想-sou-

「手、つなぐか？」
　試しにそう言ってみたら、奏はひどく驚いた表情をした。
「どうして」
　正直、こんなに拒絶されると思ってなくて、だけどそう落ち込んだことを悟られたくなくて、わざとあっけらかんと僕は言う。
「だって、小さい頃よくそうして駅まで歩いてたろ」
「あたしが小４までの話でしょう？それに、手をつないでたのは、シンちゃんが方向音痴だからだよ」
「そうか」
「それに、今あたしたちが手をつないだら、それこそ怪しい関係に思われるかもよ」
「怪しい関係？」
　恋人同士、とでもいうのだろうか。
　奏がそんな風に考えてるなんて、僕には思ってもみないことだった。
　思わずまっすぐ奏を見つめると、奏は逃げるようにうつむいた。
「いいじゃん、最後なんだし」
　わざとはしゃいだように言ったけど、奏は顔を上げないままだ。
　だけど、少ししてから返事があった。
「…いいよ」
　少しだけ差し出された手を、僕は取る。
「よし、行くぞ」
　照れ隠しに、僕はそう言う。
　

　駅に向かい、中央公園の脇を通る。
　桜が、綺麗に咲いていた。
「きれい」
　思わずそう奏が呟くのを聞いて、僕は思わずこう言った。
「ウィーンじゃ、桜は咲いていないだろうから、しばらく見納めだな」
　奏のウィーン行きが決まってから、僕は一日に一回は、奏との別れを口にした。
　そうやって、徐々に慣れていかないと、奏がいなくなったことに、耐えられそうになかったから。
　ふと、公園の中に、制服姿の高校生の男の子をみつけて、僕はどきりとする。
　そういえば、彼と奏はどうなったのだろうか。

　彼は、ある日家の前に立っていた。
「あの、音羽心平さん…ですか？」
「はい、そうですけど…」
　学ラン姿の清潔感あふれる彼に、僕はまったくもって見覚えがなかった。
　知らない人に、名前と顔を知られていることは、嬉しいことではなかったけれど、そのころはこういうことがよくあった。
　というのも、運よく僕の曲がＣＭに使われることになり、そのＣＭが全国に流れた。
　評判のいいＣＭで、そのたびに僕の曲も流れ、ＣＤも今までになく売れた。雑誌にも、ちょこっとだけど載るようになった。
　おかげで道を歩いてると、たまーに見知らぬ人に名前を呼ばれ、握手を求められる羽目になった。
　しかし彼は手を差し出すこともせず、カメラも取り出さずに、じっと僕のことをみている。
　なんだろうと思っていると、彼から自己紹介してくれた。
「井藤と言います。奏さんとは同じ管弦楽部です」
　ああ、と僕は思わず呟く。
　奏の知り合いならば、この家と僕の名前を知っていてもおかしくはない。
「奏なら、まだ帰ってきてませんよ」
　今日は図書館に寄ると言っていたことを思い出して答える僕に、井藤君はしずかに首を振った。
「いいえ、あなたに会いに来たんです。
　奏さんの大切な人であるあなたに」

　家に迎い入れ、コーヒーを入れている間、井藤君は自ら話し出した。
　井藤君が、奏の高校の管弦楽部の先輩であること。
　奏とは、奏が高校に入った春からの付き合いだということ。
　ということは、あの花火大会の浴衣姿は、こいつのためだったのか。
　おしゃれをして出て行った奏を思い出して、僕はちょっぴりジェラシーを感じた。
　でも、奏に恋人がいないというのも、おかしな話だ。
　奏は、裕子さんに似て、美人だし、気立てもいい。
　父親としては、最高の娘だと言える。
　井藤君も悔しいけれど、なかなかの男前だし、よく考えてみると、なかなかお似合いのカップルだったと思う。
　ふむふむ、これが、娘を嫁に出す心境か、なんてそのときの僕は、穏やかに考えていた。
「ほんと言うと、僕、あなたのファンなんです」
　コーヒーを出すと、井藤君がいきなりの告白をしてくれた。
「ありがとう」
　僕はコーヒーを吹き出しそうになりながら、お礼を言う。
「さりげなく優しい感じのメロディと、歌と。
　特に『おかえり』。あれは、誰のことを想って歌ってるんですか？」
　優しい音楽。
　それが僕のウリらしいと、教えてくれたのはマネージメントしてくれてる河野さんだ。
　河野さんは、実は裕子さんの友人で、僕のことを昔から応援してくれていた人でもある。
　僕のことよりも、奏の話が聞きたくなった僕は、話を変える。
「奏ならきっと、一時間もしたら帰ってくるだろうから、それまで待ってくれるかなあ」
「ふられそうなんです、僕」
　度重なる突然の告白に、僕は思い切り口をあけて間抜けな顔をさらした。
「どうしたらいいんでしょう」
　井藤君は、肩をがっくりと落としてそう呟いた。
　聞けばこのところ、二人でいても、奏はぼんやりしていることが多いというのだ。
「ほかに好きな人ができたんでしょうか」
「って言われてもねえ」
　井藤君の名前すら聞いたことがない僕は、全然わからない。
「いっそ直接聞いてみればいい」
「そんな怖いことできませんよ」
「怖い？そうかな」
　僕と奏の間には、隠しごとなど存在したことがなかった。
　たった二人でやってきたのに、相手に隠し事をしていたら、たちまち僕はひとりぼっちになってしまう。
　そう思って、僕は恋人ができれば、そのたびに奏に話し、別れたらそれも奏に話した。
　だけど、井藤君の話は知らなかった、という真実にすぐに僕は気づき、実は少しだけ落ち込んだ。
「それは、心平さんだから、聞けるんですよ。そんなことして、奏ちゃんに嫌いなんて言われたら、僕立ち直れません…」
「奏はそんなこと言わないよ、きっと」
　奏は、人をむやみやたらに傷つけるようなことはしない。
　でも、井藤君の質問にちゃんと向き合って、本当に好きな人ができているのだとしたら、きっとそう答えるに違いない、と思った。
　そういう男らしさは、裕子さん譲りなのだ。
　そのときチャイムが鳴って、心平？と僕の名前を呼ぶ柔らかい声がした。
　慌てて井藤君が立ち上がる。
「僕、帰ります」
「別に待っててくれて構わないよ。僕の恋人が、やってきただけだから」
「だったら余計、お邪魔ですよ。帰りますっ」
　井藤君はそういうと、一目散に逃げ出して行った。
　少しして、恋人の礼子が顔を出す。
「今の子、だぁれ？」
「奏の恋人」
　願わくば、元・恋人にならないように、と僕は井藤君のために少し思った。
「へぇ、やるわね、奏ちゃんも」
　礼子はそう言いながら台所に買ってきた食材を並べた。
「今日は何？」
　礼子の作る料理は、まるでお手本のように美しく、おいしい。
「奮発して、すき焼きの準備してきちゃった」
　そう言いながら、礼子は調味料を見て、あら、と声をあげた。
「砂糖がないわ。それに、ティッシュペーパーもないし。ごめん、心平。買ってきてくれるかな」

　すき焼きと聞いてご機嫌になった僕は、素直に恋人のおつかいをこなして家に帰ってきていた。
　ただいま、とドアを開けようとしたところで、突然ドアが開いて、そこに奏が立っていた。
「あれ？奏どうした―」
　その先何も言えなかったのは、奏がわき目もふらずに僕の横を走り去ったこともある。
　だけどそれより、奏の目に浮かんでいた涙が、僕から言葉を奪っていたのだ。
「奏っ」
　声を上げたけれど、奏は止まることなく、そのまま家を出て行った。
　荷物を放り出し、追いかけようとした僕を、家から出てきた礼子が引き留める。
「行かないで、心平っ」
　思わず足を止め、僕は振り返った。
　礼子は、壁に寄りかかりながら僕を見つめていた。
「私。奏ちゃんの、お母さん代わりにはなれないかしら」
　その時僕は、初めて礼子が本気だったことに気づいた。
　本気で、僕を愛してくれていたことに。
　本気で、奏の母親になろうと考えていたことに。
　だけど、それはできない。
　答えは驚くほど簡単に出てきた。
「ごめん」
　理由はわからなかったけど、
　この家は、僕と奏の家で、
　それ以外に誰も、立ち入ることのできないことだけ、僕にはわかっていた。
「謝らないで」
　無理やりな笑顔を作って、礼子が言う。
「でも、ごめん」
　裕子さんが死んでから、僕には何人もの恋人がいた。
　彼女たちと一緒に過ごす日々は、それなりに楽しかったけど、だけど、僕の心はいつも別のところにあって、
　それに気づくと、彼女たちは、皆僕の前から去っていた。
　別のところが、どこかなんて考えたことなかったけど、
　今の礼子の言葉が、それを僕に教えてくれた。
　それは、この家だったんだ。
　奏と過ごした、この。
「謝るくらいなら、優しい恋人のふりなんかしないで」
　絞り出すように礼子はそういうと、
「さよなら」
と、僕の前から去って行った。

『あれは、誰のことを想って歌ってるんですか？』
　走りながらふいに、井藤君の質問を思い出した。
『おかえり』は、友達の家に遊びに行った奏を想って作った歌だった。
　他の曲も、
　全部、奏のことを想って作ったものだ。
『謝るくらいなら、優しい恋人のふりなんかしないで』
　礼子の言葉をかみしめて、僕は奏を追いかける。
　いつだって、そうだった。
　僕の心の奥にいたのは、
　その時隣にいた恋人たちじゃなかった。
　いつだって、僕の一番は、奏だったのだ。
　そうして夕暮れの中僕が見たのは、葉っぱのすっかり落ちた桜の木の下で、抱き合う奏と井藤君の姿だった。
　奏は、井藤君の胸の中で声をあげて泣いていた。
　井藤君は、戸惑いながらも、奏の背中に手を回し、時にその髪をなでていた。
　あの時。
　公園で抱き合う二人を見て、僕は嫉妬した。
　周囲にはばかることなく泣き続ける奏の髪に触れられる井藤君に、
　奏のすべてを、素直に受け止めようとすることができる井藤君に。
　その前に井藤君に覚えた軽いジェラシーは、僕の想像力がかけていたから、冗談程度にしかなからかったけれど、
　実際に目の当たりにすると、それは思った以上に僕の心を強く揺さぶった。
　井藤君を、殴りつけたいとすら思った。
　そして、僕は気づいたのだ。
　奏を、愛している。
　娘でもなく、
　一人の女性として。
　だけど、それは同時に、誰にも言えない秘密となった。

　舞い降りてきた桜の花びらをキャッチして、奏は、悪いけど、という前置きをした。
「シンちゃんには悪いけど、ドナウパークに桜の木があるのよ」
　なんと！と僕は大げさに驚く。
「桜は世界共通か。ワシントンにもあるし」
　僕は、かつて一度だけ見たことがあるアメリカに咲く桜の木を思い出した。
　久しぶりに見に行ってみるか。
　そうして来年は見れないこの桜の木を、心の奥に深く刻みつける。