君にふる雨は、優しい雨であってほしい
07笑顔
放課後、呼び出された笙の家で、ついに繭は手足を投げ出すようにして床に座り込んだ。
「それってどうすればいいのか、わからない」
呼び出されるのは、放課後の予定のない繭にとってはむしろ好都合だ。
しかし、その理由が笑顔の特訓と言われれば、逆に引く。おまけに単に笑えばいいというものではないらしく、笙は細かい注文をつけてくる。もともと人前で楽しくないのに笑顔なんか浮かべられないと思っている繭にとって、これは相当な苦痛だ。
座り込んで動かない繭を見て、小さな溜め息をつく音がしてから、繭の前でふわっと空気が動く。顔を上げると笙が繭に合わせて床にしゃがみこんでいた。
「簡単だよ。繭は照れるからいけないんだ。素直に微笑めばいい。例えば、赤ちゃんが楽しそうに笑ってるのを見た感じ、とか」
そうして繭の顔を、躊躇することなくじっと見つめる。
戸惑ったのは繭の方で、慌てて顔を逸らして、ぶっきらぼうに答えた。
「余計わからないわ。やってみて」
拗ねたような言い方をしてしまい、子供っぽいと笙に思われないかと心配する繭だったが、一度口にした言葉は取り戻せない。
面倒な女って思われたら、どうしよう。
不安に駆られ、鼓動の高鳴る繭の前で、ため息交じりの声が聞こえた。
「わかった」
笙は呟くようにそう答えると、立ち上がり、繭の正面のソファに腰掛ける。
自然と繭は、笙を目で追いかけた。
笙は小さく息を吐くと、両手を左右に広げてリラックスしてから、顔を俯かせ、目を閉じた。
長い睫毛の影が、つるりとした頬に落ちる。長めの前髪が、秀でた額の上で揺れていた。
そして、ゆっくりと始まる。朝日が昇るように、ゆっくりと顔を上げながら、徐々に笙は目を見開いて行く。黒々とした瞳が見えた時、ふっと空気が和らぐようにしてその目が細くなる。細い顎に合うように、少し小さめな唇の、その端がくっと上向いた。
その瞬間、繭の胸は掴まれたようにきゅっと痛んだ。
どうして…ただ、笑っただけなのに。
「どう？」
笙にそう問われ、慌てて繭は答える。
「う、うん。わかった」
「じゃ、やってみて」
当然とばかりに笙はそう言う。繭は急いで両手を振った。
「そんな、急に無理。練習しないと」
慌ててそう言う繭が面白かったのか、笙は先ほどとは違う笑みを浮かべて、楽しそうに言う。
「わかった。じゃあ今日から鏡見て練習百回。ノルマだから」
冗談でしょう？という表情の繭を見て、笙は更に声を上げて笑う。からかわれたことに気付いて繭が思わず顔を赤くしていると、ごめんと笙は更に笑った。不思議とそんな笙の笑顔を見て、今度は心がすっと和らぐことに、繭は気付いた。
同じ笙の笑顔に、苦しくなったり、心が落ち着いたり。どうしてこんなに心が乱されるのだろうか。
そう思う繭だが、その答えはすぐに見つかりそうになかった。
家に帰り、繭は笙に言われた通り、練習しようと思った。が、鏡を前に練習をしていると、すぐにあの笙の笑顔を思い出してしまい、鏡には頬が赤らんでいる自分の顔が映る羽目になった。
けれど、笙の言葉を思い出し、繭の表情からすっと恥じらいが消える。
「これができるかどうかで、繭が渡来大樹に近づけるかどうかが決まるんだ。
繭なら、絶対にできる。
俺は、そう信じてるから」
あの後、真剣な表情に戻って笙が言った言葉。
この笑顔がどれほどの効果を生むのか、繭には見当もつかない。
しかし、笙に期待され、できると断言された繭は、同じように笙を信じるしかなかった。
そして、約束の前の日。ついに繭は笙にＯＫと言わせる笑顔を浮かべられるようになる。
「できると思ったよ、繭なら」
そう言って笑顔を浮かべる笙に、繭は恥ずかしそうに微笑み返した。
そして約束の日。
繭は、約束した時間にいつもより一つ先の駅に到着した。渡来大樹の最寄り駅であるこの駅は、繭がいつも使っている駅と違って急行が止まる。
笙によると、繭のいつもの登校時間より三十分ほど早い急行電車に渡来大樹は乗車して会社に向かう。乗る車両もいつも決まって、前から三両目の真ん中のドア。
言われた通りのその場所に、渡来大樹はいた。
長身のおかげでか、周囲の人間に埋もれることなく、大樹は新聞を読みながらホームに立っていた。今日は濃紺のピンストライプのスーツに黄色いネクタイ。派手に見えがちなスーツだが、難なく着こなしているのは渡来大樹自身のセンスがいいからなのだろう。
そう考える繭の耳に、電車の到着を告げるアナウンスが流れる。繭はそっと、渡来大樹の後ろに並んだ。とりあえず予定通りだ。気になってちらりと振り返る
と、少し離れたところに笙が立っているのが見えた。笙も繭に気付いたようだが、視線で前を向けと伝えてきた。繭は叱られた子供のように首をすくめて正面を
向く。すると、電車がホームに滑り込んできた。吹いてきた風から、微かに爽やかな香りが漂ってくる。大樹のつけた香水なのだろうかと思う繭の前で、電車のドアが開いた。
中はすでに込み合っていた。それこそが繭が急行に乗らない理由なのだが、今日はそうは言ってられない。慌てて乗り込み、大樹のすぐ隣に立つ。
すべては笙が計画した。
混雑した電車の中で、繭は携帯を大樹の鞄に入れる。携帯は繭のものではなく、この日の為に笙が用意したものだ。そのまま繭は、学校の最寄り駅でいつもの
ように電車を降り、その足で公衆電話から大樹のポケットに入れた携帯に電話をかける。電車に乗っている大樹は電話には出られないが、誰かの携帯が自分の手
元に紛れ込んでいることに気付くだろう。しかし、朝の忙しい出勤時間に、駅に携帯を届ける余裕もない。おまけに一度着信があったのであれば、持ち主がもう
一度かけてくる可能性があるだろうから、そのまま手放さないはずだ。そして、大樹が会社に着いた頃を繭は見計らって、もう一度携帯に電話をかける。大樹が
出れば、携帯を返してもらうために、次の日大樹の最寄り駅で会うことを約束する。
「渡来大樹が電話にでなかった場合は、別の方法を考えるから、繭はとにかく言われた通りにやってくれ。大丈夫、繭ならできるよ」
そう言った笙の言葉を思い出し、繭は囮になる携帯をスカートのポケットの中で手にした。
隣に立つ大樹を、繭はそっと見上げた。
混雑した電車の中でも、一人抜け出すように身長は高い。流石に新聞を読むことは諦めたようで、車内にある広告用のモニターをじっと見つめている瞳は、薄茶色で柔らかな印象だ。
いったいこの優しそうな人が、どんな笙に怨みを抱かせることをしたんだろう。
ドア付近に立ち、同じく周囲から少し抜き出た笙の艶のある黒髪を見ながら、繭はそう思った。ドアのガラス越しに笙と目が合う。切れ長の目は、繭に計画を実行するよう告げていた。
気付けば窓の外を、いつも止まる駅のホームが流れている。繭が降りる駅は次の駅だ。
時間がないと慌てて携帯を鞄から取り出そうとした時、電車が軽く揺れた。気が逸れていたのもあり、繭の体はその反動で大きく揺れた。手すりにでもつかま
ろうと思ったが、手にした携帯の方に気がいって、咄嗟に手を出すこともできない。満員電車だからと安心していたのもつかの間、エアポケットのように空いて
しまった人と人との空間に体が放り出されると思った時、繭はぐっと腕を掴まれ、何とかその場に留まることができた。掴まれた腕の先に視線を送ったところ
で、繭は思わず息をのんだ。
「大丈夫？」
よほど強張った顔をしていたからだろうか。自分を見つめる大樹の目が、心配そうに見えた。
「あ…はい。あの、ありがとうございます」
小さく礼を言うと、大樹は無言の笑みを返してきた。
その笑みは、心の底から安心しているように思えて、その優しさに繭は戸惑った。
と、車内アナウンスが流れ、次の停車駅が近いことを知らせた。
それなりに人の乗り降りの激しい駅だから、チャンスは今しかない。
繭は手にした携帯を握りしめると、そっと大樹の様子を伺った。大樹は、先ほどと同じく車内モニターを見つめている。もうすでに繭のことは頭にないらしい。繭はそっと手を伸ばすと、僅かに空いていた大樹の鞄の隙間に携帯を忍ばせた。
駅の公衆電話から、繭は手帳にメモした携帯番号を鳴らした。十回コールしたが、相手は出ない。おそらく大樹はまだ電車の中なのだろう。それでも、バイブではなく着信音が鳴るように設定していたから、自分の鞄に知らない携帯が紛れ込んでいることに気付いているはずだ。
繭は公衆電話を切ると、今度は自分の携帯を持ち出し、笙の携帯を鳴らした。
「どうだった？」
１コールで笙が出る。
「言われた通り、鞄に入れた。携帯鳴らしたけど、やっぱり出なかった」
繭がそう言うと、笙がそうか、と掠れた声で答えた。
「そういえば、何か話したのか？」
小さな声だと思ったが、笙には聞こえていたらしい。
「話ってほどのことじゃなくて、ちょっと…ぶつかっちゃったの」
何故か、助けてくれたとは言いづらく繭はそう答える。顔を上げると、バス停近くで佇む笙の姿が見えた。
「そういえば顔色悪かったみたいだけど、大丈夫？」
電車を降りる時、ちらりと見えた笙の顔色は青白く、気になって繭はそう話しかける。
「苦手なんだ満員電車。でも、もう平気だ」
そう言えば笙の通学ルートは、自転車だということを思い出す。
わざわざ苦手な満員電車に乗ってくれたのって、もしかして私の為なのかな。
そう思うと、少し鼓動が早まった。
「それじゃ、学校についてからも連絡頼む」
口早にそう言って携帯を切ろうとする笙に、思わず繭は引きとめた。
「ねぇ」
「ん？」
「あの人…」
倒れそうになった私を助けてくれたのよ。
優しそうな人だったし。
あの人…渡来大樹は、笙に何をしたの？
そう言うか言わないか悩んで、繭は小さく息を吐く。
「ううん。何でもない。学校ついてから、もう一回電話する。もし出たら、明日駅のホームで返してもらうって約束すればいいんだよね」
ああ、という笙の声からは、繭の聞きたい答えは見えなかった。