03共犯

　渡されたタオルで髪を拭きながら、繭はふと洗面所の鏡に映った自分の姿を見つめた。
　私、何やってるんだろう。
　車にひかれそうになって、知らない人に助けられて、その知らない人の家に連れてこられて。
　琴子が聞いたら、
『小学生でもしないでしょ、そんなこと』
と笑われそうだ。そう、そして佑太には、
『それだから繭のこと、放っておけないんだよな』
と言われて、笑顔で頭をなでてくれるに違いない。
　想像して、ふっとほほ笑んだところで、繭はここに来ることになった原因を思い出し、顔を強張らせた。

　馬鹿みたい。私。
　
　鏡に映った自分の姿は、ひどく滑稽に思えた。
　耐えきれなくなり、洗面所を出ると、廊下の奥の部屋から何かいい香りがする。
　歩いて行って顔を出すと、キッチンのところに立っている笙が見えた。繭と同じく雨にぬれた笙も着替えを済ませていた。ポロシャツとベージュのズボンといったラフな格好だ。入口で突っ立っている繭に気付くと、笙は「座って」と短く言った。
　言われるままに繭は中に入り、笙が目で示したソファに座る。
　静まり返った部屋は、モノトーン調に綺麗に整理されていて、余計なものが一切ない。窓の外から聞こえてくる激しい雨音が余計に耳についた。
　二十畳ほどある広いリビングには、繭が座る大きなソファが中央にあり、その向かいにはテレビが置かれている。間取りはよくわからないが、部屋は二つ三つありそうだった。しかし、他に人の気配がない。
　一人っ子だとして、親が出払っているにしても、生活感があまりない家だ。
　そう思いながら繭が部屋を見渡していると、いきなり低い声がすぐ傍から聞こえてきた。

「膝、出して」

　目の前に、跪くようにして笙が座っている。
　突然に言われて、繭が戸惑っていると、笙はため息交じりに説明をしてくれた。

「怪我してるだろう」

　そう言って笙が広げたのは、救急セットだった。思い出したように、アスファルトに打ちつけた膝がしくしくと痛む。仕方なく繭が膝を出すと、その前にしゃがんだ笙が再び溜め息をついて繭を下から見上げた。

「もう少し、あげてくれないか」
　
　膝にかかりそうなスカートの裾のことだと気付いた繭は、慌ててたくしあげたが、太ももが露わになり、慌ててスカートを伸ばすようにして太ももを隠す。鼓 動が高鳴っていることに気付き、繭はスカートを掴む手をぎゅっと握りしめる。しかし笙は表情を変えることなく、何も言わずに、治療を始めた。
　初めに消毒液をかけられた時、繭は思わず息をのんで顔をしかめたが、笙に見つめられて何も言わずに唇をかみしめることにした。
　緊張している繭に対して、笙はいたって冷静だ。

　なんか私って、馬鹿みたい。
　振られたばかりなのに、もう別の人、しかも私に興味なんてないって雰囲気の人にドキドキするなんて。

　笙は手際良く手当てを終えると、救急セットを持ってすっと立ち上がった。

「あの…ありがとう」

　慌てて繭がその背中にそう声をかける。だが笙は僅かに動きを止めただけで、すぐにまた歩き出し、救急セットを壁際の棚の中にしまう。
　そしてその作業が終わると、笙は黙ってキッチンに消えていく。

　どうしたらいいんだろう。

　濡れた体もタオルで拭き、膝の治療も終わった。
　ここに自分がこれ以上いる理由はない。

　帰る、しかないよね。
　
　立ち上がろうと思ったところで、香ばしい香が漂ってくる。
　笙がカップを持って現れ、繭に差し出してきた。
　どうやらお茶の一杯を飲むまではいていいらしい。
　ほっとして、ありがとう、と受け取ろうとしたところで、繭はその手を止める。

「あ」

　だがカップの中を見て、手をひっこめた。綺麗な切れ長の瞳がじっと見つめていることに気付き、慌てて繭は説明をする。

「ごめんなさい、コーヒーは苦手で。
　カフェモカだったら、なんとか飲めるんだけど」

　繭がそう言うと、笙は何も言わずに踵を返してキッチンに戻っていった。
　怒っているのだろうか。
　無表情の笙からは何も読みとれなかった。
　車の事故から助けてくれて、タオルまで貸してくれて、おまけに温かいコーヒーまでくれたのに、それを断るなんて、確かに恩を仇で返しているようなものだと思う。何となく、居づらくなった繭が帰ろうと思っていると、再び笙がカップを持って現れた。
　差し出されたものの、繭が戸惑って手を出さないでいると、切れ長の目がまるで命令するような鋭い視線に変わった。
　慌てて受け取ると、先ほどと違う香に気付く。
　カップの中をのぞくと、白い液体が入っていた。
　ホットミルクだ。

「ありがとう」

　一口飲み込む。
　ふわっとした温かさが、繭を包んだ。
　途端に、何かが緩んだ。そして、溢れだした。
　あれと思う間に、生ぬるい涙が、繭の頬を伝う。
　気付いた笙が、僅かに目を見開くと、尋ねた。

「痛い？」

　カップを置き、涙をぬぐいながら繭は答える。

「ごめんなさい、違うの。…ちょっと。色々あって」

　緩んだのは、涙腺だけではなかった。
　気付けば繭は、佑太と琴子の話をしていた。
　仲の良かった三人。繭にとって二人は唯一無二の恋人と親友だったこと。
　けれど、その二人が自分を裏切っていたことを初めて知ったこと。
　そして、それは自分のせいらしいこと。

「私が悪いって。でも、転校することを勧めたのは琴子だし、佑太だって引きとめたりしなかった」

　琴子が転校を勧めたりしなければ、
　佑太だっていくなっていってくれれば、
　私は絶対に転校なんかしなかったのに。

「本当なのかな」
「え？」

　それまで一言も発せずに、頷くこともなくただ黙って繭の話を聞いていた笙がふいに口を開いた。
　独り言を呟くように話していた繭は、笙が一瞬何を言ったのか飲み込めず、思わず聞き返した。すると、笙は手に持っていたカップをテーブルに置くと、身を乗り出すようにして繭との距離を詰めてから、その目をじっと見つめていった。

「もしかして、君が転校する前から、本当は二人の関係は始まっていたのかも。
　それで、君が転校すればいいんだって二人が計画したんだとしたら？」

　その言葉に、繭ははっと気付いた。
　繭の転校を勧めた琴子。
　強く引き留めることをしなかった佑太。
　一度そう思うと、その前に何度も思い当たる二人の行動があったことを、繭は思いだし始めた。些細な言葉、二人の間で交わされた視線。気付けばそれぞれに深い意味を成していく。そして、それが疑いではなく真実だという気持ちが徐々に強くなっていった。
　知らぬは自分一人だけ。
　三人で歩いていても、繭に気付かれないようにして、二人はきっと目を配り、お互いの気持ちを確認していたのだとしたら…。

「…許せない」

　気付いたら繭はそう口にしていた。

「私…二人のこと、絶対に許さない」

　小さな声だが、それは確かに笙に響いた。
　笙は繭の決意を確認したように何度か頷くと、リラックスしたようにソファの背にもたれながら低い声で言った。

「交換殺人って言葉知ってる？」
「交換殺人？」
「お互いが、相手の殺したい人間を殺すんだ。そうすれば加害者と被害者の関係性は薄れるし、アリバイがあれば依頼者が疑われることもない」
「本で、読んだことあるかも」

　そう呟く繭に、笙はほほ笑んだ。
　艶やかな、大輪の花が咲くような笑みだった。思わず見惚れた繭に、笙はその笑顔を一ミリも崩さずに口を開いた。

「同じように、交換復讐、してみないか」
「交換復讐？」

　笙は繭に今度は首をかしげるようにしてふっとほほ笑む。切れ長の瞳が、きらりと輝いた。

「復讐してあげるよ、君の友達に。
　親友を裏切るなんて最低の行為だってこと、俺が教える。
　だから、君も俺が復讐したい相手に、復讐してほしい」

　瞬き一つせず、笙はじっと繭を見つめてそう言う。
　親友を裏切るなんて最低の行為だ。
　初めて繭を擁護する言葉に、繭も見入るように笙を見つめて答える。

「わかった」