22残像

　帰りの電車に揺られながら、繭はさっきまで琴子に触れていた手を握りしめた。
　泣きじゃくる琴子の背中を、繭は琴子が落ち着くまでずっとさすっていた。

「もう、いいよ。いいから」

　気付いたらそう口にしていた。

　もういい。復讐なんて、もう、どうでもいい。

　琴子を苦しめることが、繭にとっての復讐だとしたら、それはもう充分に果たしたからそう思えるのか、
　それとも琴子も本当に佑太のことが好きだとわかったからなのか、答えは見つからなかったが、繭の中に琴子を憎む気持ちはこれ以上残されていなかった。

　それに…。
　笙じゃなかった。
　笙が、琴子をビルから突き落としたわけじゃなかった。
　それどころか、笙は琴子を助けようとした。

　繭は、琴子の言う天使が笙であると直感で感じていた。
　そして笙に疑いをかけた自分を恥じ、笙に謝らなければと思った。
　電車の外に流れる景色は、もうすっかり夜の装いだった。ぽつりぽつりと窓ガラスに水滴が付き始める。どうやら雨が降り出したらしい。特急のおかげで電車は次々と駅を通り抜けていく。窓についた水滴が、まるで流れ星のように流れていった。
　地元に戻ってきた繭だったが、家に帰る前に笙のマンションに寄ることにした。携帯に電話すると父親が出る可能性があるからと、わざと家の留守番電話に繭はそのまま友達の家で勉強と食事をして帰るから遅くなるとメッセージを残した。
　チャイムを鳴らすと、インターホンから少し戸惑い気味の声が聞こえてきた。

「…どうした？」
「ちょっと、話したいことがあって」

　夜の九時を過ぎている。笙の戸惑いもわかるが、繭としては少しでも早く謝りたかった。
　部屋にあがると、笙はジャージ姿で窓辺に立っていた。繭がソファに座ると、気付いたようにキッチンに入ろうとする。けれど、次の瞬間、食器の割れる音がした。慌てて繭が振り返ると、床に笙が座り込んでいる。
「どうしたのっ」
　繭が駆け寄ると、笙は「何でもない」と言いながら割れたコップに手を伸ばしている。
「そんなの、私がやるから」
　そう言って伸ばした繭の手が、笙の手に触れた。その熱に、繭はハッとしたように笙を見つめる。だが笙はそれに気付かないふりをしてコップを片付けようとしていた。慌てて繭は、笙の額に触れる。やはり、思った以上に熱かった。
「大丈夫、さっき薬飲んだから」
「だったら寝てて。ごめん、私がこんな時間に押し掛けるから」
「いい。それより、話って？」
「私の話より、笙の方が心配でしょう！」
　思わず怒鳴るようにそう言うと、笙は深い息を吐いて、髪をかきあげながらそっぽを向いて言う。
「いいから、帰れ。もう遅い」
「笙が寝たら帰る」
「俺のことはいいから」
「でも、それが笙が一人ぼっちになっちゃうでしょう？
　病気の時に一人だったら、寂しくて治るものも治らないわ」
　笙はその言葉に何か言い返そうとしたが、諦めたように溜め息をつき、ソファから立ち上がった。
「寝たら帰れよ、絶対」
「わかった」
「部屋に入っても、物には触るな」
「わかったから」
　部屋に戻っていく笙を横目で見ながら、繭はタオルを濡らして冷蔵庫から見つけたスポーツドリンクと一緒に、笙の部屋へと持って行った。
　ベッドに横になっていた笙は、入ってきた繭を見て一瞬嫌そうな表情を浮かべたが、すぐに諦めたように差し出されたスポーツドリンクを飲んだ。
　額にタオルを置かれたところで、目を瞑りながら笙が口を開いた。
「…ごめん」
　寝言のように、どこかぼんやりとした口調で、笙は話し続けた。
「…自殺するなんて思わなかった。ただ、二人を別れさせようと思っただけ。
　街で知り合った女に金を渡して、内藤佑太を誘惑するよう頼んだ。
　抱き合ってる写真をもらって、それを中川琴子のメールに転送して、浮気現場を知らせる。言い争う二人を見届ければ、終わりだと思ったんだ」
　やっぱり笙だったと、繭は自分の直感が当たっていたことに笑みを浮かべる。
「琴子を助けようとしてくれたの、笙でしょう？今日、琴子に会ってきたの。聞いたよ、色々」
　笙は、目を閉じたままに答える。
「…でも、助けられなかった」
「それでもいいの。ありがとうって言ってたよ、琴子。
　それに、私に謝ってくれた。
　だからもう私、琴子のこと許すことにする」
　笙からの返事はない。
　どうやら眠ってくれたらしい。繭は熱で赤くなった笙の顔を見つめた。額に乗せたタオルに触れると、水で冷やしたはずのタオルはすでに温かくなっている。
　そうだ、氷枕も用意しよう。
　リビングに向かうと、繭は氷枕を探した。とはいえ、勝手のわからぬ家で、ハサミがどこにあるかさえ分からない。物には触るなと言った笙の声を思い出し、 繭は心の中でごめんなさいと謝りながら、引き出しのひとつひとつを開けた。そしてようやく氷枕を見つけると、急いで氷を詰め込む。
　部屋に戻ると、笙は完全に眠っていた。そっと頭を持ち上げ、その下に氷枕を滑り込ませる。笙が起きないようにと静かに優しくと心がけようとするが、頭は 重く、しっかりと抱えなければ持ち上がらなかった。起してしまったかとも思ったが、規則的に聞こえていくる小さい寝息を聞いて、繭はほっと安心する。
　そうすると、繭のやることは無くなってしまった。
　自分が寝たら帰れと言っていた笙の言葉を思い出し、繭が立ちあがろうとした時、ふわっと笙の手が空に浮かび上がった。
「…なさい、ごめん…なさい」
　まだ琴子のことを謝っているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
「僕が…僕のせいで、ごめん…なさい」
　どこか幼い口調はどうやら寝言のようだ。顔をしかめて、必死に伸ばす手を、思わず繭は掴む。すると笙はその手を握りしめて続けた。
「ごめんなさい、お父さん、お母さん…」
　お父さん？お母さん？
　少し混乱した繭の前で、笙の頬に静かに涙が流れる。あ、っと思っている間に、笙の手は繭を掴んだまま、ゆっくりと降りていった。寝言もそれ以上何か言うことはなく、笙は再び規則正しく寝息を立て始めた。
　何かあったのかな、笙が小さい頃に。
　しかし目の前の笙は、そんな繭の疑問に答えてくれるはずもない。起きた時に尋ねても、きっと答えてくれないだろう。
　繭は小さくため息をつくと、今度こそ家に帰ろうと立ち上がろうとした。流石に家に帰らないと、父親に何を言われるかわからない。
　家に帰ってくるのが遅くなった理由を憂鬱になりながらも考えようとしたところで、繭は動けなくなった。
　笙の手が、かたく繭を放さないのだ。少し動かしても、反対の手で、笙の指をほどこうとしてもびくともしない。
　どうしよう。
　だが戸惑いと同時に繭の胸には言い知れぬ幸せを感じていた。ふいに、欠伸が体から沸き上がる。思えば体も心も疲れた一日だった。
　ほんの少し、十分ほど寝てから帰ろう。
　少し経てば、笙の手もほどけるはず。
　そう思って、繭は笙のベッドに体を預けて、目を閉じた。


　しかし、次に感じたのは強い日差しだった。無理な体勢で眠ったせいか、体のあちこちが痛い。大きく伸びをして、繭は朝になっていることに気付いた。
「やだ、もうこんな時間」
　時計を見て驚いた。しかし今ならまだ父親も眠っているはずだ。電車も始発が動く時間だし、父親が寝てから帰ったことにすれば、外泊したことはばれずにすむ。そういえば携帯も、昨夜はリビングにバイブにしたまま置きっぱなしにしている。おそらく着信が入っているに違いない。
　折り返ししなかったその言い訳を考えると少し頭が痛いが、それも仕方ないと思い、繭はそのまま眠っている笙に顔を寄せた。
　笙は無防備なままに眠っていた。額に置いたはずのタオルは、気付けば脇に滑り落ちていた。朝日を浴び、白い肌が一層輝いてみえる。
　天使…か。
　琴子が笙を例えた言葉を思い出し、繭はくすりと笑う。寝ている笙の端正な顔は、確かに天使にも見えた。
　昨日繭を放そうとしなかった手も、今はベッドの上にある。
　繭は思いだしたように額に触れた。薬が効いたのか、熱は下がったようだ。
「よかった」
　思わずそう呟いて、ベッドサイドに両手を置いて立ちあがろうとした繭の手を、笙が掴んだ。
　光の中で、うっすらと笙の目が開き、繭を優しい眼差しで見つめていた。
「ごめん、起しちゃっ―」
　その先の言葉を言う前に、繭は笙の胸の中にいた。笙が掴んだ繭の手を引き寄せたのだ。バランスを失った繭は、そのまま笙の胸になだれ込む。そして、笙はしっかりと繭の背中に手を回し、強く抱きしめたのだ。
　思った以上に厚い胸に、繭の鼓動は更に高鳴る。それが笙に伝わることを恐れた時に、耳元に笙の声が聞こえた。
「…な、綾南…」
　行くな、綾南。

　笙が優しい目で見つめていた相手。
　胸に描き抱いた相手。
　それは、私じゃない。

　その瞬間、繭はすっと心の芯が冷たくなるのを感じた。