「ごめんね、奏ちゃん。ずっと黙っていて」
　そう言った河野さんに、いいえと言ってあたしは思った。
　きっと、シンちゃんが河野さんに口止めしたんだ、って。
　河野さんの話だと、あたしがお父さんとウィーンに行って、一週間もしないうちだったという。
　シンちゃんは、ニューヨークに旅立っていった。
　音楽の勉強をするために。
「…シンちゃん、元気なんですよね？」
　シンちゃんは一人がすごく苦手な人だ。
　ママと結婚する前も、その時の恋人と同棲をしたり、友達のところに転がりこんだりしていて、純粋に独り暮らしをしたことがない。
　おまけに知り合いが一人もいない外国で、ちゃんとご飯もたべれてるんだろうか。
　飄々としていても、繊細なシンちゃんは、食べ物が変わるとすぐお腹をこわす。
　喉も弱くて、一度風邪をひくと、治るのに時間がかかる。
　心配して聞いたあたしに、河野さんは小さな溜め息をついて、
「かなわないわね、奏ちゃんには。嘘はつけないから正直に言うわ」
と前置きをして、シンちゃんが歌を歌えなくなったことを告げた。
　最初の頃はそれなりに過ごしていたこと。
　だけど、一年経ったあたりから、曲がかけなくなって、あわせるようにして歌えなくなったこと。
　ここ数カ月は電話をしても出なくて、メッセージにも答えてくれないこと。
　たまに出ると、お酒を飲んでいる様子がうかがえること。
「スランプね、未だかつてないほどに長くて、深い」
　そう言って河野さんは大きくため息をついた。
　予感が当たっていたことに、あたしは声を震わせながら河野さんに言った。
「教えてください、シンちゃんの住所。
　あたし、行きます、ニューヨークに行って、シンちゃんに会ってきます！」
　けれど聞こえてきたのは、ため息交じりの低い声。
「でも、もしかしたら、心平君は、会ってくれないかもしれないわ。
　ウィーンに行って奏ちゃんに会ってくればっていったのに、会う資格がないとかどうとか言ってたし。
　それについこの前ようやく電話がつながったと思ったら、一週間休みをほしいって言われて、マンションにいるのかもわからない状態よ。
　それでも？」
　答えは決まっていた。
　河野さんから聞いた住所を書きとめると、私は下のリビングでテレビを見ていたお父さんに声をかける。
「お父さん、話があるの」



　内緒で出ていくこともできたと思う。
　書き置きするとか、そういう方法。
　だけど、私はきちんとお父さんに話をしたかった。
　二年前のことを思うと、反対されるかもしれないとは思ったけれど、それでも、ちゃんと話して、理解してほしかったのだ。
　私とシンちゃんのこと。
　シンちゃんと過ごした八年間のこと。
　ニューヨークに行かせてください、できれば明日の朝にでも。すぐに。
　秋にはちゃんとウィーンには戻るから。
　そう伝えると、お父さんは静かに尋ねた。
「音羽君のことか？」
　強い心のままに、私は頷いた。
　約束の三年にはまだ足りないけれど、と思う私に、お父さんは力強く頷いた。
「わかった。会いに行ってきなさい」
　思わず顔を上げた。
「…どうした？反対されると思ったのか？」
「だって、まだ約束の三年が経ってないのに」
　素直にそう言うと、お父さんは目じりにいくつものしわを作って答えた。
「ああ。でも、一緒に過ごしていてわかったんだ。
　奏をこんなにも素直で優しい子に育ててくれたのは、音羽君のおかげだ。
　奏が彼を心配しているというのなら、できる限りのことをするべきだろう。
　それに、私に正直に話してくれたのは、信用してくれたからだろう？」
　お父さんの言う通りだった。
　あたしは、一緒に暮らした二年半の間で、ママが何故この人を愛して、あたしを生んだのかを理解したのだ。
　シンちゃんとは違う形で、あたしはお父さんのことが好きなのだ。
　頷くあたしに、お父さんも答える。
「私も、奏のことは信用している」
　だから、行っておいで。
　言葉には言わないけれど、伝わってくる思いに、あたしは小さく頷いた。
「チケットは、私が取っておくから、明日の飛行機でニューヨークに行くといい」
「ありがとう、お父さん」



　次の日、ママのお墓参りをした後で、あたしは直接空港に行くことになった。
　突然のことだったけど、おばあちゃんは嫌な顔しないで、笑顔でそれを受け入れてくれた。
　やっぱり裕子の子ね、とほんの少し溜め息をつきながら。
　ママの眠る場所に、足元のおぼつかないおばあちゃんの手をお父さんが取りながら、その後ろをトランクを抱えたあたしが歩く。
　夏の日差しはそんなあたしたちを容赦なく照りつけ、ただでさえ会話の少なくなったあたしたちから、話す気力を失わせようとしていた。
　その中をゆっくり歩くこと五分、ようやくママのお墓が見えたところで、お父さんが怪訝そうな声を上げた。　
「ん？何だ。これは」
　お墓の前には、白い塊が置いてあった。
　漂ってくる甘い匂いに誘われて、蟻が大行列をなしている。
「…ケーキ？」
　悪戯かとますます怪訝そうなお父さんの声。
　だけどあたしはふいに気付いた。
　その塊の上には、火のついた跡のあるろうそくが、十九本立っていることに。
　かすかににじんだ茶色いチョコレートの文字は、きっと"HAPPY BIRTHDAY"となっていたはずだ。
　思うより先に、足が動いた。
「おい、奏」
　お父さんの驚いた声が聞こえたけれど、説明する余裕はなかった。
　だってシンちゃんがここに来たのだ。
　しかも、ついさっき。
　今ならまだ追いつけるかもしれない。
　このお寺は、中は広くて、いくつもの道があるけれど、出口は一つしかない。
　あたしはその出口に向かって急いで走った。
　待って、シンちゃん。
　行かないで。
　あたしを置いて、行かないで。
　ふとお寺の門に消えていく背中が見える。
　ヨレヨレの白いシャツと、ジーパン姿の男性。
　間違いない。
「シンちゃん！」
　あたしは、できる限りの声を上げる。
　お願いだから。
　待って、シンちゃん。
　転びそうになりながら、必死に叫んでシンちゃんの後を追って、門を出たところで左右を見回す。
　そこにはタクシーに乗り込もうとしているシンちゃんが見えた。
　名前を呼ぼうと思った。
　声を上げようと思った。
　でも、できなかった。
　シンちゃんが乗り込んだタクシーの後ろのシートには、女の人の影が見えたから。
　…誰？
　シンちゃんの、新しい恋人？
　タクシーは立ち止まったあたしを気にすることなく、すぐに走り始める。
　シンちゃんは、意外とモテて、ママが死んでからも、恋人は絶えることはなかった。でも、あまり長続きしなくて、その理由をあたしはシンちゃんが恋人に執着しないからだと思っていた。
　来るもの拒まず、去るもの追わず。
　でも、ママのお墓に連れてくる恋人なら、それはシンちゃんにとって、それまでとは違う大事な人なんじゃないか。
　そう思うと、胸の中を重苦しい気持ちが渦巻いた。
「…シンちゃん」
　届かなかった想いを胸に、あたしはもう一度小さく呟く。