THE FLOWER GARDEN
百花繚乱の章11
暗闇の中、ひとつ揺らめくろうそくの明りを見つめながら、桂公はグラスを回す。
濃厚な香が、鼻をくすぐった。
だが、思わず笑みがこぼれたのは、決して美味しいワインのせいではない。
グラスを明りに照らされたその深紅に、桂公は一昨日の出来事を思い返していた。
それは、桂公も予測はしていたことではあった。
「椿の宮のお気持ちはわかります。ですが桔梗の宮は、自分のお決めになっていることが正しいと思われている。
貴女が何を言っても、きっと聞いてはくれないでしょう」
桂公は穏やかにそう応えるものの、目の前の椿の宮は、珍しく苛立ちを隠しきれない様子で口を開いた。
「ですから、貴方に頼んでいるのです。貴方と桔梗の間に交わされた約束を、反故にしていただきたいと」
その日、椿の宮は突然桂公のところにやってきた。人目を避けてか、椿の宮は珍しく黒い洋装をしていた。
夜であるのに顔も隠れるようにと、つばの大きな帽子を被っている。
目の前に対峙していても、はっきりと見えるのは口元の赤い紅だけだった。
だがそんな姿でも、美しい。
桂公はそう思いながら、淡々と応えた。
「貴女からの願いであれば、何でも受けるつもりではあります。
仮に約束を破れというのであれば、そうもいたしましょう。
ですが、その場合、桔梗の宮が誰を恨みに思うのか。
きっと、貴女を恨みに思うでしょう」
残されたのが、たった二人の姉妹だけだったからか、
そうして行き場を無くしてしまった為なのか、
それとも別に理由があるのか。
その真実は、桂公は知らない。
ただ、椿の宮が、どんなことをしてでも桔梗の宮を守ろうとしていることは、桂公もよくわかっていた。
微かに震える肩を見つめながら、桂公はゆっくりと立ち上がる。
「であれば、貴女や私の意志で反故された、ということにしなければよい」
俯いていた椿の宮がすっと顔を上げる。
そして、押し殺した声で尋ねた。
「…どうやって」
桂公は微笑むと、そのままくるりと振り返り、椿の宮に背を向けた。
「成瀬日向が、本当に桔梗の宮を愛しているとお思いですか？」
「そうであれば、貴方のところに相談などしに来ません」
その答えを聞いて、桂公は声を強めた。
「では、貴女はこうお思いでは？
成瀬日向は、あの野猿の姫を愛している、と」
背後の気配が、少し和らいだ。
そして、椿の宮はぽつりと答える。
「ご存知でしたの」
桂公はその問いかけには答えずに、言葉を続けた。
「成瀬日向に陛下からあの女を奪うように仕向ければよいのです」
深いため息がこぼれた。
「しかし、そう易々とこちらの思惑通りに動く相手ではなくて？」
椿の宮がそう考えたのも無理はない。
桂公も認めたくはないが、成瀬日向はこの桜王宮でも一、二を争う策士である。
時に読めない動きもするが、それは全て綿密に計算されたものなのだと、気づいた頃にはもう術中に嵌っているのだ。
しかし、それゆえに、桂公にはその計算の中枢にあるものが、見え始めていた。
「そうでしょうか。
私には、成瀬日向には、ごく普通の人として当然の感情を持ちえている人間と見えます。愛する人が、裏切られ、落ち込んでいる姿を見れば、手を差し出さずにはいられないような。
そう、白鳥華夜乃が現れた時のように」
椿の宮が息を呑む音が響く。
「どういうことかしら」
桂公は、持っていた扇を広げると、再び椿の宮に向き直った。
強い香が、鼻をくすぐる。
「妃には、別のものが選ばれます。それも、陛下の納得した形で。そうなれば？」
そうなれば、しずかは有世と別れなければならなくなる。
有世も立場上、しずかを守れなくなれば、しずかはこの桜王宮からも追放され、水仙組は解散し、たった一人取り残される。
そうなったしずかを、日向がそのままにしておくとは、思えなかった。
「…そうかも、しれませんね」
椿の宮がそう呟く。その表情は硬かったが、決して否定をしている様子ではなかった。
桂公はにっこりとそんな椿の宮に話しかけた。
「妃という座に求める考えは、我々は一致しています」
「どういうことでしょう」
桂公はゆっくりと椅子に戻ると、堂々とそこに座り、足を組む。
そして、自信に満ちた表情で口を開いた。
「この世界を変えぬこと。そうではありませんか？」
あの時の、自分を見つめた椿の宮の表情を思い出しながら、桂公は再び、グラスを傾ける。
心地よい揺らぎを感じながら、桂公は再び微笑んだ。
これで、薔薇に一票。合計で、三票。
仮に残り二票が水仙に入ろうと、妃にはなれまい。
そうしてこの桜王宮には、以前と同じく穏やかな日々が訪れるのだ。
桔梗は、手に持つ手紙を、無意識のうちに握り締めていた。
今宵来るはずだった日向が、来れなくなったというのだ。理由は、一週間をきったお妃選びの為だという。
妃になるのは、桂公が推す薔薇の姫に決まっている。
今更何をしても、そんな状況は変わるはずもないというのに。
また、あの水仙の姫のことで、会えないなんて。
桔梗は深いため息をついた。
毎日でも会いたいと思う桔梗の気持ちと、日向とは同じ強さではないのかもしれない。
そう思うと、やはり心が締め付けられた。
ふいに外で物音が聞こえたように思えた。
日向？来てくれたの？
心の奥底で期待をした桔梗は、そのままふらふらと庭に出て行った。
月が明るく照らしているものの、門の向こうに日向のやってくる気配はない。
再びため息をつくと、微かに木々が揺れ、男の声が聞こえた。
「まさか、こんなところに、こんな可愛らしい姫がいるとは」
「誰？」
慌てて振り返ると、そこには見たことのある人物が立っていた。
青い制服を纏った、菫組隊長・鞍馬だ。
「あなた…。
どうやってここに入ったの。人を、人を呼びますよっ、睡蓮っ、睡蓮は居ないのっ？」
桔梗は慌てて振り返ったが、夜遅いためにか窓辺には人の気配はない。
そんな桔梗の様子を見て、鞍馬がニヤリと微笑んだ。
「何、いくら人が来ても、すべて女であれば、私の相手にはなりませんよ」
ゾクッとするほどの美しい笑みに、桔梗は震え上がると慌てて部屋に戻ろうとした。
「誰かっ」
だがその前に、鞍馬が立ちはだかる。
「そんなに怯えることもないでしょう。何度もお会いしたことがあるというのに」
「っ」
驚きから桔梗の手から、手紙が落ちる。
鞍馬は恭しく片膝をつくと、桔梗に深く頭を下げた。
「もっとも、素顔のあなたにお会いするのは、初めてですね、楓子爵」
その光を見つけた時、雅はなんだろうかと思った。
なかなか眠ることが出来ず、水をと思って下に下りたところで、その光は庭先をまさに過ぎったところであった。
うっすらとではあるが、揺れ動くその光は、しかしそのまま雅から遠ざかっていく。
月明かりが綺麗な夜だった。
雅の居る荷葉舎は、すでに深い眠りについている。
ついに、妃が一週間後の投票で決まる話は、雅の耳にも入ってきていた。
だが、それに対しての百合組の動きは何もない。
名誉のために、その前に辞退を申し出ようとする森たちと、それを留めたい碓井たちの話し合いが、相変わらずついていないのだ。
柊伯爵への雅の引渡しも、柊伯爵の死によって、白紙となった。
ただ、雅はそのことを知らないことになっている。
本当ならば、すぐにでも碓井にあの夜の出来事を打ち明けてしまいたいのだが、それ以外にも碓井の仕事は大変らしく、毎日疲弊している姿を見ていては、余計な心配をかけたくなかった。
光は、一瞬見えなくなったかと思うと、ふいに遠くの方に現れた。そして、更に動いていく。
誰か、いるのかしら。
見張りの者？近衛？
しかし、そう思った雅の脳裏には、有世の言葉が過ぎる。
近衛が有世の監視役であるならば、きっとあれは近衛ではない。
だとすると、誰が？
…もしかして、しずかさん？
思わず雅は、身を起こした。
有世の言葉からすると、しずかも『けじめ』をつけたいと思っているのだという。
だとすれば、きっと自分に会いに来るはずだ。
今までのしずかならば、必ずそうして来た。
だが次の瞬間、雅は戸惑い、その場にしゃがみこんだ。
自分は、しずかを受け入れることが出来るのだろうか。
自分の愛している人が、有世が、愛している人なのだ。
赦せるのだろうか、しずかを。
祝福して、応援してやれるのだろうか、しずかを。
『全てを認め、全てを許し、愛する人を愛す。
それもひとつの人生とは思わないでしょうか』
夏目の言葉が、雅の胸を衝く。
そう。
しずかさんは、決して私の敵ではない。
雅は今までの出来事を思い出した。
いつだって、しずかは雅の為に、雅を守ろうとしてくれていたのだ。
そう。
私が、陛下を愛していることと、
陛下がしずかさんを愛していることは、
相対立するものではないのだ。
雅は、すくっと立ち上がった。
いつまでも待っている場合じゃない。
今度は、私からしずかさんに会いに行くのだ。
胸元にあるしずかからのペンダントを握り締めると、雅はそっと部屋を出て行った。
悩んだ挙句、桔梗は鞍馬を部屋にいれることにした。
他の男の人と話している姿を、やってくるかもしれない日向には見せたくはなかった。
無論、距離は大いに空けた。睡蓮も同席させたかったが、全て話が椿に筒抜けになってしまうのが嫌で、ひっそりと部屋に入り、明りもつけずに居た。それでも窓から、充分すぎるほどの月明かりが部屋には差し込んでいた。
鞍馬は値踏みをするように、部屋を見回してから最後に視線を桔梗に戻した。
「とある方から、お話を伺ったのです。まさか、と。
嘘だと思うなら、確認しろと言われて、参った次第です」
貴緒のことだとすぐに桔梗は気づく。
そもそも、自分のことを知っているのは、他に椿と桂公、日向くらいしかいないのだ。
幸運なのは、それでも鞍馬が自分の本当の名前を知らないことだった。睡蓮を呼ばなかったのは、そういう理由もある。
それにしても、と思わず顔を顰めていると、鞍馬が笑って答えた。
「あの方は、恨まない方がいい。ただ、無邪気なだけのお人だ。私以外に、話せる相手もいまい」
「恋人なの？」
宴で会う時には、貴緒が熱い視線を鞍馬に向けていたことを思い出し、桔梗はそう尋ねた。すると、鞍馬は腕組みをして答える。
「恋人かどうか、それは本人たちにもはっきりとはわからないことなのでは？
あなたと、成瀬日向のように。所詮は他人。相手の心などわからない」
厭味な言い方に、思わず桔梗も言い返す。
「私と日向は…恋人同士です」
勢いで、全部貴緒に話してしまったことを、桔梗は後悔した。
鞍馬の言う通り、貴緒の話し相手が鞍馬だけだったとしても、その鞍馬が他の誰かに言わないとは限らないのだ。
どうしよう。
桔梗はその時初めて、目の前の鞍馬を見据えた。
視線がぶつかると、鞍馬はにっこりと微笑む。思わず桔梗は顔を赤らめて俯いた。
「先ほど、陛下がいらっしゃったようですね。何を話されましたか？
是非、水仙の姫に一票を、と？」
「どうして…」
ハッとして顔を上げると、先ほどと寸部も違わぬ作り物のような笑顔の鞍馬がいた。
「陛下は、水仙の姫を贔屓にしていることは、桜王宮内では有名な話。で、楓子爵は何と？」
一瞬口を開きかけた桔梗だが、気づいたように口を閉ざす。
迂闊に口を開けば、どうなるか、貴緒の件でわかったはずなのに、と思い返したのだ。
黙りこむ桔梗に、心の中で舌打ちをしながらも鞍馬は笑顔のままで続けた。
「大方、桂公爵のことを話されたのでしょうね。まあ、それも仕方ない。誰にとっても、陛下より、桂公爵の方が恐ろしい存在だ」
小馬鹿にされた気がして、思わず桔梗も言い返す。
「ええ。ですから菫の姫には、票は投じられません」
「確かに、楓子爵からすれば、そうですね」
動じない鞍馬に戸惑ったのは、逆に桔梗の方であった。
鞍馬は一転して、眉間を潜めて深刻な面持ちで答えた。
「実はそれでお願いに参ったのですが、貴女を見て、気持ちが変わりました。
あまりに哀れだ、貴女は」
思わず桔梗は尋ね返した。
「…どういうこと、でしょう」
鞍馬は立ち上がると、窓の前に立ち、くるりと桔梗の方を振り返った。
「桂公爵は、おそらく薔薇の姫の票を三票と見ている。当然、貴女の票も入れてね。
そして、妃には薔薇の姫が選ばれる。
桂公爵の権力はますます強まり、目の敵にされていた水仙組は解散、姫は追放、隊長である成瀬日向も、この桜王宮を去っていくことでしょう」
その言い方に、思わず桔梗も立ち上がって反論した。
「日向はっ、日向は私のところに来ますっ、そう約束したんですっ、桂公爵様もご了解済みだわっ」
その瞬間、鞍馬の目が笑ったが、桔梗はそれに気づくことなかった。
声を荒げた桔梗に、鞍馬はいっそう落ち着かせる声でゆっくりと言い返す。
「そうでしょうか？」
「どういう意味でしょう」
桔梗の問いかけに、鞍馬は腕組みをして、顎に手を当てると、もったいぶったようにして尋ねた。
「楓子爵は、水仙の姫と、成瀬日向の関係を疑ったことは？」
思わず桔梗の表情も強張る。
疑ったことは、ある。現に今だって。
「…でも」
日向は違うといったのだ、と続けようとしたところで、鞍馬が口を挟んだ。
「では成瀬日向は、貴女に、水仙組に票を入れるよう頼みましたか？」
手紙は来たが、それについては一切述べられていなかった。
今までも、そう働きかけるようなことは、日向の口からは一切言われたことがない。
「…いいえ」
するとくくっと鞍馬が声を上げて笑う。
「おかしな話だ。陛下の一票は確実、おそらく懇意にしていた椿の宮様も、水仙に票を投じる。となれば、水仙組の隊長である成瀬としては、あと一票が入れば、妃の座を手に入れられることになる。
私がその立場なら、貴女に土下座してでもお願いするでしょう。恋人ならば尚更。
だけど、彼はそうしない。何故か」
畳みかけるように語る鞍馬の前で、桔梗は息を呑み、次の言葉を待った。
「答えは簡単。彼自身それを望んでいないのだ。
心の中では水仙の姫が、陛下のものになってしまうのを、拒んでいる。
そんな状況で、水仙の姫が一人になれば、きっと追いかけていくに違いない。例え、貴女との約束があろうとも」
気づけば桔梗はその場に座り込んでいた。
鞍馬の考えは、たったひとつの真実のように思えた。
やはり、水仙の姫がいるから、日向は自分のところには来ないのだ、と。
そんな桔梗の様子を見て、鞍馬は声を出さずに笑うと、ひっそりと囁くように言った。
「でも、たったひとつ、成瀬日向を手に入れる方法があります」
「どんなっ」
縋るような目で見つめられ、鞍馬はそんな桔梗を見下ろしながら笑顔で答えた。
「水仙の姫を彼の手の届かない存在にしてしまえばいいのです。佳乃様のように。陛下のお妃に」
荷葉舎を抜け出した雅は、光を追いかけていた。
光は、時に揺らぎ、時に朧げになりながらも、道標のように雅の前に輝き続けた。
しかし、次の瞬間、光はすっと煙のように消えていく。
ここは？
気づくと目の前には、改装中の建物がある。
見たところ、人が生活をしているようには思えなかった。
雅がじっと見つめていると、窓に何か影が過ぎる。
『魔物か亡霊がいるんじゃないかって』
一瞬、菖蒲のそんな言葉が頭を過ぎった。
しかし、魔物が灯りを持つのだろうか。
止まった雅の足を進めたのは、しずかの存在だった。
しずかさんなら、どうするのだろうか。
ここで、引き返すのだろうか。
…いいえ、彼女なら。きっと進んでいくに違いない。
そこにしずかがいるという確証はなかったが、それでも雅は進むことにした。
自然と手が、ペンダントを握り締めている。
ギシギシと言う床に気をつけながら、雅が中に入っていくと、ふいに掠れた声が聞こえた。
「待ってくれ」
咄嗟に雅は足を止めた。
聞いたことのある男の声だったが、誰だかはわからなかった。
すると今度は別の声が聞こえてきた。
「もう待てるはずがないだろう。状況をみればわかる」
別の男の声が聞こえてきた。低く、落ち着いているその声を、雅はまったく聞いたことがなかった。
しかし、二人の声にはある種の緊張感が漂っていた。
張り詰めた空気の中で、脅すように男の声が響く。
「皇帝陛下とやらを、桜王宮から抜け出させた時から、計画は変わったんだよ」
「そんなことはない。軌道修正はできているはずだ」
「俺もそう思っていた。だけどな、あれから、いったいどのくらい経ったんだ。え？日向」
日向？
水仙の、成瀬日向？
男の言葉に、雅は納得をした。
確かに掠れた声は、成瀬日向の声だった。
助けを求めた雅を、切り捨てた声だった。
動揺から、思わず雅は窓枠に手をかける。だがその手は窓枠を掴みきれず、静まり返った中でガシャガシャと硝子と木がぶつかり合う音が響いた。
扉が開き、しゃがみこむ雅の前に、驚いた表情の日向が立っていた。
その向こうで、誰かが動くのが微かに見える。
日向は、あの時と同じく、雅に手を差し出す風もなく、ただ見下ろしていた。
その表情からは、何も読み取れなかった。
「あなたは…。いったい何をしようとしているの？」
渇いた喉から、雅は搾り出すように声を出した。
何を待てと言っているの？
どういう状況だというの？
陛下を抜け出させたってどういうこと？
…いったい何を、考えているの？
日向は、黙ったままに雅に手を差し伸べると、そのまま雅を起き上がらせた。
「これ以上詮索しないほうがいい」
月明かりに照らされた日向の表情は、しかしながら苦悩が滲んでいるように思えた。
雅がごくりとつばを飲み込み、そんな日向をじっと見つめていると、日向もそれに気づき、一瞬ではあるが視線を雅に向け、続けた。
「でなければ、身の保障はない」
目を見開いた雅を置くと、そのまま日向は暗闇に消えていった。