君にふる雨は、優しい雨であってほしい

01出会い

 雨だ。
 自分の目の前に落ちてきた雫を見て片桐繭はそう思い、足を止めた。
 周りに生徒はおらず、学校の昇降口には繭一人だった。
 目の前の地面には、どんどん水玉模様が広がっていき、そのまま一段暗いトーンに変わっていく。
 雨は苦手だ。
 濡れた制服のスカートの裾が足にまとわりつくのも、
 お気に入りの靴が一日で駄目になってしまうのも、
 髪型が決まらないのも、すべて雨のせいだ。
 それに、親から離婚の話を聞かされた日も、雨がしとしとと降り続く夜だった。
 朝、天気予報をチェックしておけばよかったと後悔をする。
 けれど転校してきてからの繭にとって、今日という日がどんなに晴れ渡っていても、気持ちはどんよりと曇っていた。
 置き傘でもあればよかったのだが、そんな用意周到な性格ではないし、転校してから一週間程度で、そこら辺にある見知らぬ人の傘を拝借するほどの度胸もない。
 ましてや、大して親しくもない人に傘に入れてくれと頼めるほど、気安い性格でもなかった。
 それどころか、そうやって困っている繭に声をかけてくれるような友達さえ、この学校にはいない。
 望んだ転校ではないことも、クラスメートたちとの壁を作ってしまった原因のひとつだが、もとから社交的な性格でもなく、人見知りでつっけんどんに対応していたら、プライドの高い女だと思われたらしい。
 気付いたら一人になっていたが、それでも繭はよかった。
 自分には琴子と佑太がいる。
 中川琴子は中学からの友人で、内藤佑太は前の高校でできた初めての恋人だった。他人に心を開くのが下手な繭にとって、二人の存在は唯一無二のものであり、二人以外の友人はいなくても問題ないと繭は思っていた。
 転校した今でも二人との関係は今でも続いていて、メールはもちろん、日に一度は必ず電話をすることになっている。
 今も、すぐにでも電話をして佑太の声を聞きたいというのに、繭を足止めするような突然のこの雨だ。いっそ今ここでかけてしまいたいとは思うけれど、誰かに佑太との甘い会話を聞かれたくないし、少しでも早くこの学校から出て行ってしまいたかった。
 高校から駅までは歩いて十分ほど。走れば五分くらいだろうか。
 もう一度空を見上げ、覚悟を決めると鞄を胸に抱え走り出そうとしたところで、ふいに頭上に何かを感じた。
 見上げると、先ほど見たどんよりとした灰色の曇り空ではなく、そこには鮮やかな赤が広がっていた。
 …傘。
 そう思う繭の背後から、脇をすり抜けて誰かが前を風のように通り抜ける。
 と同時に、傘の柄が繭の肩にふわりと小鳥のように止まった。
 そして決して身長の低くはない繭からしても見上げる体躯が、繭の前を通り過ぎる。
 その一瞬に、サラサラと漆黒の髪をなびかせた横顔が見えた。
 すっと筆で描いたようにまっすぐで切れ長な瞳が、揺れるその髪の合間から一瞬垣間見える。
 憂いを帯びた瞳は、伏し目がちに一瞬だけ繭を見つめている。
 その刹那、頬に影を落とす長い睫毛に、雨の雫が落ちた。
 彼がゆっくりと目を閉じると、その雫が跳ねて彼の頬を濡らす。
 まるで、涙のようだと思う繭の前で、彼が目を開いた時にはもう彼の視界に繭はおらず、何事もなかったかのように彼はそのまま正面へと視線を移した。
 けれど、その視線に繭は心に軽く爪を立てられた気持ちになった。
 何となく、ざわついた気持ちになり、目が離せなくなる。
 しかし彼は繭の視線に囚われることなく、雨の中を颯爽と駆け出して行った。

「あっ…の」

 慌てて声をかけてみたけれど、久しぶりに出した為にかすれた声は彼に届くことなく、繭の足元にぽたりと落ちる。
 残されたのは、繭と赤い傘。

「…ありがとう…」

 そう口にしてみたけれど、すでに相手の姿は雨の中に消えていた。
 歩き出そうとした繭は、ふと黒い手帳が落ちていることに気付き、拾い上げる。
 それは生徒手帳で、中にある写真から、傘の持ち主の名前がわかった。

 水谷笙。

 同じ学年で、隣のクラスであることに、繭は初めて気付く。目立ちそうな容姿なのに、気付いていないということが、自分がいかにこの学校に興味がないかの証拠のように思えた。
 写真の中の笙は、無愛想に繭の方をじっと見つめている。

 みずたに、しょう。

 繭はその名前を心の中で呟くと、笙が消えていった方向をじっと見つめた。
 それが、繭と水谷笙との出会いだった。