想-sou-

　初めて会ったときから、シンちゃんはシンちゃんだった。

　シンちゃんは、ママの旦那さんだ。ママはいわゆるシングルマザーで、だから、シンちゃんにとってあたしは、義理の娘ってことになるけど、
　あたしは一度もシンちゃんを、お父さんと思ったことも、呼んだこともない。お兄ちゃんとも思ったことも、ましてや弟だと思ったこともない。
　シンちゃんは、シンちゃんだ。
　あたしの心の一部に、シンちゃんという場所があるくらい、
　かけがえのない、唯一の存在。
　

　あたしの九歳の誕生日に、ママが事故で死んだ。
　それからは、あたしとシンちゃんの二人暮らしだった。
　ママが突然いなくなって、ものすごく淋しかったけれど、シンちゃんがいてくれたから、あたしはここまでやってこれた気がする。
　シンちゃんがいてくれたから。
　ずっとこのまま、一緒にいられたら、と思った。
　この家で、ずっと。
　だけど、神様は意地悪だ。
　思いもよらなかったかたちで現れて、あたしたちは、突然引き裂かれることになった。

　古ぼけた家を振り返り、あたしは挨拶をする。
　ありがとう、と。
　その言葉に、いろんな想い出があふれ出しそうになった。
　初めてこの家に、シンちゃんが来たときのこと。
　二人で頑張って作ったカレー。
　階段から落ちてシンちゃんが怪我したこと。
　リビングでふたりで聞いたシンちゃんの初めてのＣＤ。
　学校から帰ってくると、必ず音楽が漏れ聞こえてきていたこの家が、あたしは本当に大好きだった。
「行くよ、シンちゃん」
　いろんなものを押し込めてそう呟いて、黙ったままのシンちゃんを無視してあたしは駅に向かい、歩きだす。
　ふいにシンちゃんが言った。
「手、つなぐか？」
「どうして」
　そんなこと言われたこともなかったから、あたしの心臓は小気味いいくらいに飛び跳ねた。
　だけど、いつものようにシンちゃんはのっそりとした風貌で、あっけらかんと言う。
「だって、小さい頃よくそうして駅まで歩いてたろ」
「あたしが小四までの話でしょう？それに、手をつないでたのは、シンちゃんが方向音痴だからだよ」
「そうか」
「それに、今あたしたちが手をつないだら、それこそ怪しい関係に思われるかもよ」
「怪しい関係？」
　純粋なシンちゃんの目に、あたしは戸惑う。
　思わず答えそうになった言葉を飲み込む。
　シンちゃんは、法律的にはまだ子供とされるあたしよりも、きっともっと純粋だ。
　それは、シンちゃんのつくる音楽にも、その歌声にも、にじみ出ていた。
　あたしはそんなシンちゃんの音楽が、そしてとても好きだ。
　固まった空気の中で、シンちゃんがわざとはしゃいだ声を出す。
「いいじゃん、最後なんだし」
　最後、という言葉があたしの胸に刺さる。
　思わず足を止めると、数歩先に行ってから、シンちゃんが気づいたように振り返ってあたしの名前を呼んだ。
「奏？」
　だとしたら、こうしてシンちゃんがあたしの名前を、やさしく呼ぶのも最後なのだろうか。
　眠れないあたしに、でたらめな子守唄を歌ってくれることも、
　不器用だけど、温かい料理を作ってくれることも、
　陽だまりの中、うたたねしているシンちゃんをのぞき見できるのも。
　こみあげてくるものを押さえて、あたしはシンちゃんに手を差し出した。
「…いいよ」
　柔らかに笑い、シンちゃんがそっと手を伸ばし、あたしの手を掴む。
「よし、行くぞ」
　シンちゃんが、そう言った。

　ずっとこうしていられたら。

　何度も神様に願ったことを、あたしは奥歯でぐっとかみしめる。