想-sou-

「お父さんが、奏に会いたいそうだよ。
　会っておいで」
　シンちゃんは、優しくそう言った。
　けれど、その声には、嫌とは言わせない強さがあった。

　待ち合わせは、シンちゃんのオムライスが絶品だという喫茶店になった。
　古びた喫茶店だったけど、あたしもここのオムライスは大好きだった。
　セピア色の香りが、空気が、優しく包み込んでくれるようなお店だったのだ。
　だけどもその人たちは、明らかにこの喫茶店に馴染まないお客だった。
「はじめまして、安藤道彦です」
「はじめまして、音羽奏です」
　一礼しながら、あたしは目の前の人の様子を伺う。
　ダンディな雰囲気に、丁寧な身のこなし。品の良さが漂っている。
　だけどこの人がお父さんなんだ、という実感は、まったく湧いてこなかった。
　黙り込んでいると、安藤さんは、隣にいた初老の女性の手を取ると、そっとあたしに向って紹介をした。
「裕子さんの、お母様だ。君にとってはおばあ様に当たる」
　おばあ様と言われて、確かにママと似てなくもないけれど、ピンともこなかった。
　けれどその人は、顔にたくさんしわを作りながら、目にいっぱい涙をためて、あたしの顔をじっと見つめた。
「奏ちゃんね」
　こらえきれず涙がこぼれる。安藤さんがそっとハンカチを差し出した。
　安いメロドラマならば、ここであたしも涙の一つくらい、ほろりと流さなきゃならないのかもしれない。
　だけど、やっぱりあたしは何も感じず、まるで他人事のように二人をじっと見つめていた。

　ゆっくりと落ち着くところへ、ということで、あたしはそのままママの実家に連れていかれた。
　知らなかったのだけれど、ママの実家は、結構大きかった。
「裕子さんはね、会社でもお嬢様で有名だったんだ」
　ぐるりと部屋を見回していると、安藤さんがそう言った。ママのお母さんは、あたしと安藤さんにお茶を出しながら恥ずかしそうに言う。
「世間知らずに育てたから、こういうことになってしまったのかもしれないわ」
「いや、それは…僕が、悪いんです」
　あたしがママと安藤さんの不倫の結果にできた子供であることは、安藤さんから聞いた。
　もっとも安藤さんは、もっとロマンティックにあたしに説明したけれど、ようはそういうことなのだとあたしにはわかっていた。
　気まずい空気が流れて、ママのお母さんが言う。
「もうその話はよかったのよ。ごめんなさいね。
　そういえば安藤さんは、ウィーンにはいつ発つんでしたっけ？」
「二週間後です」
「へえウィーン」
　思わずあたしは声をあげる。
　ウィーンは音楽の都と呼ばれる。
　管弦楽部でバイオリンを弾くあたしも、一度は行ってみたい憧れの地だった。
「ああ、そっちで働いているものでね」
　安藤さんは軽く咳払いをすると、じっとあたしの顔を見て言った。
「音羽君には話をさせてもらったんだが。
　奏、私と一緒にウィーンに行かないか？」
　その言葉に、あたしは思わず持ち上げかけていたカップの手を止めた。
　一緒にウィーンに行く？
　安藤さんと一緒に。
　それが、どういう意味を持つのかなんてことは、安藤さんの真剣な表情を見ていればわかった。
　父と娘として、安藤さんと暮らすということだ。
「…シンちゃんはなんて」
　やっとのことで、あたしはそう尋ねた。
　シンちゃんことがわからなくなっていた。
　シンちゃんは、安藤さんがあたしと一緒に暮らしたいと思ってることを知って、あたしと安藤さんを会わせたのだ。
　だけど、それはつまり、シンちゃんと離れ離れになるということだ。
　あたしの答えはもうずっと前から出ていたのだ。
　これからも、ずっとずっと、あたしはシンちゃんと一緒にいる。
　そう決めたのだから。
　顔をそらしたあたしをみて、安藤さんは深くため息をひとつついてから、はっきりと答えた。
「彼は、判断は君に任せると言っていた。君はもう十分大人で、判断できるだろうと」
　嘘。
　そう言いきれてしまえたらよかったのに。
　だけど、あたしの耳には、珍しく強いシンちゃんの声が響いている。
　シンちゃんは、あたしがウィーンに行っても、構わないのだ。
　だから、こうして、あたしと安藤さんを引き合わせた。
　どうしてなの？シンちゃん。
　あたしのこと、嫌いになったの？
　最近、どこかよそよそしくなったのは、そういうことだったの？
　黙り込んだあたしに、ママのお母さんがそっと言う。
「もし、外国が嫌だというのなら、ここに来てもらっても構わないのよ、奏ちゃん」
　その言葉に、あたしは顔を慌ててあげた。
　二人は、顔を突き合わせると、安藤さんが覚悟を決めたように話し始めた。

　
　彼らが言っていることは、一般的にはその通りだったかもしれない。
　要するに、血の繋がらない独身のまだ若い男と一つ屋根の下で暮らすのは、高校生の女の子には危険なことであるという話。
　だけど、若い男はしんちゃんで、
　高校生の女の子はあたしで、
　あたしたちはそうして10年近く一緒に暮らしてきたのだから、
　むしろいきなり現れて、父親だという人の方が、あたしにとっては十分なくらいに危険な存在だと思った。

「嫌よ。あたしは、シンちゃん…心平さんと一緒に暮らす」
　テーブルに置いたカップが荒々しく音を立てる。安藤さんはいきなり声を上げたあたしに、少し戸惑っているようだった。
「彼だって迷惑だろう。養育費だってただじゃないんだ」
　それはあたしとシンちゃんの関係を、侮辱する言い方だった。
「だったら、あたしがバイトして稼ぐからいい」
　そう言い放ち、家を出て行こうとすると、二人はそんなあたしを引き留めた。
「奏ちゃんっ」
「待ちなさい、奏」
　だけど当然あたしが止まるわけがない。
　玄関を出るというところで、ふいに手首を掴まれた。
　振り返ると、安藤さんが少し髪を乱して、あたしのことをじっと見ていた。
「強情なところは裕子さんそっくりだ」
　安藤さんはそういうと、そっとあたしから手を離した。
「不躾な言い方だった。すまない」
　謝るなんて思ってなかった。
　そうしてあたしは、ほんの少しだけ、安藤さんのことを、自分の父親ではなく、ママの好きだった人として見つめた。
　大人のふりをして、少年みたいな純粋なところが少しある人なんだと、初めて気づく。
　ママが愛した人。
　あたしを生んだくらいだから、きっと、とても好きだった人なのだ。
　そう思うと、どこか憎めなかった。
　安藤さんは、そんなあたしに気づくことなく、もしかして、と呟いた。
「もしかして、奏は…、彼のことが好きなのか？」
　安藤さんの顔が歪む。
　あたしは声を張り上げた。
「そうよ、あたしシンちゃんのことが好きなの、一方的に。
　シンちゃんは悪くない。
　シンちゃんは知らないもの、あたしの気持ちなんて。
　でもだから、離れたくないの。
　シンちゃんと、一緒にいたいの」
　それが、あたしが初めて語った本心だった。
　ずっと思い続けてはいたけれど、声にするとその想いはますます強く、あたしを締め付けた。
　あたしは、シンちゃんが好きなのだ。
　だけど、安藤さんはそのあたしの想いを突き落とすような言葉を告げた。
「彼は、君がウイーンに行くことを望んだんだよ」

　行き交う人の中にいて、タイミングを逃したあたしたちはまだ手をつないでいた。
　目の前には改札がある。
「電車の時間、何時？」
　シンちゃんがそう尋ねた。
「３時ちょうど」
　時計の針は、２時５０分を指していた。
「それじゃ、あと１０分あるから余裕だな」
「そうね」
　シンちゃんはそういうと、再び黙り込んだ。
　その横顔を、そっとあたしは盗み見する。
　うっすら生えた無精ひげ。
　無造作ヘアと寝ぐせの間ぎりぎりの髪型。
　飄々とした風貌は、何一つ変わらない。
　あたしが大好きなシンちゃんだ。　
　あれから、あたしのウィーン行きはトントン拍子に決まった。
　パスポートも取って、友達ともお別れ会もやってもらった。
　荷作りもして、あたしの部屋はベッドや机はあっても、どこかがらんとしている。
　それ以外、あたしとシンちゃんの生活は、何一つ変わらないように思えるくらい、平穏無事に続いていた。
　シンちゃんは、何も言わなかった。
　そして、あたしも結局聞いていないままだ。
　シンちゃんが、あたしと別れることを選んだ理由を。