23忘失

　あの日以来、笙とは話をしていない。
　だがそれは今までのように笙が話しかけないのではなく、繭の方が避けている為だった。
　寝ぼけていたとはいえ、綾南と間違えられたことが、繭の心に深い傷跡をつけていた。
　会えば、話せば、また自分は綾南の身代りだと感じてしまう。
　それでも、笙に会いたい、話したいと言う気持ちには勝てず、繭は放課後、笙のマンションへと足を向けていた。
　しかし、笙はいなかった。
「あら、繭ちゃん。いらっしゃい」
　繭を出迎えたのは綾南の母・弥栄子だった。
　言われるままに、笙の家へと上がったが、肝心の笙が現れないので、必然繭はキョロキョロと視線を部屋中に巡らせた。その様子を見て、弥栄子が答える。
「今日はお祖母さんのところよ」
　お祖母さん、と聞いて繭は視線を止めた。
　そういえば有希から聞いていたのに、笙から一人で暮らしていると聞かされて亡くなったのだろうと繭は勝手に思い込んでいた。
　そんな繭の心を察してか、弥栄子は買ってきた野菜を洗いながら尋ねる。
「聞いてない？お祖母さんが病院に入院されてること」
　道重家の隣に住んでいた頃は、笙は両親と祖母との四人家族で暮らしていたそうだ。しかし、両親が事故で他界すると、水谷家は笙と祖母の二人暮しになった。そもそも笙がこのマンションに引っ越すことになったのも祖母の入院がきっかけだったらしい。
「さっき出たところだから、今なら追いつけるかもしれないわね」
　そう言って弥栄子は笙の祖母が入院している病院の住所を書いて手渡す。
　しかし繭はそれをすぐには受け取らなかった。
「でも。…嫌がります、きっと。こういうことしたら」
　綾南の写真を探していた時のように、きっと笙は繭を拒絶する。今の繭に、それに耐えられるだけの余裕はなかった。
　だが弥栄子は、そうねぇとのんびりと答えながら、言葉を続ける。
「でもこのまま笙君に嫌われないようにってしていたら、いつまでたっても笙君の心には触れられないわよ」
　ゆったりとしながら繭の気持ちにまっすぐに刺さった言葉に、思わず息をのむと、繭に背を向けていた弥栄子が、振り返って答えた。
「大丈夫。笙君が家にまで上げるような人だもの、繭ちゃんは。それだけで、十分心を許してくれてるってことなのよ」
　少し前までは、すんなりと受け入れていただろう。
　だが、綾南と間違えられた後になっては、それはすべて綾南の代わりだから、という代名詞が付きまとうように感じてしまう。
　笙に抱きしめられた時のことを思い出して、繭は顔を俯かせた。
　もしあの言葉を聞かずにいたら、今のどんなに幸せだっただろうか。
　無意識で握りしめた手に気付き、繭はふと顔を上げる。
「あの…」
　なぁに？と繭に視線を向ける弥栄子に、繭は躊躇しながらも、尋ねた。
「ちょっと、聞きたいことがあるんです。水谷君の…ご両親のことで」



　言われた病室の表札に、教えられた名前を見つけて、繭は開け放たれたままのドアから顔をのぞかせた。窓辺に佇む白髪の老婆の後ろ姿がそこにあった。おそらくは入院しているという笙の祖母なのだろう。そして、病室には他に人影はない。笙はどうやら病室にはいないようだ。
　どうするべきかを考えていると、背後から「おい」という鋭い声が聞こえてきた。振り返ると、血相を変えた笙が、手にペットボトルを持ち、繭のところに駆け寄ってきた。
「なんでここがっ…どうして来たんだっ」
　腕を掴まれ、その強さに繭が息をのんだところで、病室からガシャンと何かが落ちて割れる音がした。繭を掴んでいた笙の腕の力が緩まる。笙につられるよう に病室に視線を向けると、先ほどまで背中を向けていた祖母が、繭たちの方を見ながら、目を見開き、小刻みに震えていた。そしてその足元には、割れたガラス の破片と、水が広がっている。どうやら花瓶を落としたようだと繭が気付いた時、祖母は震える手を祈るようして顔の前で組むと、まるで念仏を唱えるようにし て呟き始めた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
　笙は繭から手を離すと、慌てて病室へと飛び込んで行く。
「違うんだ、おばあちゃん」
　手に持っていたペットボトルを窓際に置き、笙はそう言って老婆の肩をゆっくり撫でる。しかし、老婆はその声も耳に入らないのか、まるで壊れたレコードのようにひたすら同じ言葉を繰り返していた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「違う、悪いのは、おばあちゃんじゃないから」
　音を聞きつけた看護師が、繭の脇をすり抜けて「どうされました？」と病室にかけ込んで行く。笙はそのまま看護師と二言三言交わすと、気付いたように繭に視線を向けて言った。
「一階にロビーがあるから、そこで待ってろ」


　少しして、笙がロビーにやってきた。繭は心配そうに尋ねる。
「お祖母さんは大丈夫？」
「一応は落ち着いた」
　しかしそういう笙の表情からは疲れが見て取れる。繭は、笙の祖母が自分に向けた表情を思い出し、俯いた。笙は、繭の隣に深く腰掛けると、ふいに口を開いた。
「おばさんが？」
　さっきまでの鋭い声ではなかったが、だからといって許してくれたわけじゃないと繭は分かっていた。
　やはり来るべきじゃなかったと思いながら、繭は答える。
「私が、笙がどこに行ったか聞いたの」
　小さな嘘だが、笙は見抜いて、溜め息をついて答える。
「…まあ別にいいけど」
　それが許してくれたと言うことなのか、繭は笙の気持ちを測りかねたが、ここで怯んでは来た意味がないと思い直し、笙に視線を向け尋ねた。
「お祖母さんの調子は？よくないの？」
「アルツハイマーだ。最近じゃ今と過去を取り違えて、たまに、俺のことも、死んだ親父だと間違える。正気に戻っている時間の方が今じゃ短いくらいだ」
　笙のその言葉に、繭はずっと思っていたことを口にした。
「私のこと、怖がってたみたいだったけど、もしかして―」
　もしかして、綾南さんと間違えた？
　そう尋ねようとしたところで、笙がその言葉を遮って言う。
「俺が突然大声出して、自分が怒られたと思っただけだ。明日になれば、俺が怒鳴ったことも、繭のことも忘れてる」
　だから繭のせいじゃない。
　笙がそう言ってくれた気がしたが、それでも繭の気持ちは晴れなかった。
「…いいなあ」
「いい？」
　聞き返してきた笙に、繭は大きく頷く。
「だって、辛いことを忘れられるんでしょう？もちろん、大変なこともいっぱいあるだろうし、お世話をする方も大変だとは思うけど」
　佑太と琴子に裏切られたことは、琴子と仲直りをした今でも忘れられない。きっと裏切られる前のような関係には戻れないと繭は感じていた。
　同じように、笙に綾南と間違われたことも、この先笙がいくら否定しても、繭の中では消せない事実なのだ。
「俺はそう思わない」
　ふいに強い口調で、そう笙が答えた。
「忘れるのは、辛いことだけじゃない。
　楽しかった思い出も、幸せだった頃の記憶も、全部忘れてしまう。
　俺は、忘れたくない。
　絶対に」
　そう言う笙の横顔には、強い決意が漲っていた。


　帰り際、病院前のバス停まで繭を送りに来た笙が思い出したように尋ねた。
「そういえば、何か話があったのか？」
　報告ならメールがある。軽い話でも、電話が。
　わざわざ病院まで、自分を追いかけてきたことが笙には緊急な事が起こったのだと思えたらしい。
　繭は自分と笙の距離感を感じながら、何でもない、とだけ答えて、やってきたバスに乗り込んだ。
　走り出したバスを見て、病院に戻って行く笙の後ろ姿を窓越しに見つめながら、繭は弥栄子の話を思い出していた。
　病院に行く前、繭が弥栄子に尋ねたのは、笙の両親の事故のことだった。
　一瞬目を見開いた弥栄子を見て、繭は笙が寝言で両親に謝っていたことを話す。すると、弥栄子の表情は僅かに歪んだ。弥栄子は小さく溜め息をつくと手元を止めて、タオルで拭き、繭にきちんと向き直る。
「笙君のご両親の事故は、本当に不慮の事故だったわ。誰のせいでもない。
　でも。そうなのね、笙君は、そうは思っていないのかもしれないわ。綾南が言ってた通りだったのかも」
「綾南さんが？」
　顔を上げた繭を見て、弥栄子はゆっくりと頷いた。
「そもそも笙君のご両親が、夜中に車を走らせることになったのは、笙君がアイスクリームをねだったかららしいの」

　その晩、笙の父親は会食で帰宅が遅れていたらしい。父親におやすみを言うまでは起きていると笙は駄々をこね、母親も一緒になって父親を待っていた。そんな笙に、帰ってきた父親は喜び、今度笙が好きなものを食べようと約束した。

「でも笙君は、今アイスが食べたいって、また駄々をこねた。家にはアイスがなくて、お父さんは買いに行くことにしたらしいわ」
　しかし外は大雨、しかも酒に酔っていることもあり、母親もついていくことになる。久しぶりにデートだわとなんて楽しそうに家を出る二人を、祖母の隣で笙は眺めていた。
　そして、それが笙が見た両親の最後の笑顔になった。
　言葉を失くし、笑うこともできなくなった笙を、周囲の人間は両親を失った喪失感からだと思っていた。だが、綾南だけが、その本当の理由を知っていて、ある時弥栄子に話したのだと言う。
「笙君はご両親の事故を、自分のせいだと思い込んでいる。自分が、アイスをねだらなければ、あんな事故にはならなかったって。
　もちろん、皆わかってるわよ。事故は不慮の事故。誰にせいでもない。
　でも笙君は思いこみが激しくて、責任感も強いから、綾南が何度言っても聞き入れなかったって言ってたわ。今でもアイスもそうだけど、甘いものも食べようとしないのは、その証拠だそうよ。
　あの時の綾南は必死で、笙君の世話を焼いてたわね。学校も手を引いて連れて行って、帰りも教室まで迎えに行って、一緒に帰ってきた。そのうちに笙君も、少しずつ笑顔を取り戻していったの」
　思い出して笑顔になった弥栄子の顔から、ほろりと涙がこぼれる。繭が何か言う前にと、弥栄子はエプロンで頬を拭うと、「いやね、年とって涙もろくなって」と恥ずかしそうに微笑んだ。
「それなのに、あの子。笙君が自分にまとわりつくようになって、周囲に冷やかされるようになったら、恥ずかしがって笙君のこと避けるようになって。
　でもね、母親だからわかるのよ。あの子、口では大嫌いなんて言ってたけど、本当は昔から笙君のこと大好きだったの」
　しかし弥栄子はそう言ってから、くすりと笑い、
「こんな話聞かれたら、あの子に怒られるわね」
と呟くように言った。再び料理をはじめた弥栄子の背中を見つめながら、繭は思い浮かべていた。
『男の子の完全なる片想い』
　笙の綾南への想いは、そうじゃなかったのだ。
　二人は、笙と綾南さんは、互いを想い合っていた。
　駅へと向かうバスの中で、繭は弥栄子との会話を思い出すと、窓に頭を傾ける。
　笙がそれに気付いていたのかはわからない。
　ただわかるのは、笙が今でも綾南を愛していて、繭の入りこむ隙間などどこにもないのだということだった。