５．スカーレットと健太郎

５．　スカーレットと健太郎

「名前って、どうしたら変えられるかな？」
　ある日、林檎がそう言った。
「厠に落ちると、変えられるらしいよ」
　昔、母に言われたことをぼくは答える。
「厠って何？」
「トイレのこと」
「トイレに落ちるの？」
　目を大きく開いた林檎に、ぼくはぼっとん便所という昔のトイレを説明した。
　その途端、林檎は臭そうな顔をした。
「いやだ、そんなことするの」
　ぼくは思わず答える、
「いいじゃん、林檎は林檎で」
　小学生の頃から、イチゴチャンといってからかわれるぼくからすれば、林檎なんて名前は屁でもない。
　だけど、林檎はほほをぷぅとふくらませて言った。
「だって、ださいんだもん。真っ赤なほっぺの林檎ちゃんって言われて」
「そうかな。真っ赤なほっぺだって、いいと思う」
　ほのかちゃんの、やわらかそうなほっぺを思い出してぼくは答えた。
　そのほっぺたは、寒いときや、ぼくのことばで、時々真っ赤になったりもする。
「けど。嫌」
　林檎がはっきりといった。
　こういう時の林檎はとてつもなく頑固である。
　そして、とてつもなく機嫌が悪く、ぼくに八つ当たりをする。
「だったらさ、あだ名つければいいじゃん」
「あだな？」
「そう。だったら、自分の好きな名前で、呼んでもらえるよ」
「それじゃ、あたしはスカーレット」
　いつから、林檎は外人になったんだろう。
「壱吾もあだ名、つけたら？」
　うーむとぼくは考える。庭で犬のケンタロウがワンと吠えて、ぼくに餌をねだっていた。
「健太郎」
「ださ」
　林檎はそう即答した。

「おはよう、スカーレット」
「おはよ、健太郎」
　そう言って食卓についたぼくらに、母は驚きながらも目玉焼きを出した。
　母のつくる目玉焼きは、黄身が半熟でおいしい。その黄身をお箸でつぶし、だらりとたれる前におしょうゆをかけて混ぜ合わせるのが、ぼくと、林檎と、母と父の大好きな目玉焼きの食べ方だ。
「どうしたの二人とも」
　突然覚えのない名前が出てきて、母はぼくと林檎の顔を交互に見つめた。
「あだ名なの。あたしはスカーレットで、壱吾は健太郎。今日から、そう呼んで」
　すると母も、
「それじゃ、母さんはマリア」
　といった。しかも、横で新聞を読んでいた父も、そこから顔を出して。
「うーむ、そうだな。父さんは、翔だな」
と言った。

　一足先に支度を終えた父（本名：野原克年）が、リビングに顔を出した。
「それじゃ行って来ます、マリア、スカーレット、健太郎」
　それに、笑顔で答える、純日本人のぼくの母（本名：野原律子）と妹（本名：野原林檎）。
「行ってらっしゃい。翔」
「翔。お仕事頑張ってね」
　そして翔は、大きく手を振って、家を出ていった。

　ぼくの放課後は、ほのかちゃんのためにある。
　授業が終わると、ぼくらは、図書館で勉強をして、帰りに喫茶店でコーヒーを飲んで、たまに映画も見たりして、大事な時間を過ごすのだ。
　今日は、そのまま喫茶店でコーヒーを飲みながら、名前の話をしてあげた。
「スカーレット？」
「べただけど、林檎のやつは『風とともに去りぬ』がすきなんだ」
　ちなみに母は、聖母マリアから、そして父は『最近人気の名前』といった本をおそらく読んだと思われる。
「でもどうして、壱吾くんは健太郎なの？」
「なんとか太郎って、男だってわかるから」
　うーんと頬杖をついて、ほのかちゃんが聞く。
「どっちで呼べばいいのかしら？」
　うーんと頬杖をついて、ぼくが答える。
「好きなほうでいいよ」
　多分、ほのかちゃんに呼ばれるなら、ぼくは『バカ』でも許してしまう気がした。それがたとえ『まぬけ』でも、『おたんこなす』でも。
　ひとくち、コーヒーを飲んで、ほのかちゃんは答えてくれた。
「わたしは壱吾って名前すきよ」
　テレながらも、ありがとうとぼくが答える前に、
　でもね、とほのかちゃんは続けていった。
「でも、壱吾くんの名前が、健太郎でも、何でも。多分、わたしは壱吾くんのことすきになってたとおもう」
　もしここが、二人だけの世界だったら、
　そうじゃなくても、二人だけの空間だったら、
　そうして隣にオーダーを取りに来たウェイトレスなんかがいなかったら、
　僕はほのかちゃんをぎゅーっと抱きしめていただろう。
　けれど、ここは公共の面前ってやつで、
　そうしてぼくは立派な高校生だったから、
　手をつなぐだけで我慢した。

　家に帰ると、林檎がソファーに寝そべりながら、『風とともに去りぬ』を見ていた。
「お帰り、健太郎」
　ぼくに気づいた林檎が顔も上げずに言う。
「ただいま。林檎」
　ぼくも、そう言ったのだが、林檎はぼくのほうを振りかえろうともしない。
「林檎」
　もう１度呼ぶと、林檎はかろうじて、声だけで返事をした。
「あたしはスカーレットよ、健太郎」
「スカーレットさ、もうぼくのことは壱吾でいいから」
「ふーん」
　そして林檎はテレビを再び見始めた。
　片手にクリームパンをにぎりしめて。
　窓がカリカリと音を立てたので、庭を見ると、本物のケンタロウが中に入りたいとぼくに訴えていた。
「どうしたんだ？ケンタロウ？」
　たしか、餌はやったはずなんだけど。
　ぼくがそうしてドアを開けた途端、ケンタロウはぼくに飛びかかってきた。
「わっ」
　そして倒れるぼくを無視して、ケンタロウは部屋にあがりこむ。
「あ、りっ、すっ、スカーレット」
　そして、ものすごい勢いで、林檎に飛びかかっていった。
「危ないっ、スカーレット」
　だが、林檎がケンタロウに気づくのは、ちょっと遅くて。
　あわれクリームパンは、ケンタロウのものとなった。

　部屋のドアをノックすると、なぁに？と返事があった。
「スカーレット、お風呂空いたよ」
　ドアが開いて、林檎が姿を見せる。
「あたしは林檎よ」
　そういって林檎はパジャマを持って、ぼくのわきをすり抜けた。
　林檎は、身勝手で、破天荒で。
　そしてなにより、飽きっぽいのだ。
「壱吾。ちゃんとケンタロウに餌、やってあげてね」
　ふいに林檎がぼくの方を振りかえってそう言った。
　だけど、ぼくは林檎が大好きだ。
　母も、父も、そして、ほのかちゃんも。

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