19契機

　笙の家を逃げるように出てきてからも、笙からの連絡は相変わらず来なかった。
　自分が笙を傷つけるようなことを言ったからだとは思うものの、それでも寂しさは拭えない。
　そして繭は決心した。
　自分と綾南との記憶を間違えられたことは許せないけれど、それでも繭の呼び出しに応じてくれ、笙は来てくれたのだ。
　言いすぎたって、謝ろう。
　そして放課後、繭は笙のマンションに来ていた。
　小さく溜め息をついて、エントランスで笙の部屋番号を押す。
　チャイムの後に聞こえてきたのは、知らない女性の声だった。
「はい」
「すみません、間違えました」
　繭はそう言って、インターホンのボタンを押して、通信を切る。
　いつもは間違えたりしないのに、と思いながら再び笙の部屋番号を押した。
「はい」
　聞こえてきたのは先ほどと同じ女性の声だ。
「あ…すみません。間違えました」
　そう言ってインターホンを切ろうとしたところで、女性の話しかける声が聞こえてきた。
「もしかして、笙君のお友達かしら？中にどうぞ」
　自動ドアが音を立てて開く。
　繭は戸惑いながらも、中に入って行った。


「いらっしゃい」
　ドアから顔をのぞかせたのは、四十代と思しき女性だった。繭の母親と同世代と言ったところだろうか。大きくドアを開けると、繭に上がるよう促し、そのま ま部屋に戻って行く。慌てて繭はその隙間に滑り込みながら、女性の後を追うようにして部屋に上がる。中からはダシの匂いがしていた。どうやら料理の最中 で、手が離せないらしい。リビングまで入り込んだ繭は、テーブルに並べられた料理の数々を見つめながら尋ねた。
「あの、笙…水谷君は」
「ちょっと出かけてるけど、あと三十分ほどで帰ってくるわ。それまで待ってて頂戴。あ、紅茶でいいかしら？」
「はい。あ、あの、お構いなく…」
　女性は繭の返事に答えることなく、テキパキとリビングのテーブルに紅茶を並べた。
　どうやらここに座れと言うことらしい。繭は素直にその席に座った。
　しばらくして料理の仕込みも一段落したのか、女性はそのまま繭の向かいの席に座り、紅茶を一口飲むと繭の前にも置いたケーキを繭に向かってどうぞと差し出し、にっこりとほほ笑んだ。
「これって水谷君の分じゃ…」
「笙君は甘いもの嫌いでしょう？自分へのご褒美として買ったケーキなの。家でも甘いのを食べるのは私だけだし、せっかくなら誰かと一緒に食べた方が美味しいじゃない」
　そう言って一口頬張りながら、おいしいと呟く女性を見て、繭も一口食べてみた。
　シンプルなロールケーキだったが、クリームが多めなのに重くなくて、意外とあっさり食べれる。
　もう一口と食べだした繭を見て、女性は満足そうに笑みを浮かべながら言う。
「それにしても、笙君も隅に置けないわね。こんな可愛い彼女がいるなんて」
「…彼女じゃ…ないです」
　正直にそう答えながら、繭は自分は笙にとってどういった存在なのだろうとふと思った。
　でも、きっと。笙ならこう答える。

　ただの同級生。

　俯いた繭に、女性は明るく答えた。
「あらそうなの？残念。笙君も大きくなったんだなあって思ったのに」
　ふふと笑う声を聞いて、繭は目の前の女性と前にも笙の部屋で会っていることを思い出した。会ったとはいっても、実際に顔を突き合わせたわけではなく、繭は笙の部屋に入れられていたわけだが。
　確かあの時も、女性が帰った後には、沢山の料理が食卓に並べられていたはずだ。
　女性はたまに笙の食事を作りに来ているのだろうか。
　繭はまた笙に嫌われるかもしれないと思いながらも、尋ねた。
「あの…御親戚の方ですか？」
「いいえ。ああ、そうよね、いきなりこんなおばさんが出てきてびっくりするわよね。
　笙君が前に住んでいたところの隣に住んでいたの。去年、笙君たちはこのマンションに引っ越しちゃったんだけどね。小さい頃から息子みたいに思っていたものだから、今でも時々押し掛けて料理してるのよ」
　隣に住んでいたと聞いて、繭は思わず口にしていた。
「もしかして、綾南さんって…」
　すると女性はあららと目を大きくしてから、にっこりとほほ笑んだ。
　そういえば、笑顔は似ていなくもない。
「笙君から聞いたのかしら？綾南の母です」


「そうなの？綾南と同じ高校なのね？それじゃあ井谷先生ご存知かしら？綾南の担任の先生だったんだけど」
「すみません。わたし、最近転校してきたばかりで…」
　繭は、直接授業を受けていない教師の名前はほとんど覚えていない。恥ずかしそうにそう答えると、いいのよと綾南の母親である道重弥栄子は明るく答える。
「井谷先生ってあの時三十五歳くらいで独身だったんだけどね、四十までには結婚します！って宣言されていたから、どうされたかなと思っただけ。
　良い方なのよ。今年も綾南の墓参りもしてくれて」
「あの、綾南さんのこと…残念でした」
　慌てて繭がそう言うと、いいのよ、と弥栄子は微笑んだ。
「気にしないで。もう二年も前のことになるんだから。そうね、もう二年経ったのね。早かったような短かったような」
　しみじみそう話す弥栄子の表情は、複雑に見える。それでも、何か吹っ切れているような、そんな気がしていた。
「この前通ったんです。あの交差点。お花が置いてありました」
　花は大樹のほかにも置かれていた。それだけ、綾南の死を悼む人間がいるということだ。
「あの時車を運転していた人も。今年も、墓参りをしてくれているの。そう思うと、本当に綾南は幸せだったのかもしれないわね」
　自分に言い聞かせるように弥栄子は言って、繭が新聞からは分からなかった話をしてくれた。
「運転していた人も運が悪くてね。お子さんが熱を出して、病院に連れていくところだったそうなの。急いでいて、だから車の前に飛び出してきていた綾南に気付くのが少し遅れて。ブレーキを踏んだけど、雨のせいでタイヤがスリップして、車を止めることもできなくて。
　あの子、そそっかしかったから。いつも、少し落ち着きなさいって言ってたのに、あの日も約束の時間に遅れちゃうとか言って家飛び出して」
「約束、ですか？」
　ええと答え、弥栄子は右手で頬に触れた。
「受験生だったから、近所の大学生に勉強を教わっていたのよ。いつもは家に来てもらってたんだけど、その日は急に外でやることになったって言って。
　渡来君にも、申し訳ないことをしたわ。こんな日に、外で会う約束をした自分が悪かったって」
「わたらい…さん？」
　突然出てきた覚えのある名前に、思わず繭はカップにつけていた口を慌てて話して尋ねた。
「ええ。渡来大樹君って…たしかあの時は寛政大学の四年生だったはずよ。就職先も決まってて…たしか、大手の広告代理店だったんだけど…いやね、年かしら。忘れちゃった」

　…繋がった。

　笙と大樹、綾南。
　思っていた通り、大樹と綾南は知り合いだったのだ。

「渡来君は本当にいい人でね。救急車を呼んでくれたのも彼だったの。時間に遅れた綾南のことが気になって、ちょうど近くまで来てくれていたそうなのよ」
　となると、大樹は綾南の事故を見ていたと言うことになる。
　大樹の面倒見のいい性格からすれば、弥栄子の言う通り、綾南の事故を自分の責任だと思いかねない。そして、それを聞いた笙も、綾南を殺したのが大樹だと思い込んでもおかしくはない。

『あいつは人殺しだ』

　あの時はっきりとそう告げた笙の声が、繭の心に響き渡った。