27真実

「ああ…君が、笙君か」
　大樹の呟きに、笙の肩がびくんと上がる。そして笙は、意を決したように大樹を振り返る。
　大樹は自分を正面から見た笙を見て、くすりと笑った。
　さっきまで眠らされ、今も手足をロープで椅子で縛りつけられていているとは思えない大樹の余裕に、繭も思わず息をのみ込んだ。しかし、よく見れば後ろ手に縛られた大樹の手が、僅かに動いている。
　だが繭は、そのことを笙に告げることも、また大樹を庇い笙に掴みかかっていくようなこともせず、ただ二人をじっと見つめていた。
　大樹は、顔を強張らせている笙に、そのまま笑顔で話しかけ続ける。
「なんで知ってるんだって顔だ。
　二回顔合わせたこと、覚えてないかな。でもあの時君はまだ中学二年生だったっけ。あの頃は女の子みたいに華奢で小さかったな、そういえば。
　ほら、コンビニの前で絡まれてただろう？俺が助けたんだけど。
　二回目は、家の前だったかな。俺は車だったから、少し離れたところにいたんだ。君は、同級生に告白されてたよ。もちろん断ってたけどね。
　それにしても、大きくなったな。
　あれからもう二年経つのか」
　重苦しい雰囲気にそぐわない大樹の明るい声が、体育館によく響いた。
「…どうして。
　どうして俺のことを知ってる。
　たかが数年前に、たった二回会っただけで、どうして俺のことを覚えてる。
　俺は挨拶なんかしなかったはずだ。礼も言わなかった。
　一切言葉も、視線も交わさなかった！」
　だんだん大きくなっていく声が、笙の動揺を表していた。
　綾南を介して、二人は知り合いだったと思った繭の推測も、その笙の言葉がかき消していた。
　すると、大樹は「どうして？」と笙の言葉を繰り返し、またしてもくすりと笑う。
「綾南だよ、君のことはよく綾南から聞いていたからね」
　その瞬間、繭は薄暗がりの中で大樹の縛り付けられた椅子からロープが落ちるのが見えた。大樹の手が自由になったのだ。
　しかし興奮している笙はそれに気付いていないようだ。先ほど床に置いた鉄パイプを拾い上げ、大樹に向かってそれを振りおろそうとした。
　繭は慌てて駆け寄り、その体に後ろから抱きついた。
「やめて、笙。そんなことしても綾南さんは帰ってこない」
　ありふれた言葉だとは思いながらも、それ以外の言葉が出て来ず、繭は奥歯をギリリと噛みしめた。
　本当ならば、綾南のことをもう忘れてほしいからといいたいのだが、無論そういうわけにはいかない。
「放せ」
　笙は乱暴にそう言って、繭の手を振り払う。
　バランスを失った繭は、そのまま横に飛ぶようになり、床に倒れ込む。静まり返った体育館に、その音が一層響いた。すると、そうなると思っていなかったの か、笙が驚いた表情で振り返り、咄嗟に手を伸ばす。しかしそれは一瞬のことで、大樹の「繭ちゃん」という声を聞くと、笙はその手を伸ばすのを止めてすぐさ ま繭に背を向け、大樹に向き直ろうとした。だが、椅子には大樹の姿はなかった。
「大丈夫？繭ちゃん」
　その声に笙が振り返ると、手足が自由になった大樹が、倒れた繭に駆け寄っていた。
　大樹は笙が繭に気を取られている隙に、自由になった手で足のロープも解いたのだ。
　大丈夫ですと答えながら、繭が笙を見上げると、そこには残酷な表情をした笙が自分を見下ろしていた。
　大樹を助けるために、笙に抱きつき止めたのだと思っているのだと繭は感じ取った。
　裏切り者、と口には出さないけれど、笙がそう自分のことを思っているのがわかる。
「違うの、笙。私は」
　震える声でそう言いかける繭と大樹に、笙は鉄パイプを振り上げて向かってきた。
「繭ちゃん！」
　大樹がそう言って、繭の前に立ち、庇う。
　鈍い音がして、小さな呻き声と共に大樹が肩を抑えて床に蹲った。
「渡来さん！」
　慌てて繭が駆け寄ると、大樹は大丈夫と答えるものの、その表情はこわばり、額からは汗が出始めていた。どうやら笙の振りおろした鉄パイプは、大樹の肩を直撃したようだった。
　本気なのだ。笙は。
　本当に、大樹を傷つけようとしている。
「どいてろ」
　その時、低い声がそう繭にかけられた。顔を上げると、笙が再び鉄パイプを振り上げている。
「止めて、笙っ」
　今度は繭が大樹の前に立ち、笙に立ちはだかった。
　そんな繭を見て、笙が声を荒げる。
「そんなにしてこいつを助けたいのか？」
「違うっ、確かに渡来さんには怪我してほしくないけど、私が本当に助けたいのは笙の方」
「俺を助ける？」
　嘲るように笙はそう言うと、にやりと口元だけに笑みを浮かべて繭の腕を掴んだ。
「だったら、どいてろ」
　そのまま横に振り払われそうになるのを堪え、繭は必死に掴まれていない方の手で笙の服を掴んだ。
「笙！」
　そのまま繭は笙の体に抱きついた。
　両手を笙の背中にまわし、必死に解かないようにしている繭を、流石に笙も力で振り払うことはできず、笙は繭にというよりは大樹に向かってはっきりと言い放つ。
「確かにこいつを殺したところで、綾南は戻ってこない。
　でも、それじゃいつまでも進めないんだ、俺が。
　綾南だって浮かばれない。
　綾南を殺したのに、のうのうと暮らしてるこいつが許せないんだ」
「俺が綾南を殺した？」
　笙の言葉に、大樹がそう呟く。
「ああそうだ。直接手を出したのはあんたの恋人だったけど。それもこれも、全部あんたが迫水理沙がいながらに、綾南に手を出したからだ」
　それを聞いて、大樹は再びくすりと笑った。
「なるほど君は勘違いして、こんな計画を立てたのか。だから繭ちゃんを綾南に見たてて俺に近づかせた」
　気付いていたのだと、繭は目を見開く。しかし笙はそのまま話を続けた。
「ああそうだ。そしてあんたはその罠にまんまとはまってここまでやってきた」
「馬鹿だな、綾南」
　鼻で笑いながらそう言った大樹に、笙が怒鳴り返す。
「何だと？」
「意地を張るのもたいがいにしろって言ったのに」
　柔らかな表情を浮かべながら大樹は下から笙を見上げる。
「君は誤解をしている。俺のこともだけど、綾南のことも」
　笙の喉仏が上下に動くのがわかった。
　大樹は肩を抑えつつも、ゆっくりと立ち上がり、笙に向かって話し続けた。
「まず一つ。確かにあの頃、俺には恋人がありながら、他の人に心を奪われた。だけど相手は、綾南じゃない。それは綾南も知っていた。
　理沙にはきちんと話をして謝ったよ。許してくれと言われても許されることじゃないとはわかっていたけれど、嘘をつきながら彼女と付き合い続けることはできなかった」
「だけど、迫水理沙はそうは思わなかった。だからあの日、彼女は綾南を追いかけ、あんたとのデートの約束だと知ると嫉妬して綾南を交差点に押し出した」
「理沙がそう言ったのか？」
　目を見開いた大樹に、笙はふんと鼻で笑い返す。
「あの女は自分は悪くないと言う一点張りだったよ。綾南が自分からあんたを追いかけて交差点に飛び込んだと言ってね」
　それを聞き、大樹は納得したのか数回頷いて答えた。
「確かに理沙を追い込んだのは俺の責任だ。
　けど、彼女は綾南を殺してはいない。
　交差点に飛び込んだのは、綾南の意思だ。
　運悪く赤信号で、運悪く自動車が突っ込まなければ、あんな悲劇は…生まれなかった」
　最後には苦しそうにそう言う大樹を見て、笙は体を強張らせて叫ぶ。
「そんな風に言って、自分には責任がないとでも言う気か？」
　笙の叫ぶ声が、静まり返った体育館に反響する。
　落ち着いて、と繭は必死にその体を抱きしめるが、笙は今にも大樹にとびかかりそうな勢いでいる。
　大樹はそんな笙を見て、悲しそうな笑みを笙に向けた。
「確かにあの日、俺は交差点近くの喫茶店で綾南と待ち合わせをしていた。でも残念ながら君が思うようなデートの待ち合わせじゃない。綾南がどうしても相談したいことがあるからと呼び出したんだ」
「相談？」
「あの頃の綾南は、恋の悩みを抱えていた。俺はその相談相手だった。
　受験のストレスもあって、綾南の精神は不安定で、だから俺は会うことにした。
　ところが、待っても待っても約束の時間に綾南はやってこない。
　時間にはきっちりした性格だったからおかしいと出てみて、綾南の事故に遭遇したんだ。
　凄まじいスリップ音だったよ。
　俺は慌てて駆けつけた。
　その時はまだ綾南は意識があった。少し話せる程度にはね。
　綾南は理沙に押されて、交差点に飛び込んだんじゃない。俺を追いかけてきたわけでもない。
　交差点に落とし物をしたことに気付いて、慌てて取り戻しにいったんだ」
「落とし物？」
　大樹はGパンのポケットに手を入れた。身構えた笙だったが、大樹が手にしたものを見て、表情を変えた。
「それ…」
　差し出したのは、赤い御守だ。
　繭は、小さく声を上げる。それは、いつか大樹がポケットから落とした御守だったのだ。
　薄暗がりではあったが、合格祈願と書かれた御守であることが分かった。見覚えのある所々についている黒い染みも、はっきりと見える。
　あれは、大樹の物ではなく、綾南の物だったのだ。
　大樹は一言一言を、噛みしめるようにして答えた。
「綾南がとても大事にしていたものだ。
　君からもらった唯一の贈り物だと言っていたよ」
　カランカランと音がして、笙の手から鉄パイプが落ちる。
　繭が見上げると、笙は今にも泣き出しそうな表情を浮かべて、呟いていた。
「…どうして、綾南。
　受け取らなかったじゃないか。それどころか、俺の目の前で投げて捨てた」
　繭はそれが、有希から聞いた時の御守なのだとわかった。
　有希の友人が笙の家まで行って告白をしたこと。けれど、綾南の姿を見かけた笙は、目の前の彼女は置いて、綾南を追いかけ、手にしていた御守を渡したこと。
　しかし、綾南はそれを投げ、慌てて探そうとした笙を怒鳴りつけもしたこと。
　大樹は力なく首を振る。
「本当は喜んでたよ。でも、綾南は素直に受け取ることができなかった」
「どうして？」
　そう尋ねたのは繭だ。
　確かに、母親の弥栄子も、綾南は意地っ張りで我儘だと言っていた。
　けれど、笙を傷つけるようなことをする必要はないはずだ。
　笙のことが好きだとしたら、尚更。
　すると大樹は、数回頷くと、笙を見つめて答えた。
「君は他の子の告白を無視して、綾南を追いかけてきたそうじゃないか。
　あの場で受け取れば、その女の子は君のことを恨む。
　綾南はそうなってほしくなくて、だからわざと君に冷たく当たった。もちろん、素直じゃない綾南の性格でもあっただろうけどね」
　大樹は悔しさをにじませながら、憐みの視線を笙に向けそっと微笑んだ。
　しかし笙はそんな大樹に気付くことなく、独り言のように呟いている。
「綾南に怒られて、次の日こっそり探したのに、見つからなかったんだ。
　なのに…どうして…」
「綾南は夜中にひっそりと探したそうだよ。隣の家にいる君に見つからないか、ひやひやしながらね」
　激しい気性の裏に隠された、綾南の儚い想い。
　笙も自分の想いにひたむきだった分、きっと気付けなかった想い。
　そして、二度と届くことのない想い。
　大樹は深いため息の後に、口を開く。
「君も俺を綾南の恋人だと思うくらいだから、気付いていなかったようだね。
　綾南はずっと君のことが好きだった。
　俺が受けていた恋の相談は、君のことだったんだよ」
　大樹のその言葉に、すっと笙の体の力が抜けた。慌てて繭が支えた為、倒れることはなかったけれど、それでも繭がいなければ笙はその場にうずくまってしまいそうだった。
　笙…。
　見上げると、笙の綺麗な切れ長の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれている。
「嘘だ…、いつだって、綾南は、俺のことなんか男としてみていなかった」
　笙の体が小刻みに震えている。
　大樹はそんな笙の肩に手を置いた。
「けれどずっと気にかけていた。
　その感情が何なのか、ずっと綾南自身も気付いていなかった。
　わからない感情に苛立ち、君に八つ当たりをするようになった。
　そんな自分が嫌になって、そのうちに君を避けるようなった時にようやく気付いたんだ。
　だけど、意地っ張りな綾南は、それまでの態度を変えることも、自分の気持ちに素直になることもできなかった」
　笙の言葉を繋ぐように大樹は答え、笙の隣で笙を支えている繭に一度視線を向けて言う。
「君は、繭ちゃんを人格すら綾南に似せたつもりだったようだけれど、実際の綾南は違ったよ。
　もっとずっと、子供っぽくて、プライドが高くて、そのくせ弱虫で、泣き虫だった。
　君の前ではずっと強がっていたんだよ。憧れのお姉さんという存在でいるためにね」
「…嘘だ」
　まるで子供が駄々をこねる時のような笙の甘い声だった。そして大樹は、それを諭すような優しい声で話を続ける。
「自分のせいで両親が死んだと責める君のことを、いつも気にしていた。
　最初は、弟のような存在として。そのうちに、一人の男として。
　この御守も、俺に託したのは綾南だ。
　もしこのせいで、綾南が事故に遭ったんだとわかったら、きっと君はまた自分を責める。
　それが嫌だから俺に持っていてほしいと言った」
　そう言って差し出された御守を見て、笙がゆっくりと目を見開く。
「俺が…俺が、綾南を…？」
　殺した？
　そう言おうとした笙の言葉を、大樹は鋭く遮る。
「そうじゃない。
　あれはただの事故だった。
　あの日が雨じゃなくて、あの交差点が見通しの悪い交差点じゃなくて、そして信号が赤じゃなければ、きっと起こるはずもなかった事故だった。
　君のせいじゃない。
　綾南もそんなことを望んでいたわけじゃない」
　しかし笙は繭に支えられていない方の手で顔を覆うと、繭の支えも無視してそのまま膝から崩れ落ちて行った。両手で頭を覆い、震えているのは泣いているからだろう。
　繭はそんな笙に一瞬手を伸ばしかけたが、思い直して戻す。
　今の笙には、一人で綾南の気持ちと向き合う時間が必要な気がしていた。
「繭ちゃん」
　名前を呼ばれて、繭が顔を上げると、大樹が少し苦い顔をして、優しく微笑みかけていた。
「ごめんなさい。ずっと騙してて」
「まあ当然だよ。君みたいな可愛い女子高生に声かけられるなんて、普通じゃありえないから」
　そう言ってくすりと笑う大樹は、いつもの少しおどけた大樹だった。繭は無言でもう一度頭を下げてから、尋ねてみた。
「でも、いつから気付いてたんですか？」
「最初の勉強会の時かな。
　君は気付いてなかったみたいだけど、あの時君の落とした鞄から、笙君の生徒手帳が見えたんだ。
　写真は一瞬じゃわからなかったけど、名前はよく覚えていたから。もしかして、と思って綾南の事故現場にも連れて行ったけど、君は綾南のことは知らないみたいだったから、ただの偶然かもしれないと思った時もあったよ。
　でも勉強を教えてくれと言う割には苦労してなさそうだし、必死そうでもなかったから、悩んでもしょうがないってしばらく家庭教師の気分を楽しんでた」
　大樹はそう言うとにこっと笑いかける。
　つられて笑いかけた繭は、大樹がさっきからずっと笙に殴られた肩を抑えていることに気付いた。
「肩…」
「大丈夫。このくらいじゃ、骨にひびは入ってないだろうし。湿布してればそのうち治るよ。
　それより。彼のこと、頼んだよ」
　綾南の分も。
　大樹はそう言って、繭に綾南から預かっていた御守を渡した。
　体育館を出ていく大樹に深々と頭を下げ、繭は振り返る。
　笙は相変わらず床にうずくまるようにして座り込んでいる。繭は笙に近づくと、そっとその大きな背中に手をまわした。