ウィーンに来てから、気がつけばもう二年以上が過ぎていた。
　最初は苦手だったライ麦のパンのあのすえたようなにおいも、今となってはおいしいにおいだ。日本とは違う甘ったるいチョコレートには慣れることはなかったけれど、それでもここでの生活にももう慣れていた。
　あの日以来、日本には帰っていない。
　こっちでの生活が忙しかったというのもあるけれど、会えない三年間、あたしからシンちゃんには連絡しないということを、決めていたせいでもある。
　だってシンちゃんの声を聞いたら、会いたいとか弱音を吐いてしまいそうだったから。
　だからといってシンちゃんを忘れたことはなくて、むしろその逆だった。
　会えない分だけ、シンちゃんのことを思う時間は増えていた。
　シンちゃんからも電話や手紙がくることもなかったけれど、それはきっとシンちゃんも同じ気持ちなんだと思っていた。
　もともとマメな性格でもない。
　だから、きっと連絡しないだけ。
　だけど、それはあたしの強がりで、本当のことを言えば、少しだけ一年後のシンちゃんに会うことが怖くもあった。



「奏、ちょっといいか」
　夏の日の夜、お父さんが夕食を食べ終えたときにそう言った。
　学校は長い夏休みに入ってはいたけれど、私は毎日レッスンを受けていて、バカンスらしいバカンスは過ごしていないままだ。
　安藤さん、という呼び方から、お父さん、に変わったのはいつからだったろう。
　小さい頃から父親というのもを知らなくて、ママと結婚して義理の父になったシンちゃんに対しても、お父さんなんて呼んだこともなかったあたしにとって、安藤さんは思い描いていた父親像そのままの人だった。ママが惚れたのもわかる、いい人だった。
「明後日からしばらく日本に帰るつもりだ」
　浮かない表情のお父さんは、あたしが椅子に座るとすぐに話を始めた。
「実は、お祖母さんの体調があまりよくないらしい」
　お祖母さんというのはママのお母さんのこと。あたしは最後にお祖母さんと会った時のことを思い出した。去年の夏、お祖母さんはあたしに会いにウィーンまで来てくれたのだ。お祖父さんももう亡くなっていて、娘であるママもいない今、お祖母さんにとって近い存在の親戚はあたししかいない。
「奏も一緒に行くか？」
　お父さんの複雑な表情には、きっとシンちゃんのことがあるからだ。
　１６になって、突然お父さんはあたしとシンちゃんの前に現れた。そして、あたしに一緒にウィーンで過ごそうと言ったのだ。それは、シンちゃんとの別れを意味していた。
　あたしはもちろん反対した。シンちゃんと一緒に居たかったから。
　だけど、シンちゃんはそれを望んだ。
　それでもシンちゃんと居たいと言うあたしに、お父さんはある条件を出してきた。
　三年間はウィーンできっちり音楽の勉強をすること。それでも、シンちゃんのことをあたしが忘れられないというのであれば、好きにすればいい。
　こっちに来てからは、お父さんは一切シンちゃんのことを口にすることはなかったけれど、それは忘れたからではないということくらい、あたしにもわかっていた。
「いいの？」
　約束の三年はまだ経っていない。
　帰国の理由がお祖母さんだとしても、あたしがシンちゃんと偶然顔を会わすことだってあるかもしれない。
　けれど、お父さんはああと頷いた。
「私は奏を信じているし、それに奏にも息抜きだって必要だろう。
　せっかくだから向こうでゆっくりしてこよう」
　そうして、あたしは日本に一時帰国することになった。



　久しぶりの日本は、むわっとして暑かった。
　たった二年前のことなのに、そんなことまで忘れている自分がいて、少し怖い。
　向かったのは、お祖母さんの家。大きな家で今は一人で暮らしているお祖母さんは、喜んであたしとお父さんを迎い入れてくれた。
「遠いところをわざわざありがとう」
　笑顔だけれど、その顔色は悪い。それに、たった一年会ってないだけなのに、なんだかすごく年を取ったように見えた。
　一年でこんなに変わるとしたら、三年だとどのくらい変わってしまうんだろう。
　あたしは覚えている最後のシンちゃんのことを思った。
「奏、明後日は裕子の命日だから墓参りに行くが、大丈夫か？」
　お父さんがそう聞いたのは、ママの命日があたしの誕生日だから。
　何か予定が入っていたらと気を使ってくれたらしい。
「明後日は空けておいたよ。その分明日、高校の友達に会う約束になってる」
　高校の友達とも会うのは久しぶりだった。みんなそれぞれに大学生活を楽しんでるみたいだった。
「長旅で疲れたでしょうから、早く休みなさいね」
　おばあちゃんの呼びかけにはーいと孫らしい返事をする。
　そうして、その日は終わった。



　次の日。
　高校の友達との待ち合わせは、高校のあった駅前の喫茶店。
　おばあさんの家からは少し遠いけれど、シンちゃんと暮らした家からは電車で十分程度。
　あたしは心の片隅で、偶然シンちゃんと会えることを期待していた。
　約束の時間より少し早くついたあたしは、ふとCDショップに立ち寄ることにした。
　もしかしたらシンちゃんの新しいアルバムが出ているかもしれない。あれから二年になるのだ。
　どんな曲なんだろう。
　もしかしたら、あの曲も入っているんだろうか。
　シンちゃんが、私にプレゼントしてくれた、あの曲。
　何度も練習して、今ではバイオリンで目を閉じてでも弾けるようになっていた。
　けれど、新しいアルバムはおろか、シングルでさえもシンちゃんは出していなかった。
　どうしたんだろう。
　スランプ？
　嫌な予感だった。
　シンちゃんがスランプに陥ることは、結構しょっちゅうあって、しかも一度はまると深くて長い。
　まさか、でも。
　慌ててあたしは電車に乗った。
　お父さんとの約束も、友達との約束も、今のあたしにはどうでもよかった。
　シンちゃんの方が、ずっとずっと大事だった。
　電車で十分。
　慣れ親しんだ街は、少しだけ風景を変えていた。
　だけどそんな感傷に浸っている余裕は、あたしにはなかった。
　走ってシンちゃんと暮らした家へと向かう。
　角を曲がって、見覚えのある青い屋根を見た時は、ほっとした。
　ほらね、ちゃんとある。
　だから大丈夫。
　シンちゃんも、大丈夫。
　だけど、家から出てきた人たちを見て、あたしは大きく息をのんだ。
　三十代くらいの夫婦は、お母さんがベビーカーを押して、お父さんが家に鍵をかけていた。
　お客様なら、そんなことをするはずもない。
　ふらつく足で門の前に立つと、あったはずの「音羽」の文字は消えて「桜井」に変わっていた。