21戸惑い

「じゃあ、繭は忘れられるのか？」
「中川琴子が自殺未遂したって聞いて、思わなかったのか？
　当然の報いだって。
　一ミリたりとも思わなかったのか？」

　そう笙に問われた繭は、言い返せなかった。
　自殺未遂と聞いて、信じられないと思いながらも、確かに心のどこかで罰が下ったのだと思った。
　そして繭は、はっきりと気付いた。
　自分が笙の復讐を止めたいのは、大樹を守りたいからでも、笙を救いたいからでもない。
　これ以上笙の心の中に、綾南に居続けてほしくないのだ。
　では、どうすれば。
　繭はまず、自分が琴子と佑太を許さなければならないと思った。



「あら、繭ちゃん」
　次の土曜日、突然現れた繭を見て、琴子の母親は驚いた。が、すぐに琴子の見舞いに来たのだと気付き、すぐさま中に招き入れる。
「ごめんなさいね、今ちょっと散らかっていて」
「いえ。あの、お構いなく」
　大樹の勉強会は、大樹が休日出勤の為になくなった。都合がいいと、繭は早起きして、電車を乗り継ぎ、数カ月前まで住んでいた街に向かった。
　父親には友達と図書館で勉強すると嘘をついた。いつものように、父親はそれ以上のことを繭には尋ねなかった。休日というのに会社に向かうらしく、どうせ仕事のことで頭がいっぱいなんだろうと繭もあまり深くは考え込まなかった。
　繭がいつも琴子の家にお邪魔する時は、家はまるでモデルルームのように綺麗に片付いていたのだが、今は色んなものが散乱していた。通されたソファーにも 洗濯ものが乗っている。繭が視線をどこで止めていいのかわからずにいると、母親が紅茶をいれたカップを持ってきて話した。
「でもこの前話したのと変わりないわ。トイレの時以外は部屋から出てきてくれないの」
　よく見れば、琴子の母親の髪に白いものが混じっている。
　今回の出来事で増えたのか、それとも今まで隠していたのを隠さなくなったのかわからなかったが、繭は紅茶にも手をつけずに言った。
「ドアの前から話しかけても、いいですか？」

　琴子の部屋には、何度も入った。泊まったことだってある。
　壁に貼られたアイドルのポスター。鍵のかかる引き出しに入っている日記。小さい頃からずっと枕元にあるウサギのぬいぐるみ。
　それらはまだあるのだろうかと思いながら、ドアの前に立ち、繭は息を吸うとドアの向こうにいるであろうかつての親友に話しかけた。
「琴子？私」
　何も聞こえてこない。だが、繭は琴子が息をひそめて自分の声を聞いているのだと思った。
「琴子に話があって来たの。入れてくれる？」
　しかし、反応はない。繭が再び口を開く前に、隣で様子を見守っていた母親が口をはさんだ。
「ごめんなさいね、繭ちゃん。
　ほら、琴子。繭ちゃんよ。わざわざ遠くから来てくれたのに、どうして何も言わないの？返事なさい」
　だんだんときつくなる母親の声に、繭は間に入って言った。
「大丈夫です。もう少しここから話してみますから。あの…できれば、下で待っていてもらえますか？」
　繭にした仕打ちを思うと、母親が傍にいては琴子も出て来れないだろう。繭がそう頼むと、母親は下に降りていった。
　実のところ、琴子は母親の過干渉をずっと嫌がっていた。それは年頃の女の子ならではの悩みでもあったが、逆に母親にあまり構ってもらえずにいた繭からすると羨ましくすらあった。
　リビングのドアが閉まる音を聞いて、繭はドアに向かって囁くように言った。
「事故のこと、聞いたわ」
　少しして、カチャリと音がしてドアが開く。
　出てきた琴子は、無言で繭を部屋の中に招き入れた。

　一歩入ったところで、繭は前に来たのはいつのことなのか思い出そうとした。
　そうだ、引っ越す前の日だから、あれからもう二カ月にもなるんだ。
　その間に、色んなことがあった。
　二カ月前は、遠いと思ったこの街も、今日久しぶりに来てみたら、意外と近いようにも思えた。
　左足にギプスをつけ、松葉杖を使う琴子は、ゆっくりとベッドに戻るとそこに座り込んだ。顔や腕にはガーゼが痛々しいほどに貼られていた。落ちた時の傷だとは思うが、確かに五階建てのビルの屋上から落ちた割には軽傷だと言える。
「少し痩せたね。これ、一応持ってきたの。お見舞いに」
　繭はそう言ってこの前弥栄子と食べたロールケーキを差し出した。琴子はそれを見もせずに、ふっと息を吐くようにして笑った。
「笑いに来たの？」
「え？」
「笑いに来たんでしょう、繭。必死に親友から奪った男に簡単に振られたあたしのこと、笑いに来たんでしょう？」
「振られた…？佑太に？」
　驚いた表情の繭を見て、強張っていた琴子の表情が変わった。
「違うの？」
　戸惑いながら頷く繭に、琴子は大きく溜め息をついて答える。
「…そっか。じゃあ、ちょうどよかったかな。
　そうよ、ふられたの、佑太に。付き合い始めて一カ月たらずで。あいつ、二股かけてたんだ」
　それまでは琴子も気付いていなかったという。ただ、誘ってもバイトだからと断られることも度々で、メールしてもレスが遅くなっていた。
　それでも琴子は気にならなかった。それほどに自分は幸せの絶頂にあると思っていたのだ。
　しかし、あるメールが届いたことから、そんな自分を不安に思うようになった。
　そのメールは、ある日突然琴子の元に送られてきたという。
　差出人のアドレスは知らないアドレス。
　悪戯メールかと思いつつ、添付されていた写真を見て、琴子は言葉を失った。
　そこには、派手な女と体を寄せ合いキスをする佑太の姿があったのだ。思わず琴子はそのメールに返信した。
『誰？何なの？この写真』
　すると、すぐにある場所と店の名前が書かれたメールが来たという。
　半信半疑のまま、琴子はその店に向かった。雨が降っていたが、そんなことは関係なかった。
　しかし、指定された店には確かに佑太がいて、隣には写真と同じ女が座っていた。
「佑太、どういうこと？」
　怒りに震える琴子だったが、佑太は隣の女に「誰？」と聞かれた時に、こう答えた。
「同じ学校の子。でも、関係ないよ、もう」
　そう言われて、琴子は戸惑った。説明を求め、青ざめた顔のまま佑太を見つめると、佑太はそんな琴子を鼻で笑いながら女の肩をなでまわして答えた。
「親友に負けてる自分が悔しくて、親友の男だった俺を寝取ったんだ。それで親友に勝ったと思い込んだわけ」
　ショックだった。
　そんなつもりで琴子は佑太のことを好きになったわけではない。
「違う。あたしは、本当に佑太のことが―」
　しかしそういう琴子を無視して、佑太ははっきり言った。
「けどつまんない女だったよ。親友の方がまだマシ」
　琴子は、繭が付き合う前から佑太のことが好きだった。だから繭に佑太と付き合うことになったと聞かされた時は、複雑に思いながらも、おめでとうと言った。その言葉が百パーセント本当だとは言わないが、ゼロではなかった。
　繭が引っ越して、落ち込む佑太を慰めている時も、心の中には繭のことを思い描いていた。
　だからこそ、初めて結ばれた時は、繭に絶交される覚悟を決めていたのだ。
　佑太も、それなりの覚悟をしていたんだと思っていた。
　つまり、それほど琴子のことを欲しているんだと。
　でも、そうじゃなかった。
　琴子は、親友を裏切ってまで手に入れた恋の薄っぺらさに、絶望していた。
　気付いたら、そのビルの屋上に上がっていた。
　繭と同じように、琴子も、その時全てを失っていたのだ。
　琴子の母親は、仕事に忙しいと家庭を顧みない父の代償を、琴子に求めた。服装から電話まで、すべてに干渉してきた。小学校まではそれでもよかったが、中学くらいからは友人にもうざがられるようになり、自然と友人は減っていった。
　上っ面だけの友人がいたが、家に呼べるほどの相手は繭しかいなかった。
　そしてその繭を裏切って、手に入れた佑太にふられたのだ。
　立ち入り禁止の札を避け、琴子は屋上へと続く階段を上る。ドアを開けると、夜風が気持ちよかった。吸い込まれるように屋上の手すりを飛び越える。
　あとは、その先を歩くだけ。
　琴子が手すりから手を離して一歩前に踏み出そうとした瞬間、その手を見知らぬ男の子が掴んだ。
「綺麗な目してて、男の人なのに、綺麗だなって思ったの。
　年は同じくらいにも見えたけど、もしかして天使なのかな、なんて思っちゃった」
　しかし、彼が琴子を引き上げようとした瞬間、雨でぬれた手がすべり、琴子はそのまま地面に落ちていった。
　目が覚めた時は病院で、両親が泣いていたという。
　そう話しながら、琴子も大粒の涙を流していた。
「繭…許してなんて言えないけど…ごめんね、ごめん」