ハッピバースディ、トゥ、ユー、と歌っていたら、周りを歩く人たちにじろりと見られた。
　それも当然なのかもしれない。
　だってここはお墓で、どう考えてもケーキにろうそくを立てて、バースディソングを歌うGパン姿の僕は、浮いていた。
　けれど、どうしても今日、僕はここに来たかった。
　裕子さんの命日。
　それはつまり、奏の誕生日。
　少しだけ大人になった奏を思い浮かべて、僕は裕子さんのお墓の前で目を閉じて祈る。
　ハッピーバースディ、奏。
　１９歳おめでとう。
　この年が、君にとって、幸せな一年でありますように。



　河野さんからもらったウィーン行きの航空券は、いわゆるオープンチケットというもので、決まっているのは行き先というだけのチケットだった。
　けれど僕はそれを使わずに、日本に来た。
　久しぶりの日本の夏の暑さに僕は汗をかきながらも、まず最初にここにやってきた。
　うだるような暑さの中で、僕はシャツの袖を巻き上げると、まじまじと裕子さんの墓石を見つめて溜め息をつく。
　この先、僕はどうしたらいいんだろう。
　河野さんには休暇を、なんていったけれど、実際の僕はいつも休暇中みたいな生活をしていたわけで。
　あの時はただ逃げ出したい気持ちでそう言っただけ。
　今もそう。
　ニューヨークを逃げ出して、日本に戻ってきたけれど、行く先なんてないのだ。
　もう一度溜め息をついて、立ち上がろうとした僕の背中に、ふんわりと柔らかなものが勢いよく抱きついた。
　何だろうと思う前に、大人の女性の声が聞こえてきた。
「こら、しょうた！すみません」
　振り返ると、僕の背中に小さな男の子が抱きついていた。
　そして戸惑っている僕に気付くと、愛想よくにっこりと天使みたいに笑う。
　慌てて走ってきた僕と同じ年くらいの、母親らしき女性の人の手から逃げるように彼は、僕の隣で腕を掴んで言った。
「おじちゃん、歌って」
「え？」
「歌って、はっぴばーでのおうた」
　咄嗟のことで頭の回らない僕に、母親が頭を下げながら答える。
「すみません。さっき、歌ってたのをこの子が聞いてたみたいで。
　ほら、しょうた、帰るわよ」
　彼の言った歌が、ハッピーバースデーの歌、なのだとようやくわかったところで、彼は母親に手を引かれて、僕から手を離した。
「いやいや、おうた聞く」
「我儘言わないの、しょうた」
　母親にそう言われて、彼は今にも泣きそうな表情を見せた。
「いいですよ」
　泣かれたら困る、というのもあったし、
　それくらいで、というのもあって、僕がそう答えると、母親は戸惑った表情を見せた後に、すみません、ともう一度頭を下げた。
　僕は振り返り、彼に向ってバースデーソングを歌う。
　ディアしょうた、としたのは、ちょっとしたリップサービスだ。
　歌い終わると、しょうた君は満足そうに笑みを浮かべながらぱちぱちと小さな手で拍手をしてくれた。
　けれど、しょうた君のママは、何故だかぼろぼろと涙を流していたのだ。
「え…と」
　戸惑ったのは当然僕の方で。
　いくら僕がCDを何枚か出している歌手だったといっても、人を感動して泣かせるほど歌がうまいわけじゃないし、そもそも最近は歌えていないから声の調子はひどいはずだ。
　それなのになぜ？
　いくら考えても、僕がしょうた君のママを泣かせる理由がまったくわからなかった。
　戸惑い続ける僕の前で、しょうた君のママは何度も頭を下げた。
　バックから取り出した白いハンカチで、あふれ出る涙をぬぐいながら。
「すみません。ほんと、すみません。
　亡くなった主人のこと、思い出してしまって」
　それ以上、しょうた君ママは何も言わなかったけれど、僕には何となく想像ができた。
　きっとここに来たのは、しょうた君のパパのお墓参りのためなのだと。
　すみませんでした、と涙を拭って出口へと向かうしょうた君のママに、結局僕は何も言えずにいると、ふと気付いたようにしょうた君のママが振り返って僕に尋ねた。
「あの、失礼ですが、音羽心平さんじゃないですか？」
「あ…はい」
　隠すことではないから素直に答える。
　もう三年近くも前のことだけれど、テレビの影響ってすごいんだなと、あらためて思った。
「音羽さんの歌、主人が大好きだったんです。
　最近は、歌は出してないんですか？」
　大人の事情でとか、適当にごまかすこともできたんだろうけれど、しょうた君の真っ直ぐな視線で見つめられた僕は、素直に答えることしかできなかった。
「…その、歌えなくなってしまって」
　頭をぽりぽりとかいていると、しょうた君のママの視線が僕の後ろに一瞬だけ逸れた。
　そこにあるのは、裕子さんのお墓だ。
「もしかして…大事な人を、亡くされたんですか？それで…？」
　歌えなくなってしまったんですか？
　そう言われる前に、僕は素直に答えた。
「いいえ。いや、彼女も大事な人ではあるんですが、亡くなったのはもうずいぶん前のことなので。
　いえ…でも…。
　そうなのかもしれません。
　彼女も、遠いところに行ってしまったので」
　二度と会わないと決めたのなら、いっそそう思えた方がいいのかもしれない、と僕は答える。
　実際には、遠くのところに行かせたのは、僕だから、奏は全然悪くない。
　それに状況的にも、死んでいるようなのは、僕の方だった。
　そのまま帰ると思ったしょうた君のママだったけれど、僕の答えに納得がいかなかったのか、あのでも、と少し遠慮がちにだが、ずばっと聞いてきた。
「生きてるんですよね？会いには行かないんですか？」
「一緒に居ても、彼女の為にならないんで」
「そう思ってるのは、音羽さんだけじゃないんでしょうか？
　主人が言ってました。
　音羽さんの歌には、深い愛情があるって。想って、想われる、そんな強い絆があるって。
　彼女のことを思って書かれてたんですよね、歌」
　言われてみると、そうだった。
　僕の歌は、すべて奏との日常を歌ったものだった。
　想って、想われる。
　奏にとって、ウィーンに行くことはよかったんだろうか。
　僕と離れることは、奏にとっては幸せなことだったんだろうか。
　足元がぐらりと揺れたように感じた。
　安藤さんに会うことも、
　ウィーンに行くことも、
　すべて僕が奏にそうするように言った。
　奏は嫌がることもなく、素直にそれを受け入れているように思ったから、僕はそれで良かったんだと思ったけれど、
　本当はどうだったんだろうか。
　僕と奏は、たまに鏡に映った自分自身みたいなところがあった。
　どちらかが沈んでいれば、もう片方も沈んでしまう。
　逆に、どちらかが笑顔でいれば、もう片方も笑顔になれる。
　奏と別れることが決まってから、僕は怖くて、奏のことをまともに見れなくなっていた。
　もし笑顔でいても、僕は笑顔でいられる自信がなかったんだ。
　心のどこかでは、自分で決めたこととはいえ、奏と別れることが、寂しくて、怖くて、仕方なかったんだ。
　それが、奏も同じだったとしたら？
　黙りこんでしまった僕に気付いて、しょうた君のママはごめんなさいと呟いた。
「でも、会えるのであれば、会っておかないと。会いたくても永遠に会えなくなることもあるんですから」
　遠くを見つめるその視線の先にいるのは、きっと死んでしまったしょうた君のパパの姿だ。
　失礼します、と言ってしょうた君のママはお寺の出口の方に向かって歩き出した。その隣で、手を引かれたしょうた君が、ばいばいと僕に小さく手を振ってくれる。
　けれど、僕はそんなしょうた君に答える余裕もないほどに、考え始めていた。
　奏のこと。
　奏の気持ちのこと。
　お互い、どこか踏み込んだ会話を避けて過ごした、最後の一週間。
　僕は何でもないふりをするので、精一杯だったけど、それが奏も同じだったとしたら？
『会いたくても、永遠に会えなくなることもあるんですから』
　漢字二文字で表すと、その気持ちは『後悔』。
　しょうた君のママが感じたその気持ちを、僕は裕子さんに続いて、二度も経験したくはなかった。
　はっと顔を上げると、僕はそのまま全速力で走りだした。
　少しして、滝のような汗が流れてきた。
　そういえば、こんな風に汗をかくのも、走るのも、どのくらいぶりなんだろう。
　そう思いながら、僕は全速力で走る。
　お寺の入り口の大きな門を抜けると、ちょうどしょうた君たちがタクシーに乗り込むのが見えた。
　僕は慌てて追いかけて、ドアをノックして叫ぶ。
「あのっ」
　驚いたようにしょうた君のママが窓を開ける。僕はそのドアに頭をぶつけんばかりに頭を下げた。
「ありがとうございましたっ。その、目が覚めましたっ。
　会ってこようと思います。二度とっ、二度と後悔したくないから」
　息も絶え絶えにそう言うと、しょうた君のママがにっこりと笑った。
「頑張ってください」
　それじゃあ、とタクシーが走りだす。
「おうたのおじちゃん、ばいばい」
　僕は窓から突き出た小さな手にも、大きく手を振った。
　奏に会いに行く。
　そう決めた途端、僕なのかで何かがものすごい勢いで動き出した。
　そう、まずは空港に行かなきゃ。
　タクシーを捕まえるか、それとも…。
　しかし、少しするとタクシーが止まる。
　どうしたんだろうと思っていると、ドアが開いて、しょうた君のママが顔を出した。
「よかったら、駅まで乗っていきますか？」
　たしかにこの辺りは、タクシーがよく走っているわけではない。
　迷っている暇はない。
　僕は勢いよく答えた。
「はい！」