君にふる雨は、優しい雨であってほしい
05実行
『五時に家で待つ』
笙からの初めてのメールをもう一度見直してから削除すると、繭は教室を出る。
メールの宛先人は、笙ではなく『レイン』となっていたのは笙からの指示だ。
理由は、繭と笙とのつながりを常に隠すため。
削除をしたのも、笙からの指示だ。
ただ笙の名前をレインとしたのは、繭だ。
「何でもいいから、俺の名前で登録しないでくれ」
笙はそう指示しただけ。
繭は分かったと答えて、少し悩んでから登録名をレインとつけた。
rain、つまり雨。
出会った日も雨だったし、初めて貸してくれたのは傘だった。
そうだ傘。
ふと思い出して、繭は空いた時間で駅ビルに寄り、傘を買った。出会ったあの日に壊してしまった傘と同じ赤色はなかったが、青空のような晴れ渡った青色の傘を見つけ、繭は代わりにとそれを買う。
生徒手帳も返さなきゃ。
繭は拾ったままの笙の生徒手帳が鞄にあるのを確認した。
いつか渡そうと思いながらもそのチャンスがなくて、ずっと鞄に入れたままだったのだ。
ちょうどいい時間になったので、繭はそのままメールの指示の通り笙の家に向かった。
不思議なもので、笙の家へと向かう足取りは重いものではない。
殺風景ではあるけれど、繭にとって笙の家はどこか居心地のいいものだったのだ。繭は気付いていなかったが、心のよりどころであった佑太と琴子を失ってから、繭にとって全てを知る笙の存在は知らず知らずのうちに大きなものになっていたのだ。
マンションのエントランスでチャイムを鳴らすと、返事はなくドアが開いた。その素気なさを少し物足りなく感じながらも繭は、中に入っていく。
部屋の前に来てチャイムを鳴らすと、入ってという返事が聞こえた。鍵の掛かっていないドアを開け、繭は中に入る。
静まり返った玄関。
お邪魔しますと声を出してはみたが、当然のように返事はない。
靴を脱ぎながら繭は玄関に置かれた靴が、笙のものしかないことに気付く。
もしかして、一人暮しなんだろうか。
この前家に上がった時の生活感のない部屋の雰囲気も思い出し、そう思った。それにしても、一人で済むには広く、豪華な家だ。
もしかして、お金持ちの息子だとか？
リビングに入ると、キッチンに居る笙が見えた。
繭の存在に特に気遣う風もない笙の姿に、繭は小さくため息をつきながら、そのまま次の指示を待つ。
こんなに冷たい人だったっけ。
二人だけの時は、もう少し優しい人だと思っていたのに。
…それともあれは、繭を巻き込むための作戦だったのだろうか。
疑いの目を笙へと向けていると、笙は顔をあげずにようやく繭に声をかける。
「座って」
前と同じく、繭はソファに座る。繭が少々不機嫌になって座ると、笙が気付いて声をかけた。
「雨、降ってるのか？」
笙に持ってきた傘のことを指しているのだと思い、繭は「降ってないよ」と答える。
「借りた傘、ダメにしちゃったから、その代わりに」
すると笙は、ああと流すように答えて、別によかったのにと呟いた。
「よくないよ。ちゃんと返さないと、それから―」
そう言って生徒手帳を出そうとしたところで、キッチンから笙の淡々とした声が聞こえてきた。
「別に、俺の傘じゃない」
だったら誰の傘だったの、と思う繭だが、笙からの返事はない。
やっぱり、私のこと、どうでもいいのかしら。
繭の機嫌が更に悪くなったところで、笙がコーヒーを持って現れた。
コーヒーは飲めないって言ったのに。
そう思う繭は、香ばしい中に、僅かに漂う甘い香りに気付く。
笙がつっけんどんに答えた。
「カフェモカ。加減わかんなくて、甘すぎるかもしれないけど」
自分の好みを覚えてくれていることが嬉しくて、繭は思わず笑顔を浮かべる。どうやら黙りこんでいたのも、慣れないカフェモカと格闘のせいだったようだ。
「ありがとう」
さっそく一口飲んでみると、確かに少し甘さが強い。
それでも、繭の心は十分に暖かくなった。
「おいしい。ありがと」
とっつきにくいかもしれないけど、
女嫌いかもしれないけど、
笑顔も少ないかもしれないけど。
でも、きっといい人。
そんな気がする。
そう思いながらカフェモカをもう一口飲む繭の前に、写真が一枚滑り落ちてテーブルで止まった。
濃いグレーのスーツに、水色の格子柄のシャツに薄いピンクのネクタイ。オシャレなスーツも似合う爽やかな外見の男性だった。年も若く二十代半ばだと思われる。
誰だろうと思って顔をあげると、繭の目の前に座った笙がにこりともせずに答えた。
「渡来大樹。広告会社の伝鵬堂に勤めるサラリーマン。年は二十四だ。
ここから二つ先の駅のアパートで一人暮らししてる」
淡々と告げられる属性からしても、自分とはまったく関係がなさそうな人物のようだ。
その答えを求めるように笙をじっと見つめると、一瞬だけ写真を見つめる笙の視線が険しくなり、こわばった表情のままで笙が話を続けた。
「俺が復讐したい相手だ」