いったい、いつからこうなってしまったんだろうか。
　レコーディングの日に風邪をひいてしまったこと？
　ニューヨークに一人でやってきてしまったこと？
　それとも、奏と別れてしまったこと？
　どれが答えだとしても、僕はもう引き返せないところまで来てしまっていた。
　奏と別れて、つまりニューヨークに来てから二年余り。
　僕は、歌を歌えなくなってしまっていた。
　人生のどん底。
　暗くて深くて、ひんやりとした深海の奥の奥の砂にじんわりと埋もれて行くようにして、僕は日々を過ごしていた。



「もう帰りな」
　馴染みのバーテンダーのジョージが見かねて僕にそう言った。
　僕は酔っぱらっていた。もともとお酒は強い方じゃない。飲めば強くなるなんて言うけれど、全然そんなことはなくて、他の客ならホロ酔いになる程度のお酒の量を飲んでは、毎晩つぶれていた。
　ジョージを無視してお酒を飲んでいると、ふいに体がふわっと浮き上がる。
　ついにここまで来たかと思ったけど、そんなことはなくて、ただジョージが僕を持ち上げただけだった。
「まだ飲むよ」
　へらへらとそう言うと、ジョージは真剣な表情で（というかジョージの場合は、笑っていない以外はいつも真剣な表情に見える）いい加減にしろと言った。
　そうして僕は店をほっぽりだされる。
　僕は地面に座り込んだまま、空を見上げると、まるい月まで僕を嘲笑っているように思えた。
　くすくすと笑っていると、再びジョージが店から出てきて、僕の体を起こす。
「送ってく」
「大丈夫だって」
「一人じゃ歩けないだろう」
　ジョージはそう言って、軽々と僕を担ぎあげる。
　道を歩いていた日本人が、僕を見かけてくすりと笑った。
　ねえ、奏。
　きっと奏も僕を見たら、同じように笑うんだろうか。
　それとも怒る？
　歌を歌えなくなった僕を。



　ジョージはベッドに僕をバッグのように投げ捨てると、コップに水一杯を入れてベッドサイドに置き、さっさと部屋を出て行った。
「ありがと、ジョージ」
　僕は誰ともなしにそう言う。ひとくち水を飲むと、少しだけ気持ちが落ち着いてきた。
　ジョージはあれですごくいいやつだ。
　今となっては僕の唯一の友達。
　奏がいない今、ジョージがいなければ僕はもっとボロボロになっていたと思う。
「ありがとう、ジョージ」
　そう呟いて顔を上げると、部屋の隅に埃のかぶったピアノが見えた。触れなくなって、もう半年がたつ。
　はっきりとしたきっかけは覚えていない。
　最初は、ちゃんと音楽の勉強をしていたんだ。
　奏がいない寂しさを紛らわすように、僕は勉強に打ち込んだ。
　約束の一年が経った頃、約束通り河野さんが仕事を持ってきた。勉強するという名目で、休暇をもらってはいたけれど、その期間は一年しかなくて、それが過ぎた僕は曲を作らなきゃならなくなった。
　音楽はいつも僕の周りにあったはずなのに、それなのに僕の音楽の色は消えていた。
　デモを聞かせても、河野さんはあまりいい顔をしない。
　ならば言葉をと思うけれど、こっちも同じ。頭に浮かぶのは、ただの文字だけ。
　それでもレコーディングは行うことになっていた。
　それなのにこともあろうか、僕はその日に風邪をひいてしまった。
　当然、レコーディングは延期。
　そんなことが二三度続いた。
　そうして四度目。その日、僕は誰にも連絡しないで家に籠ってお酒を飲んでいた。
　河野さんに会わせる顔もなく、そのまま僕はずるずると今の生活を続けている。
　その時電話が鳴った。相手は河野さんだった。
「何度も電話したのよ」
　河野さんは怒っていた。連絡が欲しいというメッセージは聞いてはいたけれど、どうしても僕は電話をかけられなかった。
「またお酒、飲んでたの？のどにも悪いし、やめた方がいいんじゃない？」
「ほどほどですから、安心してください」
「ところで、その後どう？」
　河野さんが言っているのは、当然僕の仕事の状況だ。
「メッセージは聞いてるんでしょう。契約期間、あと一カ月しかないのよ。継続の条件の新曲。どうなの？作ってるの？」
　僕は、その時初めてニューヨークに来たことをラッキーだと思った。
　もしここが日本だったら、河野さんは家に押し掛けてきて、埃をかぶっているピアノを見つけて、怒りだすに違いない。
　何も答えない僕を、それが答えなのだと思ったのか、河野さんは溜め息の後にまるで子供に諭すように言った。
「ねえ、心平君。いっそのことウイーンに行ってきなさいよ。
　送ったチケット、もう届いてるんでしょう？
　それ使って、ウイーンに行って、奏ちゃんに会ってきなさい」
　確かに数日前、河野さんからのエアメイルが届いていたけれど、僕はそれをまだ開けていなかった。
　テーブルに置かれたままの手紙が見える。
「…河野さん、お願いがあるんです。一週間、休みをくれませんか？
　その間に、僕自身どうなりたいのか、考えてみます」
　半ば勢いでそう言った。
　このまま僕が何も言わなければ、河野さんが奏の話をするのが目に見えていたから。
　だけど今の僕は、奏の話を聞きたくはなかったのだ。
　でも、きっとこのままこうしていても、何も変わらないことは、僕自身がよくわかっていたことだった。
　変わりたい。
　変わらなきゃ、いけない。
　不思議なことに、こんなどん底の僕にも、そんな気持ちはほんの少しだけ残されていたんだ。
　少しして、また河野さんの溜め息が聞こえてきた。
「わかったわ。結論が出たら、連絡頂戴ね」
　そう言ってくれた河野さんに、ありがとうございますと答えながら僕は電話を切る。
　ふいに胃からこみ上げて来て、僕はトイレに駆け込んだ。
　入っていたもの全てを出して、口をゆすいで顔を上げると、くすんだ鏡に僕が映っていた。
　情けない、だらしのない、男の表情。
　会えるものならば、奏には会いたい。
　ほんの数分、いや数秒でも。
　遠くから見つめるだけでもいいから。
　――でも、今の僕には、そんな資格はない。
　こみ上げてきた想いを、そうしてお酒と一緒に僕は無理やり押し込める。