱する頭を整理しようと、雅は立ち上がり深呼吸をし、窓辺に立った。
それに、計画ってなんなのかしら。
成瀬日向は、いったい何をしようとしているの？
「…あ」
その時、深い暗闇の中の一点に、雅は目を奪われた。
その炎は、夜の森の中でひときわ目立っていたのだ。しかも、雅の記憶が正しいならば、その方向には成瀬日向がその仲間と密会していた場所がある。
「碓井さんっ、碓井さんはいらっしゃるかしら？」
雅は慌てて扉を開け、脇にいた護衛の騎士に向ってそう告げた。騎士の一人が階下に向い、少ししてやややつれ顔の碓井が現れた。
「どういたしました？姫」
雅は無言で碓井を窓辺に立たせると、そのまま火の上がっているところに指を向ける。
「どうやら火事のようなのです」
碓井はその方向を目を凝らして見ると、ああとため息ともとれる息をもらした。
「あれは、旧・柏男爵邸でしょう。人は住んでいないので、特に問題はないとは思いますが。
火が廻って他に被害が出るようでは困りますね。近衛にでも報告しておきましょう」
「旧・柏男爵邸？」
雅の問いかけに、ええと碓井は頷いた。
「今は空席である柏男爵の邸宅跡です。今は誰も住んでいませんよ」
「本当に？」
外には布をかけ、改装中だった様子を思い出して雅はそう聞き返す。碓井は不思議そうな表情をしながらも、
「ええ。桜王宮においては、それぞれの爵位にあわせて邸宅は用意されていますし、空位になったからといって、他の者がその領地を取ることは陛下が許さない限りできないことになっていますから」
と答えた。
であれば、あの改装工事は、誰が行おうとしているのだろうか。
俯いた雅に、碓井は微笑みながら言う。
「とにかく、火事のことはきちんと伝えますから。姫は安心して眠りについてください。
五日後の投票の際には、一番お美しい姫でいてもらわねばなりませんからね」
王妃の投票が決まってから、相変わらず百合の騎士たちは揺れている。
辞退すべきという森たちと、ここまで来たのだからすべて陛下と花族の意志に任せようと言う碓井たち。
しかし、情勢は森たちに味方している。
碓井も厳しいとは知りながら、雅に向って明るく言うのは、気遣ってのことなのだ。
「…わかりました」
雅はおとなしくそう答えた。
五分といかないところで、しずかは犯人と思しきマントの男に追いついた。
「おいこらてめー、待ちやがれっ」
しずかはすぐさま馬から降り、男を追いかけた。
男は思ったほど足は速くなく、ほどなくしてしずかは相手のマントを掴むと、そのまま勢いよく手繰り寄せた。
男のランプが床に転がり、甲高い悲鳴とともに、男はその場に倒れ、しずかも抑え込む様に男の上にのしかかる。
「火をつけたのはてめぇかっ？」
薄明かりに照らされたその時、初めてしずかは相手の男が仮面をかぶっていることに気づいた。
黒いマントに、鉄のような仮面。
「お前…もしかして、楓子爵？」
至近距離で見るのは初めてだったが、動きが一瞬止まって、本人なのだとしずかは悟る。
楓子はひどく華奢で、しずかが本気を出せば折れてしまいそうなほどに腕は細かった。
腕を押さえようとしたところで、楓子の手がしずかの顎に当たり、思わずしずかがのけぞる間に、楓子はしずかを突き飛ばすと、必死で逃げだそうとした。
「おいこらっ、待てってばっ」
右腕を掴むと、楓子は悲鳴をあげて、再びその場に崩れかかる。
どうやら先ほどの火事で、右手に火傷を負ったようだった。
とはいえ、同情する余地はない。しずかは再び楓子を抑え込もうとした。
「火をつけたのは、お前か？
あの薄気味悪い公爵の仕業か？っ、おい―」
しかしそこで思わずしずかは息を呑む。目の前の楓子が、いきなり短剣を向けてきたのだ。震えてはいるが、その剣先は確かにしずかに向っていた。
「…冗談だろ」
思わずそう呟き、数歩下がるものの、楓子は一歩も下がる気配がない。
こいつ…本気だ。
しずかはごくりと唾を飲み込んだ。
抜刀が禁止されていることもあり、当然姫であるしずかは剣を持たされてはいないのだ。
そうでなくとも丸腰のしずかは、圧倒的に不利とも言えた。
やばい、かも。
しかし、楓子はいきなりしずかに向って飛び込んできた。慌てたしずかだったが、軽く交わすと、手刀でもって、楓子の右手を叩く。
「あっ」
小さな叫び声とともに、短剣は呆気なく地に落ちた。
その声の高さに疑問を持ちながらも、しずかは素早くその短剣を奪うと、再び楓子を地面に押しつけ、その首に短剣を突きつけた。
「あたしを焼き殺そうとしたのは、お前だろ、楓子」
楓子は顔を逸らす。しずかは怒りを堪えながら話を続けた。
「桂公爵の命令か？どうなんだよっ」
すると楓子は素直に首を横に振った。
何だよ、違うのかよ。
じゃ、こいつの単独犯か？それとも？
「…じゃ、誰が仕向けたんだ？」
再び楓子は首を振る。
仮面に隠れた表情の中で、唯一覗いている目には、嘘がないように思えた。
「…それじゃ、お前の単独犯ってわけかよ」
吐き捨てるように言うと、その目に涙があふれ出てくるのが見えた。
…なんだこいつ、まるで…。
そう思ったところで、しずかは息をのんだ。
そういえば、さっきの声。あれも、まるで。
まるで、女みたいだった。
そう言われて考えると、今しずかの下にある華奢な体も、そう思うと納得がいく気がした。
まさか。
しずかは手を伸ばすと、一気にその仮面を剥ぎ取る。
「…あっ」
小さく声を上げたのは、楓子ではなく、しずかの方だった。
「あんた…」
覚えている。忘れようがなかった。
「あんた、日向の―」
恋人、という前に、楓子はしずかを再び付き押すと、慌てて立ち上がり、逃げだして行った。
しかししずかは、追いかけることはしなかった。
手に残された仮面と、涙を流した女の表情と、日向のつながりが、見えないまましばらくその場に座り込んでいた。
疲れきった体で貴丹舎に戻ると、階段に日向が座り込んでいた。
「どこに行っていた。
この大事な時に」
腕組みをしたまま、日向はそう言ってしずかを見つけるとゆっくりと立ち上がった。
感情を隠したその表情が、さらにしずかを苛立たせた。
「…お前こそ、どこに行ってたんだ。
恋人のところか？」
ちらりと見上げるが、日向は表情ひとつ変えずに答えた。
「だったら？」
嘘だ。
こいつが、そう簡単に本当のことを言うわけがない。
しずかはそう心の奥で思いながら、日向の立つ階段を上っていく。
「…次会う時には、蓬の草でも持って行ってやるんだな」
「どういう意味だ？」
「何でもねぇよ」
蓬の草は火傷に良いんだと、いつか蓬が自慢げに話していたことを思い出したのだ。
しかし、そんなことを思い出してもしずかの心が休まるはずもなかった。
混乱のさなかにあって、しずかは何を信じたらいいのか、まだわからずにいた。
楓子爵が、女だったこと。
しかも、日向の恋人だったこと。
そして、その恋人に、自分が殺されかけたこと。
もしかしたら…それに、日向も関係してるかも知れないということ。
最後の考えは憶測でしかなかったが、それでも完全に否定はできないとしずかは思っていた。
となれば、こいつは敵になるのだ。
無言のまま、日向の脇を通り抜けようとしたところで、ふいに日向の手がしずかの頬へと伸びる。
「待て。頬が黒くなってる。何を―」
「やめろっ」
しかししずかはその手を払った。
そして激しくにらみ返したものの、しずかはすぐに視線を日向から逸らした。
「…疲れた。もう寝る」
それだけ言うと、しずかは黙り込んだまま部屋へと向かった。