想-sou-

「桜は世界共通か。ワシントンにもあるし」
　シンちゃんは昔、ワシントンに一か月ほど遊びに行っていたことがあるらしい。
　ふと、そんなことを思い出した。
　それはママに出会う前の話で、その話を、私は礼子さんから聞いた。
　礼子さんはシンちゃんの恋人だ。
　だけどもうここ数カ月家には来ていないから、たぶん別れたんだと思う。
　だとしたら、その原因は、あたしかもしれない。

　シンちゃんは、母性本能がくすぐられて女の人にモテるタイプだ。
　ママが死んでからも、シンちゃんには何人も恋人がいた。
　何事もオープンなシンちゃんは、よく家にやってきた恋人をそのまま家にあげていた。
　というか、たぶん恋人が押し掛けてきたんだと思う。
　そういうときのシンちゃんは、少しばかり困った表情をしていたから。
　恋人は、シンちゃんにとびきりの笑顔を見せた後、あたしを見つけると、たいてい最初は敵意をむき出しに、あたしをにらむ。
　シンちゃんは、童顔だったし、
　あたしはわりと大人びた方だったから、恋のライバルなんじゃないかと思われるのだ。
　だけどシンちゃんがかつて結婚していた相手の連れ子だと告げると、
彼女たちは納得をし、それからはあたしを無視して、シンちゃんにべったりとくっつく。
　だけど、そんな恋人たちも、そのうちにはシンちゃんを怒鳴りつけるようになり、気づけば二度と家には来なくなるのだ。
　最初のころはそれなりに心配もしたけれど、そのうち別れる理由がシンちゃんにあることに気づくと、あたしは何も言わなくなった。
　結局シンちゃんは、誰も本気で好きではないのだ。
　恋に浮かれていた彼女たちは、あるときそれに気付いて、シンちゃんから去っていく。
　たいていは三カ月、長くても半年ごとに、それは繰り返されていた。　
　礼子さんはその中でも、珍しく長く続いていた恋人で、唯一あたしに話しかけてくれる人だった。

　あたしは礼子さんのことが嫌いじゃなかった。
　美人で、優しくて、料理も上手で、さっぱりしてて、欠点なんてひとつもなかった。
　シンちゃんのだらしないところも全部受け止めてあげていて。
　あたしに微笑む余裕もあった。
　なのにあたしは礼子さんが、怖いと思っていた。
「おかえりなさい、奏ちゃん。あ、さっき彼が来てたわよ」
　いきなりそう言われて、あたしは驚いて、いつも身構えているガードを緩くしてしまった。
　黙り込んだあたしに、礼子さんはあれ？と笑顔で問いかける。
「とても爽やかないい青年だったって、心平さんも言ってたけど。…彼じゃないのかしら」
　井藤先輩だ、とすぐにわかる。
　井藤先輩とは、今年の夏に告白されてから、付き合ってる。
　とても爽やかで、優しくて、本当にいい人だ。
　だから、付き合うことにしたというのに、あたしの中ではなかなかそこから先に進むことができない。
　その理由がわからなくて、あたしも、井藤先輩もほんの少しぎくしゃくしてきていた。
　だけど、どうして井藤先輩が。
　それに、シンちゃんと話してたってどういうことなんだろう。
　強張る表情を見てか、礼子さんが和らげるようにふんわりと言った。
「そうそう、奏ちゃん、これ食べない？」
　礼子さんは、家に来るときは、必ずあたしにもお土産を用意してくれている。
　しかもとびきりおいしいもの。
　その日のお土産は、生チョコだった。
　チョコレートは大好物だ。
　だけど、礼子さんのお土産ならば、あたしは受取れない。
「ごめんなさい、ダイエットしてて」
　井藤先輩のことは忘れたふりをして、お決まりの文句を言うと、礼子さんはにっこりとほほ笑んだ。
「そんな必要ないじゃない。奏ちゃん、充分細いわ。
　それにね、これはカカオ80％だし、それほど糖分はないの。
　心平さんから、奏ちゃんがチョコレート大好物だって聞いて、これ絶対食べてもらいたいと思ったのよ。ほんとおいしいから」
　そこまで言われると、断る理由もなかった。
　それじゃ、と恐る恐るチョコレートに手を伸ばす。
　甘くて、少し苦いそれは、口に含んだ途端に、滑らかにとろけだした。
「…おいしい」
　思わずそう呟くと、礼子さんがにっこりとほほ笑んだ。
　やられた。
　そう思ったあたしは、慌てて部屋に逃げ込もうと、鞄を手に取ろうとしたけれど、その前に礼子さんが口を開いた。
「ねえ、奏ちゃん。ちょっといいかしら」

　礼子さんの話は簡単だった。
「単刀直入に言うと。つまり、三人で暮らしていけないかしら」
　誰と誰との三人なのかと、わかってるくせに黙り込むあたしに、礼子さんは答えを告げる。
「奏ちゃんと、心平さんと、私の三人」
　それは、単純に礼子さんがこの家で暮らしたいということなのだろうか。
　あたしは黙り込んだまま、ぎゅっとスカートのすそを握った。
　礼子さんは、なるべく優しく、優しく話を続ける。
「奏ちゃんも、もう立派な大人だと思うし、私のことはそう、年の離れた姉くらいに思ってもらえたら、すごく嬉しい」
　つまりね、と礼子さんは回りくどい言葉を正した。
「心平さんとの結婚を、認めてもらいたいの」
　わかっていたこととはいえ、鼓動が高鳴った。
　シンちゃんが、結婚する。
　シンちゃんが。
　汗で湿った手を握りしめると、自然と声が出ていた。
「…嫌です」
　ひどく乾いた声だった。
　え、と驚いた礼子さんの溜息が聞こえ、顔をあげるといつになくこわばった表情の礼子さんがいた。
　その時、あたしはようやく自分が口にした言葉の意味を理解した。
　そして、それは本心で、とりかえしのつかないものだと気づいた。
「…ごめんなさい」
　それだけ答えると、あたしはリビングを飛び出していた。
　心臓がどきどきしていた。
　礼子さんの突然の話に、
　そしてそれを拒絶した自分に。
　どうして、嫌だなんて言っちゃったんだろう。
　どうして。
　…どうして？
　…そんなの、答えは出ているのに。
　もうずっと前から、答えはわかってるのに。
　ほろりと涙が無意識に流れてきて、戸惑っていると、運悪くシンちゃんが帰ってきた。
　シンちゃんは大きなスーパーの袋を持って、あっけらかんと言った。
「あれ？奏どうした―」
　あたしはそれに答えることなく、あたしはシンちゃんの脇をすり抜けて、玄関へと走る。
「かなっ」
　シンちゃんがそう叫ぶ声が聞こえたけれど、あたしは振り返らずに、ドアを開けて家を飛び出して行った。

　そう、答えはずっと前からわかっていた。
　礼子さんが怖かったのは、今までの恋人たちと違って、礼子さんが本気だったから。
　本気で、シンちゃんのことが好きだったから。
　本気の礼子さんに、ひねくれ者のあたしが勝てるわけがないから。
　そうしていつかシンちゃんも本気になってしまうのが、怖かったから。
　あたしは。
　ずっと、シンちゃんが好きだった。

　気づいたら公園で、あたしはそこで一息ついた。
　こんなに真剣に走ったこと、体育の授業でもないくらい、全速力で走っていた。
　渇いた喉に濃厚なチョコレートが絡んで、あたしが水道の水を飲もうとしたところで、いきなり名前を呼ばれた。
「奏ちゃんっ」
「…井藤先輩」
　顔をあげると、肩を上下させて、呼吸をしている井藤先輩がそこにいた。
　先輩は、額の汗をぬぐいながら、いつもの笑顔で話始めた。
「いきなり走り出すから、びっくりした」
「…どうして？」
　どうして、ここに先輩がいるの。
　どうして、あたしを追いかけてきたの。
　どうして、あたしに優しい笑顔を向けてくれるの。
　どうして。
　聞きたいことはいっぱいあるのに、渇いたのどに言葉がつかえて思うように声にならない。
　逆に井藤先輩が、あたしに尋ねた。
「君に、聞きたいことがあって」
　井藤先輩は、息が落ち着くのを待ってから、真剣に、はっきりと言った。
「ほかに好きな人、いるの？」
「え？」
　動揺して、先輩の目が見れなくなった。
　黙り込むあたしに、先輩は話を続ける。
「もし、奏ちゃんが、真剣にその男のことが好きだっていうなら…僕、あきらめるよ」
　優しい声が、はっきりと響く。
　最初からわかっていたことなのに、
　あたしがシンちゃん以外の人を好きになれないってことくらい、わかってたのに。
　あたしは、すごく卑怯だ。
　最低だ。
「奏ちゃん？どうしたの？」
　止まったはずの涙が、ぽろぽろとこぼれてきた。
「ごめんなさい、ごめんなさい…」
　あたしは何度もそう言った。
　だからって、許されるわけじゃないけど、
　だからって、あたしの想いが届くわけじゃないけど。
　先輩は困った表情を浮かべながら、そっとあたしを抱き寄せて、あたしの涙が止まるまで背中をさすってくれていた。

　結局、井藤先輩とは、別れることになった。
　あの日から数日後、他に好きな人がいるのだと答えると、井藤先輩は素直に受け止めてくれた。
　ごめんなさい、というと、先輩は答えた。
「いや、素直に言ってもらった方がすっきりするから」
　そして、ぎこちない笑顔を浮かべて、
「その人と幸せになるといいね」
と言った。
　あたしはまた泣きたくなったけど、泣いてもそれは井藤先輩を困らせるだけだから、一生懸命こらえた。
　そして礼子さんは、あの日以来家に来なくなった。
　それから、シンちゃんの恋人が家に押し掛けてくることもなくなった。
　今までと変わらない生活がそこにはあるように見えたけど、あたしもシンちゃんも、何かを抱えたまま、過ごすようになっていた。
　　

　公園も過ぎ、駅へと続く商店街の前を歩いていると、シンちゃんがいきなり声を上げた。
「あれ？あの喫茶店、閉店しちゃったんだ」
　シンちゃんの指さす方には、小さな喫茶店がある。
　だけど、中はがらんとしていて、ドアに閉店しましたと書かれた張り紙がある。
「あそこのオムライスは絶品だったんだけどな」
　深いため息の後で、シンちゃんがそう言った。