想-sou-

　いつまでもこのままでいたい。
　ずっとずっとシンちゃんの隣で、
　シンちゃんと手をつないでいたい。
　タイミングを失えば失うほど、その気持ちは強くなった。
　…今ならまだ。
　―シンちゃん、あたしね。
　そう言おうとした時、トンと人がぶつかってきて、あっけなくあたしとシンちゃんの手は離れる。
　それはあまりに簡単で、だけどだからこそ、あたしは手を伸ばせなかった。
　…そう、だよね。
　ここで逃げたら、シンちゃんに逃げ込んだりしたら、きっとあたしはこれからもずっとシンちゃんに向き合えなくなる。
「それじゃ、ね。シンちゃん」
　短くそう言って、あたしはさっさと改札に入っていく。
　立ち止まったら、
　もう一度シンちゃんの顔を見たら、
　行きたくない、
　ずっとシンちゃんのそばにいたいって、
　そう言わずにいられなくなる。
　そんな気がしたから。
　だけど、そんなあたしを、シンちゃんが引き留めた。
「奏っ」
「何？」
　びくっとして振り返る。
　投げられたそれを受け取った。
「奏が気に入るといいと思って」
　ゆっくりと手のひらを広げると、白いi-podがそこにはあった。
　ふいに渡された、シンちゃんからの贈り物に、あたしは確かめるように聞き返した。
「…曲？」
「そう、奏との初合作だ」
　その言葉にピンとくる。
　シンちゃんが覚えていてくれていたことに、あたしと同じように考えていたことに、あたしの鼻はツンとくる。
　流れ出しそうないろんなものを押し込めて、あたしは言葉を噛みしめながら言う。
「できあがったんだ、『想』…」
「ソウ」
　平然とそう言うシンちゃんに、あたしは思わずふきだした。
「オヤジギャグだよ、それじゃ」
　それじゃ、このタイトルにつけた、あたしの気持ちが台無しだ。
　すると、シンちゃんもどこか満足そうに笑い返してくれた。
　一通り笑い終わったところで、シンちゃんは深く深呼吸をして静かに言った。
「ありがとう、奏」
　その言葉に、あたしはついに耐えられなくなる。
　その言葉は、あたしがシンちゃんに言いたかった言葉だ。
　ありがとう、シンちゃん。
　いっぱい、いっぱいありがとう。
　電車に乗り込むその前に、あたしは涙を拭って、くるりと一瞬振り返った。
「またね、シンちゃん」
　そう言ったのに、シンちゃんはただ手を振るだけだった。
　電車のドアは、すぐに閉まる。
　窓の外のシンちゃんの姿が、どんどん小さくなっていく。
　その姿を見て、あたしは心の中で強く誓う。
　だけど、諦めたわけじゃない。
　これが、最後のお別れじゃない、と。

「彼は、君がウイーンに行くことを望んだんだよ」
　安藤さんにそう言われたとき、あたしは頭が真っ白になっていた。
　おまけに、会えるとは思っていなかった実の父との再会と、ウィーンへの誘いの後だ。
　あたしの頭の中は完全にショートしていた。
「え？」
　シンちゃんが望んだって、どういうこと？
　あたしたちは、ずっとふたりぼっちだったのだ。
　悲しいことも、楽しいことも、辛いことも、苦しいことも、何でもふたりで一緒に乗り越えてきた。
　なのに、どうして？
　黙り込むあたしを見て、安藤さんは小さくため息をついた。
「彼もまだ若い。恋人と結婚したくても、君がいたらできないだろう」
　そんなことない、と言いたかったけれど。
　結局、礼子さんと別れてしまったのは、あたしが理由なのかも知れないと思った。
　あの時、あたしが、嫌だなんて言ったから。
　あの日以来、シンちゃんは、心のどこかをあたしに閉ざしている。
　わざとおどけて、隠してるふりしてるけど、ずっとシンちゃんを見てきたあたしにはそれがわかっていた。
　八年間、ずっとずっと一緒だったのだ。
　シンちゃんの視線、表情、息遣いで、あたしはそれがいつものシンちゃんじゃないことはすぐにわかってしまうのだ。
　俯いたあたしに、安藤さんは諭すように話す。
「ただの初恋だ。麻疹みたいなものだ。離れて暮らすようになったら、君は彼のことなんかすぐに忘れてしまう」
　あたしとシンちゃんの八年間を否定するような安藤さんの言い方に、あたしは思わず言い返した。
「忘れないっ。忘れられるわけがない」
　ぐっと睨みつけると、安藤さんは静かにそれを受け止めた。そして、わずかに頬をひきつらせながら言った。
「それじゃ、ウィーンで三年間暮らしても、彼のことをずっと好きでいられるというんだね」
　真剣な表情に、それが安藤さんからの取引だということに、あたしは気づいた。
　そして、この取引から手を引くことは、今のあたしには許されない。
「…ええ」
　わかった、というように安藤さんは軽く頷くと、荒げていた声を元に戻した。
「子供じみたことを言って悪かった。
　でも、信じてほしい。僕は、君と裕子に罪滅ぼしをしたいんだ。そして、君にはもっと自分の才能に気づいてもらいたい。
　今はわからないかもしれないけれど、いつかきっと君はこの選択が間違っていないことに気づく」
　そう言われても、安藤さんは間違っているし、あたしには『いつか』なんて必要ないのだと言い返したかったけれど、安藤さんの沈んだ眼を見て、あたしは口を閉ざした。
　安藤さんは決して悪い人じゃないことくらい、あたしもわかっている。
　何より、ママが愛した人なのだから。
　それを納得だと思ったのか、安藤さんはあたしの肩をポンとたたくと、完全にいつもの安藤さんに戻って言った。
「僕は、二週間後にウィーンに戻る。君の音楽学校の準備もしておく。春になったら、ウィーンにおいで。
　みっちり勉強するといい。
　そうすれば三年後、君は自由だ」

　三年後、あたしはまたシンちゃんの所に戻ってくる。
　そう決意をして、席に座ってヘッドフォンをした。
　綺麗なピアノのソロで始まる曲は、悲しい程に切なかった。
「まだ決めてない…。そうだ、奏、決めて」
　あの日、家から帰ってくると、綺麗なメロディーが流れ出ていた。
　ハミングと、たまに口ずさむ歌詞。
　恋人との別れを歌っているようだったけれど、その相手が礼子さんのことなのか、それとも他の人なのかあたしにはわからなかった。
　でも、シンちゃんがその人を深く想っていたことだけがわかった。
　タイトルを聞くと、そう返された。
「え？」
　戸惑ったのは、当然あたしだ。
「奏に決めてもらいたい」
　そういうシンちゃんの表情が、いつもより固いのが気になったけれど、単語を浮かべる中で、ひとついいものを思いついた。
「…それじゃ、『想』ってどうかな」
「ソウ？」
「遠くに行っちゃう人のこと思って作った曲なんでしょ？その想いってこと。それに、シンちゃんの漢字も入ってるでしょ？ココロ」
　それから、音読みすると「奏」と同じく「ソウ」になる。
　あたしとシンちゃんの名前が、両方入っているタイトルに、あたしは自分の気持ちを押し込んだ。
　シンちゃん、気づいてくれたかな。
「なかなかいいね」
　シンちゃんも満足そうに答える。
　やっぱり気づいてくれなかった。
　だけど、そんなところがシンちゃんだなと、どこか納得してたことを思い出す。
『奏との初合作だ』
　そう言ってくれたシンちゃんの言葉。
　だけどシンちゃんは、いつかきっと、気づいてくれてるはず。
　きっと。
　切ないメロディーは、徐々にドラマティックに力強さを増す。
　三年が、長いのか、短いのか、今のあたしにはわからない。
　でも、シンちゃんと会えないこれから三年は、今のあたしには、きっととてつもなく長い。
　けれど、きっとこの曲が、あたしとシンちゃんを繋いでくれているはずだ。
　そう思うと、きっと乗り切れると思った。
　戻ってくるから。
　だから、待っててね。
　真っ青な空を見上げて、あたしはそう誓う。