20幼馴染

「あらもうこんな時間？準備しないと」
　立ちあがり、台所に入る弥栄子の後を、慌てて繭も追いかける。
「手伝います」
「ありがとう。それじゃ、これをその器に入れてくれるかしら」
　指示を受け、繭はその通りにこなす。繭は自然と自分の母親のことを思い出していた。
　繭の母も料理が好きだった。
　そして話は自然と、笙の小さい頃の話になった。
　弥栄子は笙の母親と仲が良く、自然と笙と綾南も一緒に過ごすことが多かったと言う。特にその頃、兄弟が欲しかった綾南は、笙を自分の弟だと言っておむつ を替えたこともあったと言う。食事も食べさせたことがあったらしいが、一度笙が綾南が口に運んだご飯を食べなかったことがあり、何とか口の中に入れたもの の、笙が吐き出したのを見て、綾南は泣きだしたそうだ。
「思い返せば、あれほど面倒見のいい綾南を見たことはなかったわね」
　勝気な綾南の後ろを、笙はいつも追いかけて、綾南が小学校に上がった時は、自分も小学校にいくと泣いて駄々をこねたらしい。
　あの笙が、泣いて駄々をこねるなんて。
　そう思うと、繭から自然と笑みがこぼれた。そんな自分が窓ガラスに映っているのを見た時、繭はハッとして手を止めた。そこに綾南の影が浮かんでいるように思えたのだ。自然と笑みが強張る。
　私ってこんな笑顔だったのかな。
　笙に教えられた綾南の笑顔が、自然と身についてしまっているような気がして、繭は今見た笑顔がどちらだったのか、わからなくなる。
「ほんとは弱いのに気は無駄に強くて。一度なんか素行の悪い子たちにコンビニで絡まれて、笙君まで巻き込まれて。それを助けてくれたのが、さっき話した渡来君だったのよ。そのご縁で家庭教師をお願いすることになったの」
　大樹らしいエピソードだ。
　しかし繭は、その話には笑うことができなかった。この前、笙が記憶を混同させた理由がはっきり見た気がした。
　意を決して繭は弥栄子に尋ねた。
「私って、綾南さんに似てますか？」
「繭ちゃんと綾南？」
　弥栄子は、そうねぇと呟きながら、繭をまじまじと見つめ、そしてはっきりと答えた。
「全然似てないわ」
「でも…」
　そう呟いた繭に、弥栄子は確信したようにきっぱりと言い切った。
「確かに、背格好は似てなくもないわ。同じ制服だし、綾南の髪も長かったし。でも、若い娘さんだもの。同じ服を着ていたら似てるようには見えるでしょう。
　だけど、やっぱり全然違うわ。
　だいたい綾南はね、繭ちゃんみたいに家のこと手伝ってくれるような子じゃなかったもの。
　それに、意地っ張りで、不器用で、我儘で。
　こんなこと言ったら、あの子に怒られそうね。
　でも、私からすれば、全然違うわ。
　綾南は綾南。
　繭ちゃんは、繭ちゃんだもの」
　不安な表情を浮かべる繭に、弥栄子はそう言ってにっこりと笑った。
　その時、玄関のドアが開く音が聞こえた。リビングに顔を出した笙は、台所で弥栄子と並んでいる繭を見て、言葉を失っていた。恥ずかしさで俯く繭の隣で、エプロンを外しながら弥栄子が答える。
「笙君に用事があるって家に来てくれたから、上がってもらって、ついでに夕食の準備手伝ってもらったの」
　弥栄子に庇われて、笙は繭のことを責められなくなった。溜め息をつくと、テーブルに並べられた色とりどりの料理を見つめて、呆れたように言う。
「おばさん、料理作ってくれるのはありがたいんだけど、これ一人じゃ食べきれないよ」
　テーブルには、和洋折衷の料理が並んでいた。弥栄子はふふと笑いながら、エプロンを畳み答える。
「あら一人分じゃないわよ、繭ちゃんの分もあるわ」
「あのさ―」
「それじゃ、邪魔者は退散するわね。繭ちゃん、ごゆっくり」
　笙にガミガミ言われる前にと、弥栄子は家を出ていく。
　残されたのは、苛立ちの矛先を失った笙と、気まずい繭、そして温かい料理だった。


　結局、繭は気まずいままに、笙と夕食を食べることになった。父親の料理は、帰ってから作っても間に合うし、いざとなれば、ここの料理を少し分けて持ち帰ればいい。それほど料理は大量に作られていた。
　静まり返ったリビングでの食事は、決して楽しいものではなかった。笙は相変わらずむっつりと口を閉ざしている。
　弥栄子と一緒に作り、味見をした時は美味しいと感じられたものも、今の笙相手ではそうは思えなかった。
　勝手に綾南のことを調べていたことを笙が怒っているのだとしたら、繭も謝ろうと思った。
　しかし、今日の弥栄子との遭遇は偶然だ。それを責められる所以はない。

「どこ、行ってたの？」
「繭には関係ない」
「弥栄子さんってこの前も来てたよね。ほら、肉じゃが作ってきてくれたの。あれ、弥栄子さんでしょう？」
「だから何だ」
　とりつくしまもないほどの言われように、繭は深いため息をついて、箸を下ろす。
　そして、ずっと考えていたことを口にした。
「ねえ、もう止めない？こんなこと」
　顔は動かさずに、笙の目だけがぎろりと動いて、繭を捉えた。逃げ出したくなる気持ちを抑え込んで、繭は続ける。
「だって、やっぱり間違ってるよ。
　綾南さんのことは、事故だったんだよ。渡来さんは関係ない、それに―」
「じゃあ、繭は忘れられるのか？」
　音を立てて箸をテーブルに置くと、そう言って笙は繭を見据えた。
「自分が恋人と親友にされたこと、忘れられるのか？許せるのかよ？」
「それは…」
　繭を裏切り、内緒で付き合い始めていた佑太と琴子。
　自分たちを責めるわけでもなく、繭を責めた二人。
　許せない。
　忘れられるわけもない。
　だがその言葉を繭は飲み込む。
　今口にしたら、また笙のペースに巻き込まれるだけだと思った。
　何も言い返さない繭に、笙は立ち上がると身を乗り出し、顔を近づけて話し続ける。
「中川琴子が自殺未遂したって聞いて、思わなかったのか？
　当然の報いだって。
　一ミリたりとも思わなかったのか？
　はっきりそう言えるのか？」
　思わず繭は息をのむ。
　怪我を心配もした。
　何があったのだろうかとも、思った。
　しかし、笙が言ったことを考えなかったわけではない。
　返事のないことが繭の答えだと思ったのか、笙は一息つくと体を起こし、窓辺に立つと、外の景色を眺めながら話し続けた。
「ちょうど綾南の事故から一年後だった。事故現場に花を手向けてた時に、知らない女が同じようにして花束を持ってた。
　彼女は俺を見つけると慌てて逃げ出した。俺は追いかけた。そして事件の真相を聞いた。
　相手は、渡来大樹の大学時代の恋人だった迫水理沙。あの事故当時、渡来は綾南と彼女の二股をかけていた。それを知った彼女は、事故の日、渡来とデートに向かう綾南をつけ、あの交差点のところで呼びとめた。そして、渡来と別れるように言った。
　二人は言い争いになった。途中、二人は道の向かいに渡来が立っているのに気付いた。時間になっても来ない綾南を心配して、渡来は迎えに来ていたんだ。綾 南はそんな渡来のところに向かおうとした。信号はちょうど変わり始めていた。今駆け出していけば、間に合うくらいだった。だけど彼女は渡来のところに綾南 を行かせまいと、反対側に引き戻した。でも綾南は、そんな彼女を振り切って、渡来のところへ向かおうとした。そして、事故に遭った。
　これでも、あいつが関係ないっていえるのか？
　あいつが二股をかけていなければ、綾南は妙な争いに巻き込まれることはなかった。
　あいつとデートする約束をしていなければ、綾南は事故には遭わずに済んだ。
　そう思わないか？」
　畳みかけるように笙がそう話す。答えられない繭を見て、笙は呼吸を整えると、低くしみわたるような声ではっきりと言った。
「俺は、忘れられない。
　綾南の未来を奪ったあいつが、
　それでものうのうと生きてるあいつが、許せない。
　俺だけは、許さない。綾南の為にも」