君にふる雨は、優しい雨であってほしい
25別離
昼休み、繭は名前の知らない下級生から呼び出しを受けた。
指定された体育館裏に行くと、そこには顔を見たこともない女の子が立っていた。
黒々とした髪を耳の下で二つに結わえ、ぱつんとそろえて切った前髪の下の小動物のような目が、繭を睨みつけている。
荒屋寿子は、そうして繭を睨みあげると、口を開いた。
「単刀直入に聞きます。水谷先輩とは、どういう関係ですか？」
突然笙の名前が出てきて繭は戸惑ったが、それを悟られないようにといつ聞かれても答えられるようにと決めていたセリフを口にした。
「どういうって…。隣のクラスの人ってくらい。それ以上のことは、知らないわ。あまり…話したこともないし」
「美術の時間でお互いのデッサンをしているのに？」
思った以上に笙と繭のことを調べていたらしい。
繭は小さくため息をつきながら答える。
「それは、ペアを決めるときに先生が一方的に決めただけで」
「じゃあなんで、先輩はあなたを追いかけて写真部に行ったの？」
「え？」
思いがけない言葉に、繭は戸惑った。
その隙を、荒屋寿子は見逃さなかった。
「写真部にいるでしょう、瓜生さんて人。あの人、男のくせに先輩の写真を撮りたがるんです。それで先輩のファンの女の子たちにその写真売りつけようとしてるの。先輩はそれを嫌がっていて、だから写真部なんて寄りつこうとしてなかった。
それなのにあなたが写真部にいるって聞いたら、慌てて追いかけて行った。
あなたに何らかの感情を抱いているとしか思えないわ」
思いがけない真実に、繭は戸惑いを隠せなくなっていた。
「そんな…知らないわ」
声が小さくなったのは、嫌な相手に付きまとわれるのを覚悟してでも、繭から綾南を守りたかったように思えたからだ。
しかし、その繭の弱気は、荒屋寿子には動揺と映ったらしかった。
すっと両手を伸ばして、髪ごと繭の肩を掴むと、激しく揺すったのだ。
「どうやって、先輩のこと誘惑したんですか？どんな手を使って」
「ちょっと…痛…っ、やめてっ」
荒屋寿子の手が、繭の華奢な肩にぐいと爪を立てる。揺するたびに、挟まれた髪が引っ張られ、その痛みに繭は顔を顰めたが、荒屋寿子の力は強く、繭を放してくれようとはしなかった。
「どうやってっ、どうやれば先輩を振り向かせることができるんですかっ」
その時、繭の背後から低い声が響いた。
「やめろっ」
そして、目を見開いた荒屋寿子を、繭の後ろから伸びた手が突く。
荒屋寿子の手は繭から離れて、壁に軽く背を打ちつけていた。痛む肩をさする繭の前には、笙が立っている。
繭を背中で守るようにして自分の前に立つ笙を見て、荒屋寿子は悔しそうに顔を歪めながら叫んだ。
「どうしてその人のことかばうんですか？
先輩は、その人のことが好きなんですか？」
違う。そうじゃない。
笙が見てるのは、綾南さんだけ。
聞きたくない。
笙の答えなんて、聞きたくない。
そう思う繭だが、笙はあっさりと平然とした声で荒屋寿子に答えた。
「好きになるほど、知らない。彼女のことは」
「でも―」
「興味もない。それなのに、こうやって騒ぎを起こされる方が迷惑だ」
わかってはいることだった。
誰かに関係を聞かれても、ただの同じ学校の生徒だと答えること。
それが交換復讐を行う時の約束。
けれど、笙に惹かれている今の繭には、嘘であっても聞きたくない言葉だった。
教室に戻ると、心配そうな表情を浮かべて有希が駆け寄ってきた。
「大丈夫だった？片桐さん」
「うん」
できれば一人でいたかった繭は、簡単にそう答えて崩れ落ちるように自分の席に座る。
本当のことを言えば、肩にはまだ痛みが残っていたし、それよりも笙に言われて傷ついた心が痛かった。
仕方のないこととは分かるが、あの後も荒屋寿子の繭に対する敵意が消えたと感じると、笙は繭も置いてさっさと消えて行ったのだ。
残されたのは、満足そうな荒屋寿子と、傷つけられた繭だった。
有希は青ざめた繭の表情を見て、何かがあったのだと感じたのか、そのまま繭の前の席に座り込んだ。
「あの子ね、水谷君のファンでストーカーみたいなことする有名な子なの。ごめん、呼び出された時に注意してあげればよかった」
声もなく、繭は首を左右に振る。
「でも本当に、片桐さんって水谷君とは関係ないんだよね？」
「え？」
「さっき、片桐さんが呼び出されたこと水谷君に話したら、水谷君、慌てて駆け出して行ったから」
繭は何も答えなかった。
笙が来てくれたことがよかったのか、悪かったのか。
繭にはその判別がつかなかった。
黙りこんだ繭の答えを、肯定と感じたのか有希はねぇと声を潜ませて尋ねてきた。
「ねえ、片桐さんって、彼居るの？」
繭が思わず顔を上げると、有希は自分の言った言葉が繭の怒りを買ったと感じたらしく顔を強張らせて答えた。
「ごめん、言いだせなかったんだけど。休みの日、ファミレスで大学生っぽい男の人と一緒にいるの見て」
大樹のことだ。
今の繭には、笙に結びつく全てのことが心に重くのしかかっていた。
「あの人は…ただの家庭教師」
繭がそう答えると、有希の声がいくらか沈んで返ってきた。
「…なんだ、そうなんだ」
これ以上笙に関わることを探られたくはない。
誰に聞かれても、関係ないと答える。
その笙との約束が、わかっていたはずの繭の心を傷つけていく。
顔を逸らし、一人にしてほしいと言おうとした繭の前で、有希は顔を上げると言いづらそうに話を続けた。
「実はね、この前の土曜日、片桐さんのお父さんから電話貰ったの。片桐さんがが家に来てないかって」
笙の家で、看病をしていた日だ。そういえば、友達と一緒に勉強をすると言い残して家を出たのだった。結局、朝帰りもばれず、大した追求も受けずにほっとしていたのだが、繭が知らないところで父親が動いていたとは知らなかった。
思わず体を強張らせる繭に、安心させるように有希が話を続ける。
「とりあえず、話あわせたんだけど。てっきりその家庭教師の人と一緒にいるんだと思ってたの」
「ごめん」
謝ると、有希が困ったように答えた。
「ううん。いいの。ごめんね、立ち入ったこと聞いちゃって」
「…ごめん」
「だからいいって。きっと事情があるんだと思うからさ。
話したくなったら話して。いつでも聞くから」
踏み込まない距離で、それでも繭を受け入れようとしてくれている有希の気持ちがありがたかった。
けれど、笙とのことは言うわけにはいかない。
それが、笙との約束だから。
繭は震えそうな声を振り絞るようにして、答えた。
「ありがとう」
その日の夜。繭は、珍しく早く帰宅してきた父親に、コンビニに行くと言って家を出ると笙の住むマンションへと向かっていた。
昼休み以降、笙からの連絡はない。
まるで本当に関係がなくなったような気がして、繭は不安に押しつぶされそうになっていたのだ。
恐る恐るチャイムを鳴らすと、何の返事もなくドアが開く。
繭はそのまま吸い込まれるようにして、中に入って行った。
出迎えた笙は今までと変わりなかった。何も言わずに、繭をリビングへと向かい入れる。
無愛想で、無口で、自分勝手。
だがそれでも、笙は繭を拒否してはいなかった。
ただ、どうした？と繭がやってきた理由を聞くこともない。
今日の昼休みのことを謝ることもない。
沈黙が二人の中に積っていた。
その時、チャイムが鳴った。
こんな時間に弥栄子だろうか。
しかし、モニターを見つめる笙の表情は、少し強張っているように見える。
「はい、今開けます」
そう笙が答えているのが聞こえた。笙はそうして玄関へと姿を消す。一人リビングに残された繭は戸惑った。
自分はここにいてもいいと言うことなのだろうか。
少しして、再びチャイムが鳴り、笙がドアを開ける音がした。
次の瞬間、ボコッという音が廊下から聞こえてきて、どさっと何かが床に倒れる音がした。
慌てて繭は廊下に顔を出す。
床には笙が倒れ込んでいた。殴られたのか、口元から滴る赤い血を手でぬぐっている。
そして、玄関には父親が肩を揺らしながら立っていた。握りしめた掌が赤くなっていて、笙を殴ったことがわかる。
「お父さん…どうして」
そう呟く繭の前で、父親が笙を見下ろして叫ぶ。
「お前が繭をたぶらかしたのかっ」
そうして再び拳を振り上げた。咄嗟に繭は笙の前に立つ。
「やめてっ、お父さんっ」
両手を広げて笙を庇うと、父親は振り上げた拳をしばらく震わせながら、頑なな視線を向ける繭とその後ろで顔を逸らしている笙を見比べていた。そして、ふいにその拳を下ろすと、繭の手首を掴んだ。
「帰るぞ、繭」
ぐいと引っ張られ、繭はそのまま玄関へと引っ張り込まれる。
「嫌、離してっ、笙！」
必死で体をよじり、掴まれていない方の手を笙へと伸ばす。しかし、笙は顔を逸らしたまま、繭の手を掴もうともしなかった。
「繭！」
ドアを開け、繭が靴を履くのを待っていた父親が、苛立った声を上げる。掴まれた手は、振り払おうにも力が強くて、そうはできない。
ここまで強固な父親を見たのは初めてだった。
繭は戸惑いながら、父親を振りかえるときちんと答えた。
「…帰るから、彼の手当てをしたら、ちゃんと帰るから。
今は、先に帰って」
その頬に流れた涙を見て、父親の手が緩んだのがわかる。
少しの逡巡の後、ため息交じりに父親が答えた。
「…わかった」
掴んでいた手が、優しく離れる。ドアが閉まる音を聞いてから、繭は床に座り込んでいる笙に駆け寄った。
「ごめんね、笙」
口元の血は止まったようだが、殴られたところが赤くなって少し腫れている。繭は自分の涙を拭うことも忘れて、そっと震える手を伸ばし、その傷に触れようとした。
だがその手が笙に触れる寸前で、笙が繭の手を掴んで阻む。
「ここにはもう来るな」
そして繭が口を開く前に、笙ははっきりと言った。
「もう、終わりにしよう」
頭が真っ白になる。
わかっていても、繭はこう答えるしかなかった。
「終わるって…何を？」
強張る繭に対して、笙は冷静だった。
「渡来大樹に復讐をして、俺たちの関係も終わらせる。
これ以上一緒に居れば、お互い疑われるだけだ」
それは、笙からの別れの言葉だった。
嫌だ。
これからもずっと笙と一緒に居たい。
そう思いはするものの、声には出せずに、涙だけが俯いた繭の頬を伝う。
ふいに繭を掴んでいた笙の手が離れると、その涙を拭った。
それが最後の優しさのように思えて、繭は頑なに俯き続ける。そんな繭に、笙の声が優しく振り続ける。
「繭、これが最後だ。
渡来大樹を、今度の勉強会の日の八時に七丁目の小学校の体育館に来てもらうよう頼んでくれ。
同じ時間に繭は、いつものファミレスにいてくれればいい。一時間ほどそこで時間をつぶして、それで家に帰ってくれ。それが、繭のアリバイ証明になる。
今後もし警察が繭のところに来ても、こう話せばいい。
電車で偶然出会ってから、勉強を教えてもらうことになった。土曜もいつもの通りファミレスで待ち合わせしたが、時間になっても渡来大樹は現れずに、諦めて家に帰ったと」
その言葉に思わず繭は顔を上げる。
「警察って…どういうことなの？」
笙と目があった。
その目はひどく哀しい目をしていた。
息をのむ繭の前で、笙はすっと立ち上がり、答える。
「知らない方がいいこともある」
そう言ってリビングに戻ろうとする笙を、繭は慌てて声で追いかけた。
「笙」
手を伸ばし、待ってと声をかけようとする。
待って。
私のことを、見て。
しかしその手が届く前に、笙は振りかえると、思いつめた表情で繭に最後の別れの言葉を告げた。
「今までありがとう、繭。感謝してる」