02裏切り

　とりあえずもらった傘を手にして、繭はやってきたバスに乗り、駅へと向かう。繭の住む家までは、そこから各駅停車に乗って三駅だ。
　だが誰もいない家に素直に帰るつもりもなく、ひと気のいないところで佑太に電話をかけようと思ってバスを降りたところで携帯が鳴った。
　相手は佑太だ。
　以心伝心。
　離れていても、私と佑太は繋がっている。
　そう微笑みながら列から離れ、高架線下の雨宿りできる場所を見つけて駆け込むと、繭は慌てて電話に出る。
　だが繭が佑太の名前を呼ぶ前に、佑太が言った。

「あーオレオレ、今家出るとこなんだけどさ。お前持ってないよな、ほら、あれ、ゴム。この前切らせちゃっただろ？買ってくから、もう少し遅れる」

　話のみえない繭が、え？と聞き返すが、佑太は繭の声に気付かないほど興奮しているのか、早口でまくしたてた。

「でも超ラッキーだよな。うちの親がいないのと同じタイミングでお前んちの親が旅行に行くなんて。あー、俺の方は大丈夫。亮輔にアリバイ頼んどいたからさ。
　つーわけで、今夜はずっと二人っきりだぞ、琴子」

　呼びかけられた親友の名前に、ついに繭は声をあげた。

「佑太？」
「…あ？」

　途端に電話が切れた。最後に小さく、やべぇと呟く佑太の声が、繭の耳に残された。
　佑太の会話を思い出すが、うまく言葉をつないで考えることができない。
　ただ胸に何かがつかえたような後味の悪い気持ちだけが残っていた。
　それらをかみ砕くと、答えはひとつにたどり着く。
　でも、まさか…違うよね。
　繭はそう思いながら、震える手で琴子の携帯を鳴らす。
　数コールして琴子が出た。

「あれ？繭。どうしたの？いつもだったら夜に電話くれるのに」

　明るい琴子の声が、逆に繭を憂鬱にさせる。

「あーでも、今もらってよかったかも。夜、ちょっと用事があってさ、電話出れそうにないんだよねー。えへへ」
「…ねえ、琴子の親って、旅行中なの？」

　震える息を押し戻し、勇気を出してそう尋ねると、琴子がえ？と聞き返してきた。本当に驚いている声だった。
　どうして知らないはずの繭が知っているのかと、丸い目を更に見開いている琴子の表情が目に浮かぶ。
　その瞬間に、繭は堰切ったように尋ねていた。

「佑太が、どうして琴子の家に泊まるの？用事ってそのこと？アリバイって何？
　まさか琴子、佑太と…」

　その先は言えずに思わず息をのむ。
　繭にとって、佑太も琴子も大切な存在だった。
　二人がいれば、他には誰もいらないと思っていたし、二人も同じ思いでいてくれると信じていた。
　けれど、聞こえてきたのはさっきまでの弾んだ声とは対照的な、琴子の冷静な声だった。

「付き合ってるよ。繭が転校してから、すぐに、そういう関係になった」
「どうしてっ―」

　叫ぶ繭に聞こえてきたのは、淡々と話す琴子の声だった。

「繭が悪いんだよ。
　佑太を一人にするから。佑太のこと置いて行っちゃうから。
　佑太、ショック受けてた。
　繭は自分より都会を選んだって。
　それに…ずっと言えなかったけど、あたし、繭が佑太と付き合うずっと前から佑太のこと好きだったの」

　突然の告白に、言い返すことも忘れて繭は混乱する。
　だって初めて佑太を紹介した時、琴子は「おめでとう」と言ってくれたはずだ。
　確かに琴子にはファンだとか言う先輩はいても、彼氏も特定の好きな人もいなかったけれど、でも繭と佑太が付き合うことを応援してくれた。
　繭の気持ちが伝わっているのか、琴子は繭の疑問に答えていく。

「黙ってたのは悪かったと思う。でも、悪いのは繭なんだから。
　だって突然佑太を連れてきて彼氏だって言われたら、おめでとうとしかいえないじゃない。
　あたしは自分の気持ち、隠し続けるしかないでしょう。
　ずっと好きだった人のことが近くに居て、嫌いになったり他の人を好きなったりなんかできないよ。
　それなのに、彼の恋人は彼を置き去りにしていっちゃうし。
　好きな人がずっと落ち込んでたら、誰だって慰めたくなるでしょう？
　佑太だって悪くない。寂しい時に優しくされたら、心が揺れるのも当然よ」

　――悪いのは繭だ。
　だから、あたしたちは悪くない。
　そう琴子が繰り返す前に、繭は震える手で電話を切っていた。
　震えているのは、手だけではない。その時の繭は、砂浜に立ったような気持ちだった。
　引く波に、足元の砂を奪われて、覚束なく、立っているだけで精一杯の状態。
　降り注ぐ雨に、体中を濡らしながらも、それに気遣う余裕すらない。
　――悪いのは、繭。
　両親の離婚で、繭には暮らしていたマンションを慰謝料の一部として与えられた母か、
　仕事上の都合で都会で暮らすことになった父か、繭にはそのどちらかについて行く選択肢が与えらた。
　繭が暮らしたいと思ったのは母だったが、母にはその時すでに他に恋人がいて、結婚することも決まっていた。しかも相手は地元の名士で、お互いが再婚同士だった。相手には小さな子供がいて、母は慰謝料のマンションはもとから売り払って、相手の家に入ることになっていた。
　そして、そこには繭の居場所はなかった。
　口には出さなかったものの、母は繭が父について行くことを望んでいたことは分かっていた。
　だが繭も、佑太と琴子のいるあの街からは離れたくはなかった。
　悩んだ結果、琴子の言葉が繭を押し出してくれたのだ。

「離れてても、変わらないよ。あたしとの友情も、佑太との関係も」

　だから、安心して行っておいで。
　そう言ったのは、琴子だったはずなのに。
　ふいに、通りがかりの人が繭の肩にぶつかってきた。
　軽くひっかけた程度に持っていた傘が、手から離れて道路へと飛んでいく。
　相手はちらりと繭の方を見たが、謝ることもなく歩いて行く。
　気付けば、雨の中で濡れる繭を無視して、周りの人々はそれぞれの目的の場所へと進んでいた。
　だけど、私はどこに行けばいいの？
　ここにも…いられない。
　繭は、そのままふらふらと歩き出した。
　しかし、この先どこに行けばいいと言うのだろう。
　父は繭が一緒について行くと告げても、喜んだりはしなかった。元から仕事で忙しく、顔を合わすのも一日にあるかどうか、だった。
　どこにもない。
　私の居場所は、どこにも。
　ふらふらと繭は横断歩道を渡る。途中、信号が点滅して、赤に変わったが繭には何も見えていなかった。
　次の瞬間、激しいクラクションが鳴り響いて、繭はゆっくりと音のする方に顔を上げた。
　車が繭に向かって走ってきていた。
　けれど、繭は逃げようとしなかった。
　逃げる場所すらない。
　二人がいれば、他には何もいらないと思っていた二人に、裏切られたのだ。
　繭の居場所はもうどこにもないに等しかった。
　生きていても仕方がない。
　車のライトで視界が白く飛ぶ。あまりの眩しさに思わず目を閉じたところで、繭は強く腕を引かれるのがわかった。
　次の瞬間感じたのは、膝の痛みと、タイヤが地面を擦る音。
　そして、強い鼓動。
　顔を上げると、そこには学生服を着た男の子がいた。
　ぼんやりする視界の中で、繭はそれがさっき繭に傘を渡した水谷笙だと気付く。
　どうやら彼が、繭を抱きかかえるようにして、車の前から繭を連れ出したらしい。そして二人はそのまま道路へと倒れ込んでいた。
　車の運転手が慌てて降りてきて、どちらともなしに尋ねた。

「大丈夫ですか？」
「はい」

　答えたのは笙だ。
　艶のある響く低い声だった。
　立ち上がって、自分が投げた青い傘を拾い上げると、道路にうずくまったままの繭の手を引き、立ち上がらせる。
　その時、膝の痛みを覚えて繭はうずくまりそうになったが、笙が脇に手を入れて繭の体を支えてくれた。繭はその手を振り払う気力も体力もなく、されるがままについて行く。
　雨にぬれず、安全なところ、ということなのか、笙はとりあえずすぐ傍の高架線の下まで繭を連れていった。
　繭が車止めポールに座り込むと、笙は足を止めてそのまま繭を支えていた腕をほどいた。
　雨音はますます激しさを増していく。
　だがその音は、ひとつフィルターを通したように繭にとっては遠くに聞こえた。
　ふいに先週の佑太との会話を思い出した。
　携帯越しに聞こえてきた雨音に佑太が気付いて、こっちは雨なのだと繭が告げると、佑太は心配して言ったのだ。
『それじゃ、体冷やすなよ。
　繭は雨に濡れるとすぐに風邪ひくから』
　本当は風邪じゃなくて、気分が重たくなるのだと言おうとしたけれど、佑太の優しさが嬉しくて胸がいっぱいになり、繭はありがとうと答えることしかできなかった。
　だけど、あの優しさも、嘘だった。
　あの笑顔も、
　あの言葉も、
　全部。
　あの時とは違う想いで胸を押しつぶされそうになり、繭は思わず自分の体を抱きしめる。
　わたし…、佑太に振られたんだ。
　言葉にならない想いは、涙となって繭の目から溢れそうになった時、ふいに何かが体にかけられたことに繭は気付く。
　顔を上げると、すぐ前に、真剣な表情の笙がいた。