「電車の時間、何時？」
「３時ちょうど」
「それじゃ、あと１０分あるから余裕だな」
「そうね」
　そう、時間は充分にあったはずだった。
　なのに、僕は、何も奏に言えないまま、もう時間は２時５７分を指している。
　こういうときは、なんていえばいいんだろう。
　さよならというのは簡単だけど、それじゃ気持ちが伝わらない。
　笑顔のままで、別れようと思ったのに、
　改札の手前で、気づいたら会話すら、ぼくらの間では止まっていた。



　よく、友達からは、裕子さんと奏は似てるのか、と聞かれた。
　もちろん顔立ちは、似ているけれど、性格は実は正反対ではないかと、内心ぼくは思っていた。
　裕子さんは何事にもパワフルな人だった。
　いつも率先して、突き進める、ジャンヌダルクのような人で、
　僕は戸惑いながらも、そのあとをついていけばよかったんだ。
　だけど、奏は違った。
　言うなれば、道の端っこに咲いた小さな花を、見つけられる人。
　ぼくの小さな戸惑いにも、ちゃんと歩調を合わせてくれる。
　このままの僕でいいんだと、そう伝えてくれる。
　僕の音楽が、素直ないい曲になったと言われるようになったのは、すべて奏のおかげだった。


　デモテープを聞き終わった僕のマネージャーの河野さんは、小さく吐息をついた。
「いいわね、この曲」
　ふんわりとほほ笑む河野さんを見て、僕も思わず微笑み返す。
「ありがとうございます」
「だけどタイトルが、『木曜オムライス』って？」
　顔をしかめる河野さんに、僕は説明をした。
「それは、いつも僕がいつも木曜日にオムライスを作るからって奏が」
「奏ちゃんが？」
　正確にいうと、タイトルを決めたのは僕で、奏はオムライスの歌と呼んでいたのだけれど、さすがにそれじゃあとちょっと変えさせてもらった。
　それから、僕の顔と手で書いたタイトルを見て、なるほどね、と呟いた。
「心平くんがいい音楽作れるようになったのは、奏ちゃんのおかげね」
「え」
　突然のことで、僕は戸惑った。
　確かにその時、奏は僕にとって大切な人ではあったけれど、それはまるで空気と同じで、いることが当たり前だと思っていたから。
　改めて言われると、どう答えていいかわからなかった。
　河野さんはそんな僕をみて、くすりと笑った。
「前は、肩肘張って、自己主張ばかりする歌つくってたじゃない。
　世界は薄汚れたものばかり、哀れな僕を助けて、神様、みたいな。
　裕子が亡くなって、一層ひどくなったと思ってたけど。
　でも、今はいい感じに肩の力が抜けて、心平くんらしさが出るようになったわ」
　僕らしさ？
　今まで気にかけたことのなかった言葉に、僕はさらに戸惑った。
　確かに、ちょっと前までは河野さんのいう通り、僕はとがった歌ばかりを歌っていた。
　なんとかインディーズで出せるものの、これが悲しいかなまったくもって売れない。
　次でも売れなかったら、契約は打ち切りだとも密かに言われて、僕は落ち込んでいた。
　そんな時、大好きなオムライスを作っていた時にふいに出てきた鼻歌に、奏が言ったんだ。
　その歌いいね、って。
　だから、正直言ってこの曲を河野さんに聞かせることは、僕にとっては一種の賭けみたいなものだった。
「感謝しなさいよ、奏ちゃんに」
　答えに詰まっている僕に、河野さんがそう言った。
　そうして『木曜オムライス』は、河野さんの強力プッシュもあって、CMのタイアップがつき、今の僕がいる。




　雑踏の音が戻ってきたと思うと、駅のアナウンスが流れていた。
　時計は、５９分を指している。
　もうすぐ電車が来てしまう。
　そうして奏は僕のところから去って行ってしまう。
　その時、トンと改札に駆け込む人が奏にぶつかって奏がよろける。
　そこでようやくぼくたちの手が離れた。
　それが、合図。
「それじゃ、ね。シンちゃん」
　そう切り出したのは奏だ。
　手を振って、あっさりとそう改札に入り込んでいく奏の名前を僕は慌てて呼び止めた。
「奏っ」
　びくっとしたように奏が振り返る。
　一瞬考えた。
　その腕を掴んで、抱き寄せて、行くなと。
　喉まで出かかった言葉を、だけど僕は押しとどめて、のばしかけたその手を荒々しくポケットに突っ込む。
　そして掴んだものを、ポケットから取り出すと、それを奏に投げた。
　白くて四角いそれは、奏の手に渡る。
「奏が気に入るといいと思って」
　ゆっくりと奏がそれを確認する。
　i-podを確認した奏が、ぽつりと呟く。
「…曲？」
「そう、奏との初合作だ」
　できるだけ、笑顔で。
　できるだけ、明るく。
　だけど、僕の声はかすかに震えている。
　笑顔だって、正直自信がない。
　奏は、i-podをぎゅっと握りしめると、そのタイトルを呟いた。
「できあがったんだ、『想』…」
「ソウ」
「オヤジギャグだよ、それじゃ」
　くすっと笑って奏がそういう。
　つられた僕も、くすりと笑う。
　最後にその笑顔が見れて、十分だと思った。
　これ以上、僕は望んではいけない。
「ありがとう、奏」
　八年分の想いをまとめると、結局この一言になった。
　ありがとう、奏。
　ありがとう、ありがとう。
　電車がホームに滑り込んでくる。
　人が電車からあふれてくる前に、奏はくるりと振り返って僕に言った。
「またね、シンちゃん」
　奏は振り返ることなく、颯爽と電車に乗り込む。
　電車は彼女を待っていたかのように、すぐさまドアを閉め、すぐに出発する。
　遠くなっていく電車の音を聞きながら、僕は電車に背を向けた。
　そして、奏を引き留めるようなことを言っていないか、
　奏に約束するようなことを言ってないか、考えて、大きく頷いた。
　大丈夫。
　これで奏は、前を歩いていくことができるのだ。
　唯一、あるとしたら、それはあの曲だ。
　だけど、ひとつだけ、僕らをつなげるものがあっても、いいだろう？
　今まで、僕を守ってくれていたように、
　奏が辛いときや悲しいときに、あの歌が僕の代わりに奏を守ってくれますように。
　奏を支えてくれますように。




　ふらふらと、奏と歩いてきた道をひとり歩いていると、携帯が鳴った。
「もしもし？心平君？」
　着信は河野さん。
「どうかしました？」
「どうかしました？じゃないわよ。
　もう、チケット、言われたとおり取ったわよ」
「ありがとうございます」
　礼を言うと、河野さんは電話口で大きなため息をついた。
「準備できた？」
「まだです。あと三日あるし」
「そんなこと言ってると、あっという間にくるんだから。奏ちゃんももう出ちゃったんでしょう？準備は全部ひとりでやるのよ。日本旅行じゃないんだし、パスポート無くしてないわよね」
　ガミガミと河野さんは言った。それは、たまに耳を背けたくなるようなこともあったけど、それでも僕を思っての言葉だということは、十分わかっていた。
「ありがとうございます、河野さん。いろいろと」
　これから売り出そうという時に、ニューヨークに行って勉強したいなんていう僕を快く送り出してくれるのも、つまりはそういうことなのだ。
　もともと、ニューヨークは昔行っていたこともあって、チャンスがあればもう一度行ってみたいと思っていた場所だった。
　だけど、奏を一人にしてはいけないからと、ずっと忘れていた僕の夢だった。
　奏を失うことになって、これからどうしていいのかわからない僕が、唯一やりたいと思ったこと。
　それが、忘れていた夢をかなえることだった。
　河野さんは再びため息をつく。
「そんなことはいいけど。ねぇ、本当にこれでよかったの？」
　河野さんが言いたいことを、僕はすべて理解して大きく頷く。
「はい」
　笑顔でそう答えると僕はもう一度礼を言って携帯を切った。
　眼鏡をはずし、シャツで顔を拭う。
　見上げた空から、悔しいほどの太陽が、笑顔を見せていた。