16面影

　翌日、写真部に現れた繭に、有希の知人である瓜生という男子生徒は、分厚いアルバムを五冊ほど手渡した。

「片桐さんだよね。佐野から聞いたよ。はい、これが三年前の体育祭と学園祭の写真」

　道重綾南が事故に遭ったのは、二年前の梅雨だ。ただ体育祭も学園祭も、事故の後の行事なので、綾南が写っている可能性がある写真と言えば、三年前のものになった。綾南は高校二年生。ちょうど繭たちと同じ年である。
　それにしても相当な写真の枚数だ。アルバムといっても、説明書きがあるわけでもなく、現像した写真を入れてあるだけのものだった。ただ、生徒たちにそこから写真を選んでもらっていたのか、写真にはそれぞれ番号が割り振られていた。

「残念ながら俺はその道重さんて人のこと知らないんだ。だから、正直言ってその中に写ってるかどうかもわからない。探せば知ってる先輩もいるかもしれないけど、あまり騒ぎたてたくないって聞いてるからさ」
　本来ならば、今日も写真部は部活が休みの日だったのだが、有希が頼んで無理に開けてもらったのだと言う。
「ありがとう」
　いいやと瓜生は答える。
「それじゃ、俺は隣の暗室にいるから。終わったら声かけて」
「うん」
　椅子に座りかけた繭に、暗室に入りかけた瓜生が振り返って言う。
「それと、もしできればだけど、一枚片桐さんの写真撮らせてもらってもいいかな」
　想像してなかったお願いに、繭が思わず目を見開くと、瓜生は、
「あ、いや。無理にとは、言わないけど。卒業までに記録用に全生徒の写真撮るのが僕の目標なんだ」
と慌てたように答えた。写真を見せてもらえる引き換え条件ではなさそうだが、断る理由もないように思えて、繭はわかったと答える。
　すると、瓜生は嬉しそうに笑顔を浮かべた。
「ほんと？ありがとう！
　じゃあ、終わったらさっそく撮らせてもらうよ」
　機嫌良く鼻歌を歌いながら瓜生が暗室に入ると、写真部の部室は静寂に包まれた。
　繭は一息つくと、アルバムをゆっくりめくり始める。
　瓜生と同じで、繭も綾南のことを知っているわけではない。
　わかっているのは、自分と外見が似ているという点だけだ。
　それでも、繭は綾南を見てみたいと思った。
　笙が好きだったと言う人を。
　写真は実にいろんな人たちが写っていた。体育祭などでは、胸に学年とクラスを書いたゼッケンが貼ってあってまだ分かりやすかったが、文化祭となると学年 もクラスもごちゃ混ぜになって写っている。写真はどちらかといえばスナップ写真の方が多く、それだけに雰囲気は伝わってくるものの、記録物としては、あま りいいものではなかった。
　沢山の写真を眺めながら、繭は今日の美術の時間でじっと観察していた笙のことを思い出していた。中学時代、デッサンのモデルをしていたということもある のか、描かれている時の笙はほとんど動かずに言われたままのポーズをしていた。一方の繭は、最初の厳しいポージングを要求された後は、ほとんど何も言われ ることもなかった。自分でもたまに不安になって、少し動いてみるものの、笙はそれを注意もしない。ただ、描いていないわけではないらしく、絶えず鉛筆を走 らせる音だけはしていた。
　琴子の事故で、繭の代わりとしての笙の仕事が終わったはずなのだが、笙が繭に今まで以上の大樹との接近を要求することはなかった。
　相変わらず何を笙が考えているのかはわからない。
　だが繭は自分がやるべきことを見つけていた。
　笙の誤解を解くこと。
　その為に、昨日も繭は有希と別れた後、図書館へと向かった。
　新聞記事を調べ、綾南の事故が予想通りの事故とわかった時に、笙の誤解を解くと決めたのだ。
　綾南の事故は、天候も大きく影響していた。その日は土曜日で、綾南を轢いたドライバーは、その車に家族を乗せていた。ドライバーの証言によれば、信号が 青だった為に、車はそのまま交差点を直進したのだと言う。しかし突然、交差点に綾南が飛び出してきた。慌ててブレーキを踏んだが、雨のせいでタイヤがス リップし、そのまま道路にしゃがみこんだ綾南を轢く。すぐに救急車を呼んだが、頭を強く打ったことで脳内出血を起こした綾南は、病院に着く前に帰らぬ人と なった。ドライバーは信号が青だったことを主張し、それを裏付ける証言もあったものの、注意を怠ったという理由で過失を問われた。しかし綾南が何故赤信号 を無視して交差点を渡ろうとしたのかは、結局わからないままだった。結局は、車の通りがそれほど激しい交差点でもないことから、近づいてきていた車に気付 かずに渡ろうとしたのだろうと結論づけられたらしい。そのドライバーも、当然大樹ではなかった。
　では何故、笙は大樹が殺人者だと思い続けているのだろうか。
　繭は、週末大樹に会った時に、直接綾南との関係を聞いてみようと思っていた。
　話せばきっと、大樹が犯人じゃないのがわかる。
　そうすれば、笙の復讐も止められる。
　そう考えた繭は、今まで自分が考えていたこととは違う結論に、少しばかり驚いた。
　今までは、ただ笙に、大樹のことを悪い人だと思ってほしくなかっただけだった。
　けれど、今考えていたことは、それとは少し違う。

　復讐がなくなれば、私と笙をつないでいるものもなくなってしまうのに。

　それは、嫌だと繭は思う。

　でも、笙に復讐をしてもらいたくもない。

　守りたいものが、笙なのか大樹なのか、それすらもわからずに、繭は気持ちを変えようとアルバムをめくる。
　そこで、繭は思わず手を止めた。
　会ったこともない相手、しかも手掛かりは、自分に似ていると言う曖昧な言葉だけだ。似ているかどうかはその人の主観によるところが大きい。だからこそ、本当にわかるのだろうかと思っていた。
　しかし、それでもこの人が道重綾南だと、繭には一目でわかった。
　はしゃいでいるクラスメートたちの隣で、一人綾南は微笑んでいた。
　そう、まるで、赤ちゃんが楽しそうに笑っているのを見たように。
　柔らかい日差しの中に溶け込むようにして、微笑んでいた。
　写真に写っている綾南は、繭が何度も練習して鏡に映った自分によく似ていた。
　少し面長な顔に、長く真っ直ぐな髪。
　綾南の方が華やかで、大人っぽくはあるが、それでも姉妹だと言える程度には似ている。

『運命って信じるか？』

　ふいにそう言った笙の声を思い出した。あの時笙は、まっすぐに繭を見つめていた。

『俺は、信じてる。
　少なくとも繭と出会って、そう思った』

　しかし、笙が見つめていたのは本当に繭だったのだろうか。繭を通して、そこに綾南の面影を追い求めていたのではないのだろうか。
　その時ドアがノックもなく開いた。驚いた繭が顔を上げると、そこには笙が立っていた。
　笙は驚く様子もなく繭をじっと見つめると、視線を落とし、アルバムを見つめている。慌てたのは繭の方だ。咄嗟にアルバムを閉じるものの、手が震えて思うように行かず、ついにはアルバムごと床に落としてしまった。アルバムは音を立てて、中の写真が溢れだす。どうしていいかわからなくなった繭の前で、笙は しゃがみこむとその写真を拾い上げた。

「どう…して？」

　あまり見る機会のない笙の旋毛を眺めながら、繭は立ち上がるとそう呟く。笙が顔を上げ、繭を見上げた瞬間、暗室から瓜生が顔を出した。

「なんか音がしたけど、大丈夫？」
　そして瓜生は写真を拾い上げたのが、笙であると気付くと、顔をパッと明るくさせた。
「水谷君！ここに来たってことは、ようやく写真を撮らせてもらえるってことかな？」
　そう言うと瓜生は慌てて自分の鞄の中からカメラを取り出し、まるで笙の気が変わらぬうちにとでもいうように、口早に話し続けた。
「思い立ったら吉日だ。撮ろう撮ろう。ああ、そこの壁をバックに立ってくれれば、あ、いいや、この際そこでもいいよ、うん」
　興奮気味の瓜生に、笙の冷めた声が一気に部室の温度を下げる。
「別に、通りかかっただけだから」
　そして笙は、落ちていた写真もアルバムも全て拾い上げると、繭の前にポンと置き、じっと繭を睨みつけた。声とは違う激しい感情を目の当たりにして、繭は戸惑っていた。逃げ出したいと思うが、それすらも許さないような笙の強い視線。
　しかしそうしていたのも僅かな時間で、笙は何も言わずに写真部の部室を出ていく。
「ああ！ちょっと、水谷君！」
　瓜生も追いかけようとしたが、振り返りもしない笙を見て、大きくため息をついた。
「せっかく撮らせてもらえると思ったのになあ…」
　そこでようやく茫然としている繭に気付き、瓜生は繭に話しかけた。
「水谷君にも、写真を撮らせてほしいって頼んでるんだけど、全然ＯＫもらえてないんだよね、実は。
　…片桐さん？どうかした？」
　話しかけられたことに気付いた繭は、はっと気付いて答える。
「あ、うん。何でもない」
　そうして慌ててアルバムを積み上げると、瓜生に押し返すようにして差し出した。
「ごめん、用事思い出したから」
「え？写真は？片桐さん？」
「ごめんなさい、また今度」
　瓜生が何か言っているのが聞こえたが、繭は無視して鞄を掴むと写真部の部室を出た。廊下に出てドアを閉めたところで、少し先に笙が立っているのが見え る。窓辺にもたれかかるようにして立っていた笙は、繭に気付くと、ゆっくりこっちに向かって歩いてきた。そして、一歩覗きこむようにして繭に顔を近づける と、耳元に突き刺すような声で言った。

「二度と綾南のことを調べたりするな」

　そして、笙は震える繭のことは置いたままに、通り過ぎていった。
　綾南…。
　繭には、その名前を読んだ時だけ、笙の声が柔らかくなったような気がした。