君にふる雨は、優しい雨であってほしい
0６作戦
「簡単だ。
君にはヤツに近づいて、親しくなっていてほしい」
そう言った笙に、繭はそれって…と聞き返す。
「親しくなるって…恋人になるってこと？」
すると笙はくすりと笑った。
この前見せたような艶やかな笑みではなく、少年が笑ったような無邪気な笑顔だった。
「そこまでじゃない。でも、最低でも友達かな。変に期待持たせて、繭の身に危険が迫っても困るから、無理しなくていい」
繭。
自分が呼び捨てで呼ばれたことに、繭は思わずどきりとした。
しかし笙は、今までも何度もそう呼んだことがあるかのように、自然に繭の名前を言う。
「とにかく繭が呼んだら、仕事中でもどんな場所にも駆け付けるっていう関係になってくれればいい。
そう、何の疑いもなく、指定した場所に来てくれるくらいの関係になっていてもらいたい」
「でも。できるかな…私」
そう繭は呟く。
知らない人と話すのも苦手だが、嘘をつくのも苦手だ。そして、人に甘えるのも苦手。
そんな自分が、写真のような大人の男性相手に、友達になれるなんて繭には想像できなかった。
しかしそんな繭の気持ちを落ち着かせるように、笙はゆっくりと話す。
「近づき方は、俺が指示するから安心していい。
繭は俺の作ったシナリオに合わせて、話を進めるだけで大丈夫だから」
安心しろと笑みを浮かべる笙に、思わず繭は頷く。
しかし、頷いてからはたと気付いた。
「彼と友達になることが、水谷君にとっての復讐なの？」
とてもそんな風には思えなかったが、答える前に笙が瞬きもせずに繭をじっと見て呟いた。
「ショウ」
綺麗な口許に見惚れて、繭は「え」と声を上げる。変な声を上げたことに繭が顔を赤らめていると、笙は優しい笑みを浮かべて言った。
「俺のことは、笙でいい」
「…う、うん、わかった」
瞳に宿る優しい光に、繭は鼓動を高ぶらせると、俯いた。
無表情だと思っていた笙だが、意外にもいくつもの笑顔を繭に見せてくれる。
そのたびに、笑顔は深く繭の心に突き刺さり、鼓動は跳ねあがる。
笙は、気付いているんだろうか。
カップに口をつけながら、繭はちらりと笙を盗み見する。
しかし当の本人は、そんな視線に気づかずに、満足そうな笑みを浮かべている。
いったい笙は、何を考えてるの？
「それで、私はこの渡来って人と親しくなって、何をすればいいの？」
カップを置き、試しにそう聞いてみた。
自分が渡来大樹と親しくなったところで、いったいどんな復讐になるのかが、繭には想像できなかったのだ。
繭の質問に、笙は笑みを浮かべたまま、遠く窓の外に視線をはせて答える。
「計画が進んできたら話す」
やはりその後に、何かがあるようだ。
繭はずっと聞きたかったことを口にした。
「笙…と、彼の関係は？」
「繭には関係のないことだ」
「それは…そうだけど」
はっきり言われて口ごもる繭に、笙は説得するように話す。
「お互い知らない方がいいこともある」
どうやら話す気がないらしい。
ならばと、繭は話を少しだけ変えてみることにした。
「…どんな人？この渡来って人って」
見た目は爽やかで、優しそうな雰囲気だ。女性にもモテそうでもある。
繭がそう話すと、笙はコーヒーを一口飲んで答えた。
「確かにモテるみたいだな。だけど、女にはだらしがない」
「そうなの？そうは見えないけど」
すると、笙はじろりと繭を睨みつけるようにして見つめる。
「だから繭みたいな女が騙されるんだ。
でもいいか？だまされるのは繭じゃない。ヤツだ」
強い口調で言われて、繭は「わかった」と答えると少し肩を落とした。
だが笙はそんな繭を気にかけることなく、カップを手にしたまま立ち上がると、大きな窓の前に立ち、カーテンを引いて空を見上げた。
「雨が降りそうだから、その傘、持って帰るといい。用件は終わったから、帰っていいよ」
一度も繭を振り返ることなくそう言った笙を腹立たしく思い、繭は言われた通り出て行こうとカップを置いたところで、動きを止めた。
家に帰っても、誰もいない。
電話で話す相手もいない。
つまり、あの家に繭の居場所はないに等しいのだ。
「ねえ、このカフェモカってどうやって作るの？」
急に声を明るくした繭を、笙は振り返って尋ねる。
「帰らなくていいのか？」
「うん。塾も行ってないし」
「親が心配しないのか？」
「お父さんは仕事人間だから帰ってくるのも遅いし、私のことなんか興味ないもの」
さらりとそう答えられて驚いたのか、笙は言葉を失くしていた。
その隙に、と繭は聞きたかったことを口にした。
「それより、笙は？お父さんやお母さんはいつ帰ってくるの？兄弟はいるの？」
「家族はいない」
「…そう」
一緒に住む家族がいないという意味なのか、
それとも家族そのものがいないという意味なのか、繭には分からなかった。
だが、それ以上聞いても、笙は答えてくれない気がした。
それほど険しい表情をして、窓の外を眺めていたのだ。
気持ちを切り替えて、繭は笙に別のことを尋ねた。
「ねえ、そういえば、琴子たちはどうしたの？」
すると、笙の口許に不敵な笑みが浮かびあがった。
「種は蒔いてある。少ししたらわかるよ」
「種？」
しかし笙はそれ以上何も答えてはくれなかった。