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　海辺の高台に立つ病院の、小高い丘に笙は立っていた。
　海から吹いてくる風が心地よい。
　笙が押す車いすに座る祖母も、そんな心地よさを味わっているのか、今日は機嫌がよかった。
　ふと、笙の頬に何か水滴がぽたりと落ちてきた。
　梅雨が明け、今日の天気は晴れのはずなのにと空を見上げると、空はどんよりとした厚い雲に覆われていて、大粒の雨が降り始めた。
　通り雨のようだ。
　病院の建物に逃げ込むよりは、すぐ傍にある大きな木の下に隠れた方が賢明だと、笙は急いで車いすを押した。
「お祖母ちゃん、濡れてない？」
　樹の下のベンチの脇に車いすを置き、笙はそう話しかけ、祖母が持っていたタオルでその白くなった髪を拭く。
「ああ、平気だよ」
　にこやかな笑顔でそう答える祖母を見ていると、病気のことなど忘れてしまいそうだった。
　しかし、病状は着実に進行している。
　それまでに、自分は何ができるだろうかと、木の下に置かれたベンチ座り考えていると、ふいに祖母が尋ねてきた。
「どうしたんだい？笙。ぼんやりした顔をして。描いてた絵はどうなったんだい？」
　絵？と笙は繰り返し、祖母の記憶が昔に戻っていることに気付く。
　笙は小さい頃から絵を描くのが得意だった。
　祖母に見せては、よく褒められたものだった。
　笙はゆっくりと答える。
「ダメになったよ、お祖母ちゃん。
　最後がうまく描けなくて、めちゃくちゃに塗って、捨てた」
　綾南の復讐は、結局遂げることもできずに終わってしまった。
　それが綾南の意志ならば仕方ないと思うものの、この一年間その為に日々を過ごしてきた笙にとっては、これから何を目指して生きていればいいのかわからなくなっていた。
「それなら、また最初から描き始めればいいじゃないの」
　ふいに祖母が口を開く。
　え？と笙が聞き返すと、祖母はにっこりと笑って答えた。
「昔からそうだったろ？綾南ちゃんに、よくぐちゃぐちゃにされてたじゃないか」
　綾南は絵画の能力は皆無だったらしく、それを嫉妬してなのか、笙の書いた絵を誰かが褒めるたびにそれを破り捨てていたのだ。
　幼い頃は体力の差もあり、綾南から絵を奪い返すこともできず、笙はびりびりになった絵を前によく泣いていた。
「そうだね」
　時折、綾南との思い出も祖母の方がよく覚えていたりする。
　そうやって、自分の中で少しずつ薄れていく綾南の存在が怖くて、だからこそ復讐を決意した。
　そうして、綾南を永遠に自分の中にとどめておこうと思ったのだ。
　しかし時の流れには抗えないのかもしれない。
　降り始めた雨を見ながら、そう笙は想いを馳せていた。
「こんにちは」
　ふいに声がして笙は振り返り、そこに赤い傘をさしている繭の姿を見つけて戸惑った。
　繭のことを思い出していた為に、そこにいるのが一瞬自分の幻想なのかと思ったのだ。
　言葉を失くす笙より先に口を開いたのは、祖母の方だった。
「こんにちは。えーっと…？」
　一度会ったことがあるというのに、やはり祖母は忘れているらしい。
　それでも繭はにっこりと笑って答えた。
「笙君の友達です」
「それはそれは、いつも笙がお世話になっております」
「お祖母ちゃん」
　慌てる笙の前に、看護師が傘を持って現れた。
「水谷さん、良かった。急に雨が降り出したから、心配してたのよ」
　そう言って笙に話しかけた看護師だったが、繭の存在に気付くと、あらと口元を抑えた。戻るべきかどうすべきか、看護師が悩んでいる間に、祖母が笑顔で答える。
「笙はお嬢さんとしばらくここにいなさい。私たちはお邪魔だから、さっさと病院に戻ることにするよ」
「お祖母ちゃん！」
　咎めるように笙が叫んだが、祖母は一向に気にするそぶりも見せずに、傘をさす看護師に車いすを押させて病院に戻って行った。
　そんな後ろ姿を見ながら笙は溜め息をつくと、隣の繭がくすくすと笑っていることに気付いた。
　夜の小学校で会って以来、繭とは口も聞いていなかった。
　学校ですれ違っても、話はおろか視線を交わすこともしなかった。
　それが自分が決めた約束だったからだ。
　それでも時折、笙はすれ違った後に振りかえって繭の後ろ姿をちらりと盗み見した。そう言う時の繭は、たいてい有希と一緒に笑い合っていた。
　まるで、笙との出会いがなかったかのように。
　大樹も笙に負わされた傷を警察に訴えることもなく、何事もなかったかのように、学校は終業式を今日迎え、明日から夏休みが始まろうとしていた。
「どうして？」
　ベンチに座りなおした笙は、隣に座った繭に尋ねる。繭はさしていた赤い傘を畳みながらうんと小さく頷いてから、はっきりと答えた。
「笙に会いたかったから」
「どうして俺に―」
「笙と話がしたかったの」
　繭はそう言うと、あのね、と少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「本当は、最初からやり直そうって言おうと思ったの。
　お互いの過去、全部忘れたつもりで、出会うところから。
　でもね、忘れたくないって思ったの。
　だって、どんな形であれ、私は笙と出会って、救われたんだから。
　それに、楽しい想い出だっていっぱいできたのに、それを忘れるなんてできない」
「けど」
　笙はそう言い返す。
　綾南に似た繭を、自分の復讐に利用しようと交換復讐を持ち出したのは自分だ。
　おまけに、繭を傷つけもした。
　そんな自分が許されるわけがないと思ったのだ。
　しかし、繭ははっきりと答えた。
「それでも、一緒に居たいの。
　笙と一緒に居たい。
　笙の隣で笑っていたい。
　笙の寝顔を見ていたい。
　笙のカフェモカも飲みたいし」
　カフェモカと言われて、思わず笙はくすりと笑う。
　見よう見まねで作ったものが、あれほど気にいられるとは思っていなかった。
「カフェモカくらいなら、いつでも作るよ」
　繭の表情がパッと和らぐ。
　最初は、それこそ幻想じゃないかと疑うほど、繭は綾南に似ていると思っていた。
　けれど、全然違う。
　綾南なら、例え綾南がどれほどカフェモカを気にいっていたとしてもそれを認めるようなことは言わなかっただろうし、作ると言っても表立っては喜んでくれなかったはずだ。
　それに、と心の中で笙は意地悪く微笑んで、
「けど寝顔は見せない」
と語気を強めて言った。
　途端に繭の表情が曇る。
　綾南なら、こういうときは有無を言わせず笙に命令して、笙が言い返そうものなら、百倍は言い返されていた。
　横目でちらりと繭を見ると、繭はしゅんと落ち込んでいる。
　そんな繭を愛おしいと笙は思いながら、平然と答えた。
「俺が、繭の寝顔を見ていたいから」
　え？と繭が驚いた表情で笙の方を振り向いた瞬間、笙は狙った通りにその唇を素早く奪う。
　驚き、逃げ出そうとした繭の腕を引き、更に強く繭を引き寄せた。
　赤い傘がぱたりと音を立てて地面に転がる。
　波音をかき消すように聞こえていたはずの雨音が、さっと引いて行った。
　最初は戸惑っていた繭も、傘を持っていた手を伸ばし、笙の体に触れる。
　再び空に太陽が輝く。
　優しい海風と、なだらかに聞こえてくる波音の中、そうして二人は何度も唇を重ねた。