10写真

「せめて自分が守りたいものくらいは守れるようになりたいから」

　思いがけないその言葉の意味を探して、繭が顔を上げた時、チャイムが鳴った。
　笙はカップを置いて、インターホンの前に立ったところで、モニターを見て少し表情を変えた。

「俺の部屋に行って」

　客が来たならと帰ろうとする繭に、笙は繭に向かって繭の鞄を渡して命令した。

「部屋は廊下の右側の一つ目のドアのところ。
　入ったらドア閉めて。俺がいいって言うまでは部屋から出ないこと」

　そしてもう一度繭に部屋の場所を指示して、笙は髪をかきあげながらモニターに出た。
　繭は言われた通りドアを閉めると、少しして玄関のドアが開く音がした。と同時に、明るい女性の声が聞こえてきた。

「ごめんね、急に。作ってたら、この肉じゃが笙君好きだったなぁって思い出しちゃって」

　ちょうど繭のいるドアの前を通った時にだけ、女性がそう言ったのがわかった。
　声の感じだけでいえば、ちょうど繭の母親と同じくらいに思える。

　笙のお母さん？

　笙は家族はいないと言っていた。それが、亡くなっていないのか、一緒にここに暮らしていないだけなのか、繭にはわからない。
　そもそもこのマンションは、笙が一人で暮らすには広すぎるし、高校生の一人暮らしと考えると随分と豪華なマンションだ。

　どうして笙は一人で暮らしているんだろうか。
　それに、あの女の人は誰？

　ドアに耳をつけてリビングの様子をうかがうけれど、物音は聞こえてくるものの、具体的に何を話しているかはわからなかった。繭は溜め息をついて諦めると、ふいに部屋の様子が目に入ってきた。
　最初に連れてこられてから、もう何回も笙の家には上がっているものの、笙の部屋に入ったのは初めてだ。

　ずいぶん綺麗にしてるんだな。

　余計なものが一切ないのはリビングと同じで、置かれているものはベッドと机と本棚だけ。殺風景と言えば殺風景で、無機質な部屋。
　壁に制服が掛けられているわけでもなく、鞄すら見当たらない。観葉植物もなく、壁にはポスターも貼られていない。モデルルームよりも、もっと生活感のない部屋だ。
　ぐるりと見回したところで、あれ？と繭は本棚に近づいた。棚には、写真集や画集が多く置かれていて、漫画はおろか小説もない。ただその中で、一冊だけ薄ピンクの表紙が見えたのだ。

『アルジャーノンに花束を』

　そう書かれた本の表紙は、まさしく花束のイラストで、笙にしては珍しく乙女っぽく思えた。興味を覚えた繭が、中を開こうとした時、何かがするりと抜け落ちた。繭が慌てて落ちたものを広いあげると、それは一枚の写真だった。

　これって、笙？

　写っているのは、幼い時の笙のようだ。世代の違う家族らしき人々に囲まれて、無邪気な笑顔が今とは全然違う。

　その時ドアが開き、大きなため息とともに、無愛想な表情の笙が顔を出した。
　写真とのギャップに思わず繭は吹き出す。
　そんな繭を見て、怪訝そうな表情を浮かべる笙に、思わず繭は笑いをこらえながら、手にした写真を見せる。

「これって笙でしょ？」

　ちらりと見せた写真に気付き、笙の表情が変わった。

「返せ」
「幼稚園だよね。ほっぺたふくふくして可愛い」
「うるさい」
「照れることないよ。誰にだって小さな頃はあるんだし」
「おい」
「一緒に写っているのは、ご両親とお婆さん？こっちはおじさん夫婦？笙ってお姉さんいたんだ」

　気付けば部屋の中では追いかけっこが始まっていた。真剣な表情で写真を奪おうとする笙から、繭は笑いながら逃げ続ける。

「笙のお母さんも美人だけど、お姉さんも美人ね」
「お前には関係ない」
「だけどがっかりしてるだろうな。小さい頃は可愛かったのに、今はこんなに大きくなって」

　その瞬間、笙の手が繭の手首を掴む。と同時に繭の足がベッドサイドにひっかかった。声をあげる暇もなく、繭は背中からベッドに倒れこんだ。咄嗟に掴まれていない方の手で、笙の服を掴む。倒れ込む瞬間、目をつぶると、繭の体はベッドで小さく跳ね上がった。その時、鼻に何か柔らかくしっとりとした感触が残 る。目を開けると、すぐ目の前に笙の顔があった。陶器のようなつるりとした男にしてはきれいすぎる肌が、すぐ目の前にあって、触れてはいないのに笙の体温が伝わってくる。切れ長の瞳の中に自分の惚けている顔を見つけて正気に戻ると、慌てて繭は顔を逸らした。恥ずかしさに、手で顔を覆ったところで先ほどの感触を思い出す。
　もしかして、今のって笙の唇？
　そう思うと、胸の高鳴りが更に激しくなった。ぎゅっと目を閉じると、小さな息が繭のおでこを揺らし、手首にかかっていた圧力が消えた。そして掴んでいた写真が一瞬のうちに手から抜かれていく。そして、沈んでいたベッドのマットがゆっくり上がるのと同時に繭は近くに感じていた笙の体温が消えていくのがわ かった。
　目を開けた繭の前で、起き上った笙は写真を手にして背中越しに、小さく安堵のため息をついていた。そして、少し振り返るようにして、横目で繭を軽く睨む。
　切れ長の瞳が、更に鋭く輝き、繭はどきりとした。
　ばつが悪くなった繭は、慌ててベッドから起き上がる。だが、胸の高鳴りが気になり、言葉が出てこない。気持ちを鎮めようと髪を何度も撫でながら、盗み見するように笙を見ると、机の引き出しに写真を閉まって、鍵をかけていた。
　本気で繭に見られたくない写真だったらしい。

「ねえ、笙はどうして一人暮らししてるの？」

　写真に写っていたのは、着物姿のお祖母さんに、両親と思われる三十代くらいの夫婦がふた組、そして笙よりいくらか年上の女の子。
　一人暮らしをしている理由も気になっていた繭は、一息ついてそう尋ねた。笙は繭を振り返りもせずに答える。

「一人だからだ。親は死んだ。兄弟もいない。これで満足か」
　さらりとそう言われ、繭はその衝撃に顔を強張らせる。
「ごめんなさい」
「悪いと思うなら、勝手に人の物を触るな」
「…はい」

　そのまま追い立てられるようにして笙に部屋を追い出された繭は、ソファーに置きっぱなしだった自分の鞄を力なく手にして、リビングを出て行こうとした。
　無神経に色んなことを聞いてしまったことを反省していたし、笙からすれば勝手に詮索された挙句、親のことを思い出して早く一人になりたいのではないかと思ったのだ。

「それじゃ」

　そう言って笙の家を出て行こうとする繭を、しかし笙は部屋から出てきて引きとめた。

「用事あるのか？」
「そういうわけじゃ、ないけど」
「だったら、夕食くらい食べていけよ」
「でも…」
「これだけの料理、一人じゃ食いきれないだろ」

　言われて繭は恐る恐る振り返る。笙が指した食卓の上には、ゆうに四人分はある料理が並べられていた。中央に山のように盛られているのは、肉じゃがだ。
　どうやら先ほどの女性が持って来たものらしい。
　笙の表情を伺うと、少しだけ拗ねたような表情を浮かべていた。自然と繭から笑みがこぼれる。

「わかった」