６．地雷

６．地雷

　　林檎がそのぺたんこな胸を言われるのと同じで、僕にも言ってはいけない言葉、俗に言う『地雷』がある。
　それは、僕の名前に関することだ。
「イチゴくんって、可愛い名前ね」
　ちなみに僕の名前は、野原壱吾である。

　野原苺。
　本当はこうつけたかったと母に言われたとき、せめて漢字が「壱吾」でよかったとぼくは思った。
　つまり、母は本当は、女の子がほしかったのだ。
　だから、双子の妹の名前は「林檎」という。
　林檎とぼくは、二卵性の双子だ。あまり似てないのは、二卵性だし、性別も違うからだと誰かに聞かれるたびに母はいってたけれど、僕は知っている。
　林檎は、僕と血が繋がってない双子の妹なのだ。ちなみに、母とも父とも、林檎の血はつながってない。
　つまり、林檎はもらわれっこということ。
　でも、それは、僕と母と父だけの秘密。
　林檎はまだ知らない。

　「苺」でなくて、「壱吾」とつけてくれた母に感謝はしたけれど、そうはいっても僕の名前は「イチゴ」という赤くて、プツプツしてる甘い果物にかわりはなく、しかも僕に少なからず好意をもっている女の子たちは、まずはじめにこういうのだった。
「へぇ、野原くんって、壱吾って名前なんだ。かわいいね」
　そういう時、僕はいつもそっかなーなんて気の無い返事をする。それはいくら好きな女の子であっても、そうだ。そうして、僕の中で、はぐくまれようとしていた恋の風船は、踏まれた地雷のために、ぼんっと弾けて消えていくのだ。
　
　そうやって、僕は、いくつかの恋の風船がふくらんだり、しぼんだり、ぱーんと勢いよく割れたりを何度か経験した。
そして、それは、人生で何度目かの恋だったけど、一目ぼれというのは初めてで、だからぼくは自分が恋に落ちたということすら、気づけずにいた。

　夜が弱くて、体力にも自信のないぼくが、ケーキ屋でバイトをすることになったのは、母のおかげだ。
　そもそも、そのケーキ屋は、野原家御用達ともいえるくらい、いつもケーキを買っているお店だった。いつものようにケーキを買いに行った母はバイト募集のちらしをみつけ、ここだったらいいんじゃないかと言ってくれたのだ。
　実際バイトをするのは、水曜日の放課後と土日。ぼくはケーキ屋の奥にある喫茶店でのウェイターをすればいいだけだった。しかもお客は一日に十人くらいの常連さんが、のんびりやってきては、まったりするようなお店で、僕にとってはとても居心地のいいバイトだった。
　オーナーの百嶋さんは、その顎をおおいつくすひげのワイルドさからは想像もつかないくらいの、繊細で甘いケーキを作る。
　百嶋さんの奥さんも、レジ担当としてお店の手伝いをしていたけれど、たまに買い物でいなくなるときは、ぼくはレジと喫茶担当を兼ねことになっていた。
　そして、その日は、偶然にも百嶋さんの奥さんが買い物に出ていたのだ。
　偶然？
　いいや、これは、きっと運命だ。

　カランカランと、軽快な音が鳴って、カウンターで一人ぼうっとしていた僕は、慌てて顔をあげ、「いらっしゃいませ」と言おうとした。
　でも、その前に、僕のなかの、すべてのときが止まった。
　柔らかい風とともに入ってきたのは、セーラー服を着た女の子で、彼女は僕を見止めた。
　一瞬にして、それまでぼくを取り囲んでいた百嶋さんお気に入りのエルトン・ジョンとか、時計の針の動く音、それからぼくの心臓の音までも、止まったかのような気がした。
　そして、僕と目が合った彼女は、にっこりと微笑んで、ゆっくりとこっちに向かって歩いてきた。
　コンコンコンとローファーが軽く床を鳴らす音が急に聞こえてきたかと思うと、それにあわせるようにして、ぼくの心臓がとっくんとっくん鳴り始めていた。
　そして足音が止まった瞬間、すべての音がまた消えて、そこに澄んだ声だけが響いた。
「苺のショートケーキ、ひとつください」
　だけど、ぼくは彼女と彼女の声に聞きほれていて、彼女が何を言っているのか、まったく理解しようとしていなかった。
　惚けた僕に、だから彼女はもう一度繰り返した。
「苺のショートケーキを、ひとつお願いします」
　それから、急にいろんな音が僕に聞こえてきた。
　エルトン・ジョンの優しい歌声と、時計の針の音、そして、僕の心臓の音。
「あ、はい」
　失われた時を取り戻すかのように、僕は慌ててショートケーキを取り出そうとする。でも、気持ちばかりが逸って、ショートケーキはうまく取り出せない。
　そうこうしていると、彼女は続けて注文をした。
「あと、苺のタルトと、苺のチーズケーキ、それと―」
　僕はびっくりした。
　林檎はよく言う。
　甘いものを食べ過ぎると、にきびができるし、太る、って。（だからここ最近の林檎は、おやつの時間になっても、顔を出さない）
　でも彼女は、にきびなんかひとつもないくらいぴかぴかの肌だったし、全然太ってもいなかった。
　もしかして、なにか秘訣があるんだろうか？
「あの」
「はい？」
「一人で？」
　言ってしまって僕は後悔した。だって、彼女がすごく恥ずかしそうに俯いたから。
「おかしいですか？」
　不安そうに彼女に見つめられて、困ったのは僕だった。
「いえ、あの…」
　なんていえばいいのだろうか。
　僕には林檎という双子の妹がいて、その林檎曰く、ケーキを食べ過ぎるとにきびができるというのに、君にはまったくにきびがない、綺麗な肌をしていて、それに秘密はあるのじゃないかと思って…。
　なんて聞けない。
　困り果てた僕に向かって、彼女は逆に励ますようににっこりと笑ったのだ。
「私、苺が大好きなんです」
　次の瞬間。
　イチゴが大好きなんです、が、
　壱吾が大好きなんです、に聞こえたぼくは、思わずショートケーキを床に落としてしまっていた。
「大丈夫ですか？」
「あっ」
　声をかけられて僕は、はっと気づく。
　まずい。
　でも、完全にうちのめされた僕に、救世主が現れる。
「いつもありがとうね、ほのかちゃん」
　焼きたての匂いと一緒に現れたのは、百嶋さんだった。
　ほのかちゃん、と呼ばれた彼女はこんにちは、と挨拶をしてから、
「叔父さん。こちらこそ、いつもおいしいケーキをありがとう」
と答えた。
　二人の関係に戸惑う僕を見て、百嶋さんは、話を続ける。
「そんなに苺が好きなら、ほのかちゃん。もうひとつイチゴあげるよ」
「え？」
　そう言って、百嶋さんは真っ赤な顔の僕の肩をぽんっとたたいた。
「野原壱吾って言うんだ、彼」
「百嶋さんっっ」
　僕は叫ぶ。
　まるで苺みたいな赤い顔をして。
　そして彼女―ほのかちゃんも、その桃のようなほっぺたを、赤く染めた。
　だけど百嶋さんは、がははっと笑うだけで、そのまま彼女を僕に紹介した。
「彼女は、百嶋ほのか。似てないけど、俺の姪っ子なんだ。
ほのかちゃん、ゆっくりお茶でもしていって。俺は、買い物に出るから」
　僕らは慌てて百嶋さんを引きとめようとしたけど、結局お店には僕とほのかちゃんだけが残されてしまった。
「あの…」
　困り果てた僕に、ほのかちゃんが話しかける。
「かわいい、名前。ですね」
「え？」
「壱吾くんって」
　スイッチオン。地雷は踏まれた。
　でも、ぼくの恋の風船は、はじけることはなかった。
「ほのかちゃんには負けます」

　それが、ぼくとほのかちゃんの恋の始まりだ。
　ほのかちゃんは、たしかに僕の地雷をぼんっと踏んづけた。
　その地雷は爆発して、僕の心に火をつけた。
　つまり、ぼくがほのかちゃんに恋をしたってこと。
　ぼくが、ほのかちゃんにめろめろってことなのだ。

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