17約束

『二度と綾南のことを調べたりするな』
　
　綾南と呼んだ笙の声。
　鋭い声に滲んだ深い悲しみ。
　有希の話だと、綾南は笙に好意を持つどころか嫌っていたようだが、笙は違ったのだろう。

　きっとすごく好きだった。

　だから、何も知らない、関係もない繭に探られるのが嫌だった。
　そんな気がしてならなかった。

　笙の近くにいた気がしていた。
　共有の秘密を持ち、隠れた共犯者として、唯一無二の存在だったように思っていた。

　でも笙は、違ったのかもしれない。

　それが笙の気持ちとばかりに、あれ以来笙からの連絡はない。今日も大樹との勉強会の日なのに、何の連絡もなかった。

「…ゆちゃん？繭ちゃん？」
　呼びかけられているのが自分だと気付き、繭はハッとして顔を上げる。目の前には、心配そうに自分の顔を覗き込む大樹がいた。
　そうだった。
　今は大樹の勉強会の時間だったのだ。
　指にはさむようにしてシャーペンを揺らしていた繭は、慌てて握りなおす。そんな繭を見て、大樹は椅子の背もたれに寄りかかると、小さな溜め息をついて明るい声で言った。
「今日は、もうやめよう」
「でもっ―」
「だらだらやっても何も頭に入らないよ。時間の無駄だ」
　大樹はきっぱりそう言った。
　笙に連絡できない今、大樹に放り出されたら、繭はこの日を持て余してしまう。今一人になったら、笙のことを思い出して、更に落ち込んでしまいそうだった。
　けれど、大樹の言うことももっともだ。
　繭にとって勉強する意味のない時間を過ごすと言うことは、教える側の大樹にとっても同じく無駄な時間を過ごすことになる。平日会社で働く大樹にとっては、貴重な休日なのだ。無駄な時間などできる限り減らしたいのだろう。
　諦めて、勉強道具を鞄にしまい始めた繭の前で、大樹が伝票を持って立ちあがる。繭は大人しくその後を追いかけることしかできなかった。

　ファミレスの前で別れると思いきや、大樹は何も言わずに駐車場へと向かって行く。迷った繭が立ちつくしていると、大樹は振り返って手招きをした。先週に続いて、大樹は車でここにきているようだ。すると、助手席のドアを開けて、大樹が言った。
「乗って」
　家まで送ってくれるのだろうか。繭は大人しく助手席に乗り込む。大樹は助手席のドアを閉めると、運転席に乗り込んできた。
「どこか行きたい場所はある？」
「え？家に帰るんじゃ？」
「約束の時間までまだあるし、気晴らしにドライブでもと思ったんだけど？」
　どうやら大樹は、勉強をするのをやめようと言っただけで、今日の約束を中止すると言ったわけではないようだ。
「特にないなら、海でもいいかな？」
　頷く繭を見て、大樹は車を発進させた。
　少しして、海が見えてくる。今日は雨は降っていないが空にはどんよりとした雲が厚く覆っていた。
「窓開けてもいいよ」
　大樹が繭の気持ちを見透かしたように言って、繭は素直に窓を開けた。少し重たくはあったが、それでも風が車内に吹き込んできて、もやもやとした気持ちが 少しだけ晴れていく。あわせるように、僅かな雲の切れ間から太陽の光が差し込む。その光は、海と空を繋ぐ一筋の糸のようになって、海を照らしていた。

　そのまま少し走ったところで、海の目の前にある駐車場に大樹は車を止めた。
　きらきらと宝石のように輝く海を見ながら、こんなに近くにありながらも一度も海を見に来なかったなと繭は思った。
　そもそも、この地に繭は来たくはなかったのだ。
　それが今は、引っ越す前の場所には戻りたくないと感じている。
　恋人だった佑太と、親友の琴子に裏切られたということもある。
　だがそれ以上に、ここには笙がいる。
　駐車場の脇には、小さなバスケコートがあった。フェンスに鍵はかかっておらず、どうやら自由に使っていいものらしい。コート脇のベンチに繭を座らせ、大 樹は転がっていたボールを掴むと、軽くドリブルをしてシュートを放った。大樹の手から放たれたボールは、綺麗な弧を描き、リングの中に吸い込まれていく。
「バスケ、やってたんですか？」
　見本のような綺麗なフォームだった。繭の問いかけに大樹は笑顔で答える。
「小学校からね。背だけは高かったから。でも、大学の時に怪我して辞めた」
　そう言いながら、再び大樹はシュートする。
　今度はボールがリングにはじかれ、大樹は小さな溜め息を落とした。
「やっぱり続けてないと、駄目だな」
　大樹はそう言いながら、しばらくドリブルとシュートの練習を続けた。
　しばらくすると、大樹はコートにどかっと腰をおろした。顔には汗が浮かびあがり、肩も上がってる。大樹は立ち上がると、「ちょっと飲み物買ってくるから待ってて」とだけ言い、コートから財布を出そうとした。その時、赤い何かが落ちる。
「何か落ちましたよ」
　繭がそれを拾い上げようとすると、横から出てきた大樹の手が先にそれを掠め取る。
　大樹らしからぬ乱暴な態度に繭が少し戸惑っていると、
「何でもないよ」
とだけ答えて、コートを出て行ってしまった。
　赤いそれは、御守りのようで、合格祈願と書かれていた。ところどころに黒い染みがついていて、年季の入ったもののように見えた。
　しかし合格祈願の御守は、社会人である大樹には必要ないように思える。
　昔もらった思い出の御守なのかな。それとも、これから資格の試験を受けるとか？
　繭はそう思い直した。
　そうして、ひとり取り残されると、自然と手持無沙汰になる。
　繭は何とはなしに携帯をポケットから出した。
　わかってはいたが、やはり笙からの連絡はない。
　振り返れば、笙からの連絡は、いつも何かがあった時の必要最低限の連絡だった。
　見ないようにしていた小さくとも確かに事実にため息をついていると、名前を呼ばれた気がした。振り返ると、大樹がジュースの缶を繭に優しく投げている。
　決して運動神経のよくない繭が慌ててベンチから立ちあがりそれをキャッチすると、大樹は海風に髪を揺らしながら、ナイスキャッチと微笑んだ。
「ようやく表情が柔らかくなったね」
　その言葉で、大樹が繭のことを心配していたことがわかって、繭は再びベンチに座ると俯いた。
　繭の為に大樹が近くのコンビニで買ってきたのは、アイスモカだった。
　笙のことを思い出しながら飲むモカは、甘過ぎて、胸が詰まる。
　一口飲んだところで、繭の隣に腰を下ろした大樹がそう言った。
「…ごめんなさい」
　思わず繭がそう答えると、大樹はふわりと微笑む。
「いいよ。高校生なんて悩みだらけだろう。恋の悩み、友達の悩み、家族の悩み、勉強の悩み、将来の悩み。上げて言ったらきりがない」
　大樹は、でもねと繭の前に立ち、繭の目を見て言った。
「もしその悩みを、繭ちゃんが誰でもいいから聞いてもらいたくなったら、俺聞くから」
　柔らかい優しい声とは裏腹に、どこか固く真剣な表情だった。
　笙と大樹をつなぐものが綾南だとしたら、そして笙と同じように大樹も自分のことを綾南のように思っているのだろうか。
　ふとそんな考えがよぎり、繭は話を逸らす。
「優しいですね、渡来さんって」
　甘くて苦いモカが、胸につかえる。
　でも、この優しさは、きっと私のものじゃない。
　綾南さんのものだ。
　繭はそう思い、缶をギュッと握りしめる。すると、大樹はあははと笑って答えた。
「そんなことないよ。もしかしたら下心あるかもしれないよ？」
　思わず繭が顔を上げると、大樹はにこっと笑って、
「なんてね」
と冗談めかして言った。
　くすくすと二人であげた笑い声が、波の音に消えていく。
　学校の教師が言うと笑えない冗談も、大樹が言えば素直に笑えた。
　気付いていないが、繭にとって笙と同じく大樹の存在も、今の繭を支えていた。
　ただ優しいのか怖いのか、何を考えているのかわからない笙の存在とは違い、大樹は繭にとって安心できる存在だった。
　この人になら、相談できる。
　今、私が思い、悩んでいること全部。
　そうしたら、笙の復讐の理由も教えてくれるのだろうか。
　その復讐も、止められるのだろうか。
　笙の復讐の理由を探し始めたのは、単純に大樹がいい人に思えたからだった。
　きっと、笙の勘違いだと、繭はそんな軽い気持ちから、笙と大樹の繋がりを考え始めた。
　しかし今は違う。
　笙に復讐はしてほしくないという気持ちは一緒だ。しかしそれは、大樹を傷つけてほしくないからではない。
『二度と綾南のことを調べたりするな』
　そう言った時の笙の表情。綾南の事故は二年も前のことなのに、まるで今も綾南が生きているような言い方だった。
　それは、きっと笙がこの二年間、ずっと綾南の復讐を心に誓っていたからではないだろうか。
　そうすることで、笙の心はこの二年間ずっと足踏みをしているままなのだ。

　…これ以上、綾南さんに囚われないでほしい。
　綾南さんのことを、笙に思いだしてもらいたくない。

「もし…」
　繭はそう言って、海風に舞い上がる髪を手で押さえた。大樹の目が、繭の次の言葉を待って、優しく繭の顔を覗き込んでいる。
　もし、笙の復讐計画を全て大樹に話したら。
　そうすれば、この復讐は失敗に終わる。
　大樹は繭のことを恨むだろう。
　勉強会はもう二度と開かれないだろうし、もう二度と顔を合わすこともない。街で偶然遭ったとしても、きっと互いに他人のふりをするはずだ。
　それは最初からわかっていたことだった。

　でも、繭の前からいなくなるのは、大樹だけじゃない。
　笙もいなくなる。

　そう思った瞬間、繭の口元が強張った。
　復讐で結ばれた関係だったのだから、それも当然だ。
　でもきっと、笙は裏切った繭のことを許してはくれないだろう。
　それに、笙は大樹への復讐を諦めないに違いない。
　ただ、繭という復讐の道具を諦めるだけで、きっとまた別の道具を見つけたら、大樹への復讐を実行するはずだ。
　つまり笙は、綾南のことを忘れるわけではない。
　口の中に残ったモカの甘味を飲み込みながら、繭は明るく言った。
「もし、私が今すぐに来てほしいって言ったら、きてくれますか？夜中でも、どこでも」
　――繭が呼んだら、仕事中でもどんな場所にも駆け付けるっていう関係になってくれればいい。
　そう言って繭をじっと見つめていた笙。
　でもあの時見つめていたのは、本当に繭だったのだろうか。
「もちろん。仕事中でも、夜中でも、どこにいても駆け付けるよ」
　大樹がそう言ったのを聞いて、繭は鏡に向かって何度も浮かべたあの笑顔を大樹に向け、ありがとうございますと答えた。