09家族

　放課後、げた箱から靴を取りだしたところで、繭は小さくため息をついた。
　家に、帰りたくない。
　いつもよりも、その気持ちが強いのは、両親との会話にある。
　昨日、繭は一週間ぶりに母親に電話をかけた。前ならば、三日を置かずに連絡していたのだが、ここ数日は笙の特訓があって、電話することを忘れがちだった。
　電話をかけると、ずいぶん鳴ってから母は電話に出てくれた。久しぶりの母の声が嬉しくて、止めどなく日々のくだらない話をする繭に、母は唐突に言った。
「繭ちゃん、その話って今じゃないといけないかしら？」
　突き放すような言い方に繭は戸惑いながら、そんなことはないがとどうして？と尋ねた。すると母は、電話越しに溜め息をついた後、
「美奈子をお風呂に入れなきゃいけないのよ。それに大介の勉強も見てあげないといけないし」
　美奈子と大介は、母の再婚相手の連れ子だ。それぞれ、四歳と小学五年生とまだ小さい。腹を痛めて生んだ自分より、血のつながらない子供の方が大切なのかと、繭は深く傷ついた。気付いてはいたけれど、はっきりと自分は用無しだと言われたような気がした。
　突然の電話を謝り、繭は電話を切った。ベッドの上で膝を抱え、じっと携帯を見つめる。

　こんな時、佑太や琴子がいたら。

　一瞬そう思った考えを、繭はすぐにかき消す。携帯を動かす指は、自然と笙を探し、躊躇う前に電話をかけていた。聞こえてくる呼び出し音を聞きながら、繭は電話に出た笙に何て言えばいいかを考える。用はないと言ってしまえば、笙がすぐに電話を切ってしまいそうな気がしていた。どう答えるか悩んでいる間に、 呼び出し音が途切れる。あ、と思わず息をのんだ繭に聞こえてきたのは、留守電に切り替わったメッセージだった。咄嗟に電話を切ってしまい、繭は深いため息をついた。そして自分が思った以上に落胆していることに気付く。それから自嘲気味に笑った。

　携帯を持っているからって、いつでも相手と繋がってるわけじゃないのに。
　馬鹿みたい。佑太や琴子の時のこと、全然反省してないんだ、私。

　毎日のように電話で話していた。
　表情が見えなくても、手を伸ばせばすぐに触れられる距離にいなくても、繋がっていると思っていた繭は、見事に裏切られた。
　そもそも日曜日の夜なのだから、笙が電話に出なくても、当たり前なのに。
　もしかしたらお風呂に入っているだけなのかもしれない。もしくは、眠ってしまっているとか。

　…あるいは、誰かとデートしてる、とか。

　今も時折、笙が女子生徒に呼び出されているのを、繭は学校で見かける。しかし、どんなに可愛い女の子が来ても、笙は彼女を受け入れない。クラスメートの有希は、笙のことを女嫌いだと言っていたけれど、繭からするとそうとは思えない。
　だったら、どうしてあれだけ告白をにべもなく断れるのだろうか。
　その理由が、恋人や好きな人がいるからと言われても、おかしくないような艶やかさが、笙にはあった。
　
　悩んで繭は、笙にメールをした。

『さっき、間違って電話しちゃったみたい。ごめん』

　もしお風呂からあがってメールを見たら、あるいは目を覚さましたら、連絡をくれるかもしれない。そんな淡い期待を抱いたが、その日は何の連絡もなく、その夜繭はなかなか寝付けなかった。

　そして今朝も、繭の機嫌を損ねることがあった。
　いつもはおはようの挨拶くらいにしか朝は言葉を交わさない父が、今朝は出かける前に、珍しく繭に話しかけてきたのだ。
「金曜の夜は、何時に帰ってきたんだ」
　一瞬どきりとして、繭はその理由を求めて父を見つめる。そんな繭の強気な視線に、父は強気の口調とは裏腹に僅かに視線を逸らした。
「九時に電話をしたが、誰も出なかった」
　繭は、塾にもバイトにもいっていない。夕食を作ったり家事全般が仕事の繭ならば、九時になら家にいて当然の時間である。だがその時間、繭は笙のところにいた。無事、大樹との約束を取り付けたことで、笙の機嫌は良く、繭に手作りの夕食をご馳走してくれたほどだった。大樹の優しさを利用したように感じて、繭の中で渦巻いていた罪悪感も、笙の笑顔を見ると薄れていった。
「…お菓子食べたくなって、コンビニ行ってた」
　咄嗟の嘘に父は疑うことなく、そうかとだけ答え、それ以上追求することはなかった。
　所詮、娘に対する興味なんてそんなものなのだろうと繭は苛立ちながら、家を出ていく父を無言で見送った。
　繭は、父が本当のところ何が言いたかったのかわからなかった。
　だいたい、三日前の話を今するというのも、忙しい朝ならそれほど込んだ話はできないという父の逃げにしか思えなかった。
　親子なのに、常に気を使い、踏み込むことを避けている。それ故に、家は繭にとって、居心地のいい場所では決していなかった。

　あれからも繭には親しい友人はできていない。有希とはたまに話をするようにはなったものの、部活と委員会にも所属し、塾に通う有希は忙しいらしく、放課後遊びに誘うのも気が引けた。寄り道することもなく、駅の改札に入ろうとしたところで、繭はふと思い立って、駅を背に、歩き始めた。　


　チャイムを鳴らしたが、反応はなかった。
　連絡もしないで来たから、どこかに出かけちゃってるのかな。
　繭はそう思って踵を返したところで、ぷつという音がして、少しぶっきらぼうな笙の声が響いた。
「何かあったのか？」
「…そうじゃあないんだけど」
　特に用事があったわけでもなく、繭が言葉につまっていると、ドアが音をたてて開いた。
　とりあえず入っても良いということらしい。繭はドアが閉まる前にと慌てて中に入った。
　笙の部屋の前にたち、チャイムを鳴らすとすぐにドアが開いた。
「ごめん、連絡してからくればよかった…ね」
　そういいかけて繭は思わず息を飲む。目の前の笙は、髪を濡らし、肩にタオルをかけただけの上半身裸の状態で現われたのだ。
　繭がどこを見ていいのか戸惑い、あわてて視線を落とすと、シャワー浴びてたんだと笙が説明をした。だから、出るのが遅れたということらしい。
　お邪魔しますと口籠もるように言い、笙の後から部屋に上がる。廊下を歩きながら笙は肩のタオルを頭にかけて、ゴシゴシと乱暴に髪を拭いている。目の前に ある笙の剥き出しになった背中がそのたびに動き、筋肉が綺麗な形で盛り上がる。どこか中性的に思える笙の顔と引き締まったその身体のギャップに、繭は戸惑っていた。
　笙はそのまま自分の寝室のドアをあけ、繭にソファーで座っているよう告げる。言われた通りソファーに座っていると、少しして笙が現れた。髪はまだ濡れていたが、Ｔシャツをすでに着ていた。そしていつものようにキッチンに入ると、コーヒーのいい香がすぐに漂ってきた。
　差し出されたカップを受け取りながら、繭は盗み見するように笙を見つめる。コーヒーを飲んでいるその喉元が大きく滑らかに動くのを見て、繭は鼓動が高鳴っていくことを感じていた。
「シャワー浴びてたんだ。邪魔してごめんね」
「別に」
　沈黙。繭は慌てて言葉を探す。
「蒸し暑いもんね、毎日。汗もかくよね、ほんと」
「走ってたんだ」
「そ…う」
　すると、笙がカップを置いて繭を正面から見据えた。
「何？」
「え？」
「俺の顔に何かついてる？」

　じっと見ていたことがばれていたのだと、繭の頬はかっと赤く染まった。
　そして言い訳するように、繭は早口でしゃべる。

「そうじゃないけど。笙って部活入ってるんだって思って」
「入ってない。どうして？」
　
　きょとんとした表情で聞かれて、繭はますます恥ずかしくなった。

「鍛えてるんだなと思ったから。…ああ、ほら。走ってきたって言ったから」
　言ってしまって、繭は耐えきれず顔を伏せる。

　これじゃ、見ていたのが笙の体だってバレバレじゃない。

　しかし当の笙は、繭の言葉を聞いても、表情を変えずに、コーヒーを口にして呟くように答えるだけだった。

「せめて自分が守りたいものくらいは守れるようになりたいから」