26復讐

　土曜日の夕方。
　繭はいつものように、大樹と勉強をしているファミレスに入った。
　父親は、今日も仕事だった。父親には正直に、偶然知り合った会社員の人に勉強を教わっていて、今日は晩御飯を食べながら勉強をする約束になっているのだと告げた。
　あの日、父親が笙の家に乗り込んで来た日から、繭と父親の関係は、少しずつ変化していた。
　それほど遅くなることなく帰ってきた繭を、父親はそのまま家へと迎え入れた。
　笙とのことを問い詰めもしない父親に、繭は日曜日の嘘を謝った。
　本当は、事故に遭ったかつての友人の家に見舞いに行ったこと。そしてその日の帰り、笙の家に立ち寄って、笙が病気であることに気付き、看病してそのまま寝てしまったこと。
　話しながら、笙との思い出が繭を包み、知らぬ間に繭は涙を流して引っ越してきてからのこと全てを話していた。
　友達に裏切られたこと。
　そのことを相談できる友達もこちらにはいなくて寂しかったこと。
　けれど、父親も母親も、自分のことは気にかけてもらえなかったこと。
　そんな時に笙と出会い、ようやく自分の場所を見つけられたと思ったこと。
　けれど、それももう終わりにしようと笙に告げられたこと。
　父親は全てを黙って聞いていた。そして、繭の話が終わると、しばらくして、小さな声で繭に謝った。
「すまなかった。お前がそんな不安を感じてるなんて、気付く余裕すらなかった」
　転勤してからの父親も、環境の変化と今までの自分のやり方とは異なるこちらの会社の仕事の進め方に、慣れるので精いっぱいで、繭のことに構ってる余裕がなかったというのだ。
「…笙君、というのか？繭の友達と言うのなら、今まで通り付き合ってもいいんだぞ。ただ、外泊は駄目だ」
　優しく言う父親に、しかし繭は言葉なく首を左右に揺らす。
「私のせいでそれが難しいと言うのなら、今からでも謝りに行ってもいい」
　少し必死そうな父親の声に、繭は変わらず首を振る。
　きっと、父親のことは、きっかけだったにすぎない。
　感づいてしまった後輩。
　怪しんでいるクラスメート。
　二人の関係は、もう終わらせる時期に来ていたのだ。
　少なくとも、笙はそう思っているはずだ。
「…繭は好きなのか？彼のことが」
　ふいに父親がそう尋ねた。こんな話をするのは初めてだったが、繭は素直に答える。
「でも、ダメなの。彼には、好きな人がいて―」
「母さんと離婚した時、とても後悔したことがある」
　繭の言葉を遮ってそう言った父親の声に、繭は顔を上げる。
　そこには、見たことのない生身の父親の姿があった。
「自分の気持ちを素直に伝えていなかったということだ。言わなくてもわかっているという驕りがあった。母さんとお前を養うために必死で働いてきたが、私のその気持ちは、母さんは分かってくれていると思っていた」
　そこまで言うと、父親は深いため息をついた。深く沈んだ肩を見て、この土地に来て寂しかったのは自分だけではなかったと繭は感じた。
　しかし父親は息を吐ききると、自分の膝をポンポンと叩いて顔を上げる。
「今は、言っても仕方のないことだ。けれど、たまにひどく後悔することがある。
　母さんは、新しい家庭にも慣れて、そんな風には思ったことないだろうな。
　結局ひきづられているのは私だけだ」
　言えなかった想いは、伝えることのできなかった言葉は、薄れていくのではなく、後悔の念と共に月日と共に色濃くなっていく。
　それは笙も同じなのかもしれない。
　相手に二度と会うことができない。永遠の別れを経験してしまった、その分だけ強く。
　するとふっと父親が力が抜けたように笑顔を浮かべた。
「人生なんて後悔だらけだ。でも、後悔はいくらかでも少ない方が、身が軽くていい」


　土曜の夜のファミレスは、少し込み合っていた。
　家族の温かそうな笑い声、友人たちと戯れる笑い声、恋人たちが囁く甘い声。
　その中で、繭は一人だった。
　それでも、笙の約束通り、ここで一時間を過ごさなければならない。
　勉強する気にもなれず、そういえば読んでない本が鞄にあったはずだと探していると携帯が目に着いた。
　取り出し、開いたところで繭は溜め息をつく。
　笙のメールはおろか、携帯番号も、この前笙の家を出る時に消されてしまったのだ。
　大樹との連絡に使っていた囮の携帯も、目の前で繭に大樹に今日の約束をさせると、笙はそのまま取り上げてしまった。
　今の繭には、大樹はもちろん、笙との連絡も取れない状態なのだ。
　それが繭との関係を断ち切る行為だとわかっていても、そうして笙が何かから繭を守ろうとしていると気付いていても、繭はそれを止めることができなかった。
　夢だったのかな。
　笙と出会ったことも、幻だったのかな。
　そんな気持ちにすらなった。
　それほど完璧に、笙は繭の手元に自分との関わりを示す物を残していかなかったのだ。
　…違う。ひとつだけ、ある。
　繭は慌てて鞄を開き、生徒手帳を取り出す。
　出会った日。笙が落としていったもの。
　結局返しそびれてしまっていた。
　中を見ると、無愛想な笙がこちらを睨んでいる。
　無愛想で、無口で、自分勝手で。
　だけど笑顔はとびきり輝いていて。
　寝顔は無防備で、天使のように可愛い。
　ふと雨音がして、繭は窓の外を見る。
　水滴が、窓に水玉模様を作り始めていた。
　笙と初めて出会った時も、雨だった。
　今日のように傘を忘れて立ちすくむ繭に、笙は傘を差し出し、雨の中を駆けだして行ったのだ。

『運命って信じるか？』
『俺は、信じてる。
　少なくとも繭と出会って、そう思った。
　今の俺には、繭が必要なんだよっ』

　あの時。
　笙が、そう言った時。
　私も感じてた。
　笙が私の運命だって。
　私にも、笙が必要なんだって。

　繭は急いで鞄に笙の生徒手帳を突っ込むと、伝票を手に立ち上がる。
　急いで半分も飲んでいないソーダの支払いを済ませると、ファミレスを出た。
　雨はまだ小雨だったけれど、走り出すにつれ、どんどん強くなっていった。
　笙が大樹を呼び出した小学校の場所は、頭に入っていた。大樹に説明をするのに、笙が書いてくれた地図を見ながら説明したのだ。
　どうしてそんな場所にと、大樹は笑いながら繭に聞き返したが、それも笙が紙に書いた通りに説明をした。
「それは来てからのお楽しみ。ああ、車では来ないでくださいね。
　立ち入り禁止になっている場所だから、誰かに見つかると追い出されちゃうの」
　大樹はくすくすと笑いながらも、わかったよと答えた。仕事中でも、夜中でも、どこにいても駆け付ける約束をしたしね、と。
　大粒になってきた雨から庇うように鞄を掴むと、繭は走り続けた。
　警察、と言った時の笙の表情を思い出す。
　見たことがないほど、強張った表情だった。頬は緊張していたけれど、それでも瞳は僅かに揺らいでいた。
　大樹のことを人殺しと呼び、のうのうと生きていることが許さないと答えた笙。
　休日の夜の小学校。
　警察に答えるためのアリバイ作り。
　笙の行う綾南の為の復讐は、きっと明日になって笑えるようなささやかな物ではない。
　どうか、間に合いますように。
　笙が後悔する前に、止められますように。
　そう願いながら。



　笙の指定した小学校は閑静な住宅街の中にあって、夜ともなれば、その静けさは闇とあいまって更に深いものとなっていた。
　その中を、しとしとと降る雨音と共に繭の足音と荒い息が響く。とはいえ、部活もしていなく、運動はどちらかといえば苦手な繭は、時折歩くことになった。
　振り続く雨と、その湿気を帯びた重苦しい空気が、繭の体にまとわりついて、思うように足が動かない。
　それでも必死に繭は走った。
　小学校に着いたのは、すでに笙が大樹を呼び出してから二十分経った時間だった。
　灯りのない学校は、幽霊屋敷のように異様な雰囲気を醸し出している。しかし、繭には怯む時間など無かった。
　体育館はどこだろうと辺りを見回すと、グラウンドの向こうに大きな建物と、その窓に動く灯りが見えた。
　間に合って。
　ただその想いだけで、繭はぬかるんだグランドを過り、泥を跳ね上げながら体育館へと走って行く。
「笙！」
　何も考えず、土足のままで体育館の思いドアを開けると、ちょうど正面の舞台の前に立っていた背の高いシルエットが振りかえる。手袋をはめた手に大きな鉄パイプを持っていた笙の横顔が、床に置かれた灯りに照らされて、一層無情に見えた。
「…来るなと言っただろ」
「でもっ」
　繭は話しながら笙へと駆け寄る。すると、笙と向かい合うような形に置かれた椅子に大樹が座っているのが見えた。しかしその首は項垂れていて、両手足は椅子にロープで括りつけられていた。
「渡来さん！」
「やめろ」
　駆け寄ろうとした繭の正面に立ち、笙は手にしていた鉄パイプを横にして行く手を遮る。見上げたその表情は、いつも以上に固い。しかし繭はその表情に隠された真実を見つけようと笙をじっと見つめようとしたが、逃げるように笙が視線を逸らした。
「…渡来さん、どうしたの？」
「少し眠ってるだけだ」
　笙はそう答えると、繭が大樹に近づかないことを確認してか、鉄パイプを床に置いた。そして自らが大樹に近づき、何かを探すように体に触れながら、Ｇパンのポケットから目的の携帯電話を取り出すと、ボタンを押し始めた。液晶画面のライトが、笙の表情を再び照らす。青白い光が、笙をまるで悪魔のように映し出していた。何度かボタンを押すと、笙は溜め息をつき、携帯を閉じて、大樹のポケットへと戻す。
　そして振りかえると、再び繭に視線を向け、まだいたのかと言わんばかりに睨みつけた。
「安心しろ。繭とのメールや通話記録は、全部消した」
　聞きたいのは、そういう言葉じゃない。
　繭は怒りと怖れに声を震わせながらもはっきりとした口調で尋ねた。
「何をするの？渡来さんに」
「繭には関係ない」
「関係なくないわっ」
　繭は思わずそう言い返す。
　今大樹の携帯から繭との記録を消したように、繭との関係も、笙は簡単に消えると思っているのだろうか。
　声を荒げた繭に、笙はそれ以上の声で返した。
「関係ないんだよっ。最初からそういう約束だった。繭だって、わかってたはずだろ？」
　その時、笙の後ろから、小さな吐息が漏れたかと思うと、項垂れていた大樹の首がゆっくりと上がる。
　そして、虚ろな視線が繭を捉えた。
「…ま、ゆ…ちゃん？」
　これで大樹に言い訳ができなくなった。
　後戻りはできないのは、笙も同じだ。
　繭が覚悟を決めた時、大樹は視線を繭から自分のすぐ前に居る笙の背中に移して、呟いた。
「ああ…君が、笙君か」