18恋心

「もちろん。仕事中でも、夜中でも、どこにいても駆け付けるよ」

　大樹の言葉は、笙から頼まれた繭の役割が終わる言葉でもあった。
　しかし、繭はそのことを笙には話さずにいた。
　話してしまえば、笙は繭との関係を断ち切るとわかっていたからだった。
　実際、話す機会がなかったというのもある。
　写真部での一件以来、三日が過ぎたが笙からの連絡は無くなっていた。
　今日も笙とは廊下ですれ違ったものの、繭のことは全く無視して通り過ぎた。
　いつもと同じといえばそうなのだが、最後に言われた言葉を振り返れば、やはり笙を怒らせてしまったからとも思えた。
　嫌われたのかも。
　落ち込む繭が、夕食のレトルトカレーを食べていると、父が帰宅をした。
　珍しく早い帰宅に、繭は戸惑った。
「おかえりなさい」
　そう言いながら散らかったリビングを片付けるが、父はそんな慌てる繭を一瞥すると、夕飯はと聞いてきた。
「…カレーライス」
　昨日もカレーだった。
　専業主婦で、家事の得意だった母のおかげで、繭は毎日母の手作りの料理を食べ、掃除の行き届いた家で、何も考えずに暮らしていた。それは父も同じだ。
　離婚をし、父と娘の二人暮しをするようになってからというもの、食事はレトルトやスーパーで買ってきた惣菜、部屋もたまに掃除をする程度で、洗濯物は洗濯機の外に溢れている状況だ。
　繭の返事を聞いて、父はわざとらしいほどの大きなため息をつくと、ネクタイをゆるめながら、繭を一瞥して答えた。
「塾にも行かず、習い事もせず、家のこともやらない。お前は学校が終わって、いったい何をしているんだ」
　母が専業主婦でいたのも、父に言われてと聞いたことがある。女は家でという古い考え方をする人間なのだ。それ故に、繭と二人の生活になってからも、家事は繭に任せきりの状態だった。母に離婚理由を聞いた時、ぽつりと呟いていたことがある。
「お父さんは、それが当然だと思っているから、労わりの言葉も感謝の言葉もなかったわ。でも、あの人は違ったの」
　あの人とは、母の再婚相手のことだ。
　離婚してもその態度が変わらない父は、おそらくその理由も一生理解することはないのだろう。
　繭は大急ぎで父の食事の準備をした。テーブルに温めたカレーを置いたところで、父がちょうどダイニングに現れた。椅子に座るタイミングで、繭はごちそう さまと自分の食器を下げる。まだ途中じゃないかという父の視線を無視して、繭は自分の部屋に逃げ込んだ。そして、カーディガンと財布を携帯だけ手にする と、部屋を飛び出し、リビングに向かって叫んだ。
「ちょっとコンビニ行ってくる」
　父が何か言っているのが聞こえてきたが、繭は無視して家を出た。


　本当はコンビニに用事があったわけではなく、ただ父と二人でいたくなかった。
　母のところに行けたら、と思ったが、それを母が望んでいないことも繭は知っている。それに、母のところに行くということは、笙との別れを意味するのだ。
　一人暮らししたいと言っても、父はそれを許さないだろう。
　結局どうにもできないことに、繭は憤りを感じ、自然と涙があふれてきた。顔を上げると、コンビニの明かりが滲んで見える。
　少し気持ちが落ち着くまで、時間を潰してから家に帰ろう。
　そう思ってコンビニに入ろうとしたところで、繭の前に見知らぬ男性が二人立ちはだかった。
「君、こんな時間に一人なの？」
「もしかして、家に帰りたくないとか？」
　明るすぎる髪ににやけた表情と、繭でもそれが明らかなナンパだとわかる。
　無視してコンビニに入ろうとすると、男の一人が繭の手を掴んだ。
「聞こえてるんなら返事しろよ」
　明らかに声色が変わり、繭は身を竦めた。怯えた様子の繭を見て、男たちはまたニヤけた表情に戻る。
「そうそう、最初から大人しくしてればいいんだって」
「別に嫌なことしようってわけじゃないんだし」
　繭は何とか手を話してもらおうとしたが、男の力は強く、繭が思い切り腕を振り払おうとしても、びくともしなかった。男たちはそんな繭の抵抗も喜んでいるように顔をにやつかせている。
「ここじゃゆっくり話せないから、ちょっといいとこ行こうぜ」
　男の視線の先には、車体の低い車があった。連れ込まれたら、どこに連れて行かされるのか、何をされるかもわからない。
「は…放してください」
　振り絞って繭がそう声を出すと、手を掴んでいた男はあぁ？と繭を睨みつけた。しかしここで怯んでは、車に連れ込まれるだけだ。
「放して」
「君たち、何やってるんだ？」
　繭の声に被るようにして、コンビニの店員が顔を出してきた。四十代くらいと思しき男性の様子からすると、単なるアルバイトではなく店長なのかもしれない。
　男たちは店長の姿を見とめると、舌打ちをして、繭から手を離した。
「別に…ただ声かけただけだし」
「帰ろうぜ」
　そしてそそくさと自分たちの車に戻って行った。ほっとした繭がへたへたと座り込むと、店長が慌てて駆け寄ってきた。
「大丈夫かい？」
「…すみません」
「少し休んで行くといい」
　胸のネームプレートには店長、小林という文字が書かれていた。小林が繭を連れて行ったのは従業員控室で、そこにパイプ椅子に繭は座らされた。少しして、小林は温かい缶のお茶を持ってきて、それを繭に渡すと、
「この時間だと、この辺りは治安があまり良くないから、誰かに迎えに来てもらいなさい。ご両親に連絡してあげよう」
と言った。小林の親切心からの言葉だと言うことはわかる。そもそも、繭を助けてくれたのは小林なのだ。しかし、父から逃げ出してきた繭にとって、家に連絡されたくはなかった。
「大丈夫です。少ししたら、落ち着きますから、一人で帰れます」
　そう答えるものの、繭の手は小刻みだが震えている。困ったなというように小林が溜め息をついた。
「あの連中は、ひつこいからね。外で君を待ち伏せしているかもしれないよ」
　確かに小林の言う通りだ。ひと気のない暗い道で待ち伏せされてでもしていたら、繭がいくら声を上げても誰も助けてはくれないだろう。
　しかしもう夜も遅い。近所に知り合いのいない繭の呼び出しに、誰が応じてくれると言うのだろうか。
　はっと気付いたように、繭は顔を上げた。


「繭っ」
　コンビニに駆け込んできたその声を聞いて、繭は立ちあがった。すぐにドアが開き、笙が現れる。
「大丈夫かっ」
　そのままの勢いで繭の両肩を掴み、笙はその無事を確かめるように繭の体を隅々まで見まわした。
「大丈夫。店長さんが助けてくれたから」
　繭の返事を聞いてもまだ安心できないのか、笙は繭の表情をじっと見つめている。ようやくそこに、店長の小林が顔を出した。
「この辺りは、夜になると治安があまりよくないからね。気をつけて帰ってくれよ」
　大人が迎えに来ると思っていたら現れたのが見た目にも成人しているとは言い難い青年だったことに、どこか納得のいかない表情の小林だが、それ以上の小言を言うのは諦めたらしい。
　小林に礼を言い、繭は笙についてコンビニを出た。
　とりあえず先ほどの二人の乗った車は見当たらず、繭がほっとしていると笙が口を開いた。
「家まで送る」
　そう言うと笙は、繭を振り返りもせず歩き出した。どこか無機質に聞こえた声が、さっきまでも心配そうな声とは違い、苛立っているように思えた。
「待って」
　繭はそう言うと、咄嗟に笙の腕を掴んだ。
「家には…帰りたくない」
　返事の代わりに、笙の溜め息が聞こえてくる。じゃあどこに行くというのだと聞かれる前に、繭は小さな声を震わせながら言った。
「笙の家に、行きたい」


　笙が呼んだタクシーの中で、繭は窓にもたれながら、手にした携帯を握りしめていた。
　誰かに連絡を、と思った時に一番に思いついたのは笙だった。
　しかし繭はそれをすぐに否定した。
　嫌われてしまった自分が連絡をしても、この時間に、しかも笙の家から少し離れたこの場所に笙が来てくれるわけもない。
　次に浮かんだのは、大樹だった。
　大樹は繭に約束してくれていた。繭が呼べば、仕事中でも、夜中でも、どこにでもかけつけると。
　携帯で大樹の番号を探し、通話ボタンを押そうとしたところで、しかし繭は携帯を閉じた。
　笙に会いたい。
　繭はそう強く感じると、笙の番号を押していた。
　数コールして電話に出た笙に、事情を説明すると、笙は場所だけ聞くと繭の返事も聞かずにさっさと電話を切った。

　余計に怒らせてしまったかもしれない。
　先ほどから黙りこんでいる笙の横顔を盗み見しながらそう繭は思う。
　それでも、会えてよかった。
　そう思う自分がいる。
　笙に苛立ち、笙に怯え、それでも笙に会いたいと思う自分が、確かにいる。
　恋人だった佑太のことは、告白されて付き合いだしたけれど、それでも好きだと思っていた。一緒にいると楽しかったし、初めて手をつないだ時はドキドキした。キスをした時は、自分の心臓の音が佑太に聞こえないか心配になった。
　あの気持ちに比べると、この気持ちはもっと重たくて、苦しい。
　それでも。
　笙が好きだ。
　時折街灯に照らされ、青白く浮かび上がる笙の横顔を見つめながら、繭はそう思った。

「もう遅いから、カフェモカはやめた。これ飲んだら、帰れよ」
　家に上がると、笙はそう言って繭の為に作ったホットミルクを差し出した。受け取りながら、繭もわかったと答える。
　それ以上、会話はなかった。部屋には、ほのかに甘いミルクの匂いが広がっている。
　笙に聞きたいことはたくさんあった。
　どうして大樹に復讐をするのか。
　どうして連絡をくれなかったのか。
　どうしてこんな時間の呼び出しに応じてくれたのか。
　自分のことはどう思っているのか。
　綾南のことはどう思っているのか。
　でもそのひとつでも聞いてしまったら、二度と笙に会えない気がして、繭は口を閉ざす。
「…本当に、大丈夫なんだな」
　ぽつりとそう言った笙に、繭は視線を向けた。じっと瞬きもせずに笙は繭を見ている。
「うん。大丈夫。手、掴まれて、ちょっと怖かったけど」
「貸して」
　そう言うと笙は繭に掌を向ける。繭が戸惑っていると、笙は少々強引に繭の腕を掴んで、まじまじと見つめた。傷があるかを確かめているだけなのだとわかっ ているものの、繭の心臓は途端に激しく音を立て始める。しかし抵抗することもできず、されるがままになっていると、無傷であることを確かめたのか笙がその 手を離した。
　急に自由になった腕を、繭は戸惑いながらそっと降ろすと、笙が急に立ちあがった。
「どうしてこんな時間に、一人でコンビニに行ったんだ」
　父との些細な諍いを笙には伝えたくなくて、繭は黙りこむ。すると笙はいつになく激しい口調で言った。
「危ないだろう？今回は偶然助かったけど、車に連れ込まれてたらどうするつもりだったんだっ」
　叱られている気分になり、繭は拗ねたように答える。
「ごめんなさい。でも、家には居たくなかったの」
　しかし笙の怒りは収まらなかった。
「それでも一人で出歩くなよ、心配したんだ。俺はまたお前が変な不良に絡まれたんじゃないかと思って」
　そう言って笙は溜め息をつくと、頭を抱えてソファに座りこんだ。自分を叱責するように体を揺らしている笙を見て、繭は手に持っていたカップをテーブルに置きながら聞き返した。
「また？」
　はっとしたように笙の揺れが止まる。
　それが、答えだった。
　繭はすくっと立ちあがった。
「ごちそうさま」
「繭」
　携帯や財布を急いで手にする繭の名前を呼び、笙が引き留める。
　だが、一度口にした言葉は、二度と戻らない。
「今日は来てくれてありがとう。それじゃ」
　そう言ってリビングを出ていく繭のあとを、慌てて笙が追いかけてきた。
「繭っ。送ってく」
「いい。タクシーくらい掴まえられるし、お金もあるから」
「繭！」
　靴をはき、繭は振り返った。
　狼狽している笙の姿がそこにはあった。
　きっと無自覚だったのだろう。焦りが、笙に記憶を混同させて、繭を綾南と間違えてしまったのかもしれない。
　だがそれが余計に繭を傷つけた。
「笙のこと呼ぶんじゃなかった。渡来さんに来てもらえば良かった」
　繭はそう言い残すと音を立ててドアを開け、笙の家を出て行った。
　エレベーターに乗り込み、そのドアが閉まったところで、繭は力なくそこに座り込む。自然と、涙が頬を伝っていた。
　最低だ。
　私も。笙も。