14運命

　翌朝、顔を洗いに洗面台に立った繭は、鏡に映った自分の表情を見て、小さく溜め息をついた。
　白い顔が更に血色が悪くなっている。おまけによく眠れなかったせいで、目の下にはくっきりとクマができている。
　顔を洗ってすっきりさせようにも、気持ちは変わらず胸の中に重苦しい綿を入れこまれたように息をするのも苦しい。

　もし、琴子の事故が誰かによるものだとしたら、
　もし、その犯人が笙なのだとしたら、
　それは私との約束の為だ。

　繭は初めて事の大きさに気付き、軽はずみな自分を責めた。
　復讐といっても軽い程度だと考えていた。
　例えば、帰ろうとして下駄箱を開けると靴がないとか、鞄に虫の死骸が入っていたとか、小学生のいたずら程度の、翌日になれば綺麗に忘れてしまっているようなこと。
　しかし、笙は違ったのだ。
　笙の復讐の相手である大樹にしても、今は仲良くなるようにしか命ぜられていないが、そのうちもっと大変なことを頼まれるのかもしれない。そう考えたところで、繭は身震いを覚えた。
　引くなら今しかない。今であれば、大樹にとって自分は通勤電車で乗り合わせ、少しの間勉強を教えることになった女子高生程度ですむ。
　一度そう考えたら、それが一番いい気がしてきた。
　笙には適当に誤魔化せばいい。騙す自信がないとか、なんとか言って。
　今日笙の家に行った時に、そう話そう。
　そう思うと繭の気持ちはいくらか和らいできた。ふぅと溜息をつき、ベッドに横たわる。
　今日で終わる。
　全てが。
　そう思うと、心の片隅がちくりと針を刺すように痛んだ。
　それはつまり、学校でも、学校以外でも、笙が他人になるということだ。
　何だか胸に小さな穴が空いたような虚無感を覚えたが、気付かなかったようにして繭は起き上った。


　放課後、繭は笙の家にいた。目の前に出されたカフェモカの香を嗅ぐと、繭の中の中心が揺らぐような気がした。カフェモカに欠かせないチョコレートは、この家においては繭専用である。甘いものが苦手な笙は、エスプレッソですら、砂糖を入れない。
　しかし、ここで怯むわけにはと、繭は目の前でゆっくりとブラックコーヒーを飲む笙に向かって口を開いた。

「私、やっぱり無理だと思う」

　遠くを見ていた笙の視線が真っ直ぐ繭へと向けられる。笙が何か言いだす前にと、繭は口早に思い付く限りの嘘の理由をあげる。
　嘘が苦手なのに、他人を、しかも大人を騙すことなんかできない、
　そもそも、大樹にとって自分はただの子供でしかなく、たらしこむようなことも無理。
　笙はじっと繭の話を聞いていたが、繭の言葉が尽きると、前かがみになり繭との距離を縮めて、じっと繭の目を見て口を開く。

「大丈夫。繭は俺の言う通りにしてればいいだけだから。不安に思う気持ちもわかる。でも、予想以上によくやってくれているよ」

　そして、安心しろとばかりに微笑みかけた。
　一瞬その笑顔に見とれていた繭だったが、今朝の決意を思い出し、口を開く。

「でも」

　しかしその声も、被せるように口を開いた笙の声にかき消されてしまう。

「俺のことを信じて」

　今までも言われた言葉ではあった。不安で揺らいでいた繭は、その言葉を聞くたびに、気持ちが落ちついていた。しかし、今回は違う。

「ごめんなさい」

　はっきりとした繭の言葉に、笙は黙り込んだ。
　わかってくれたということなのだろうか。
　…いや、そうじゃない。
　顔を上げるまでもなく、感じる視線と無言の圧力に、耐えきれなくなった繭は、もう一度ごめんなさいと言ってソファーを立つ。飲みかけのカフェモカは心残りだけれど、これ以上笙の近くにいたら、昨日の決意も、さっき告げた言葉も、何の意味もなくなってしまうと思った。
　鞄を掴んで出ていこうとする繭を、聞いたことのない笙の低い声が引き止めた。

「どうしても？」

　有無を言わせないような強い声に、繭はびくりとしたように足を止め、振り返らずに頷いた。

「俺は約束を守ったのに、繭は破るんだね」

　その声は氷の欠片となって繭の背中を準えた。

「確かに約束はしたけど、でも…あそこまでは頼んでない」
「あそこまで？」

　少し笙の声が和らいだ。
　それが繭には、自分と笙の違いのように思えた。

「命まで奪うようなことして欲しいなんて言ってない。
　家から一歩も出られないようにしろなんて言ってない。
　ねぇ琴子に何を言ったの？
　琴子を突き落としたのは笙なのに、どうして琴子はそう言わないの？」

　声が震えるのを勢いこんで隠し、繭は振り返った。
　笙はただ視線を彷徨わせたまま、体を硬直させている。自分に怒鳴り付けられるとは思っていなかったのだろうかと思われるその態度は繭を更に苛立たせた。

「とにかく、これ以上手伝えないから」

　繭はそう言って今度こそ部屋を出ていこうとした。だがその繭に、笙はこう話してきた。

「だったら繭のお母さんに話す」

　え？と思わず足を止めた繭に、畳み掛けるように笙は続けた。

「どんな気持ちがするかな。自分の娘が、友達を殺そうとしたなんて聞いたら。
　少なくとも地元の名士の娘には相応しくないと判断されて、君は一生お母さんとは暮らせないだろうね」

　どうして、と零れるように繭はつぶやく。
　どうしてそんなことまで、笙が知ってるの？
　親の離婚で転校することになったとは話した。本当は転校などしたくなかったと。
　でもそれだけだ。
　琴子や佑太と離れたくなかったとは話したが、母親と一緒に暮らしたかったのだとは、話した事はなかったのに。
　思わず笙に顔を向けると、まともに視線がぶつかり合った。笙は不貞腐れたように見えなくもない上目遣いで瞬きもせず、繭を見ていた。
　慌て繭は視線を反らす。
　このままではダメだと感じていた。
　このままでは、笙に飲み込まれてしまう、と。
　急いで逃げ出そうとした繭の手を笙が掴んで引き寄せる。思わずよろけて振り返る繭の目を笙がじっと捕えて話を続けた。

「運命って信じるか？」
「私が聞いてるのはそんなことじゃない」

　そう言って視線を逸らす繭を、笙は逃さない。
　思わず見返すと、笙はそんな繭をまっすぐに見つめて口を開く。
　笙の熱い息が、繭の髪を揺らした。

「俺は、信じてる。
　少なくとも繭と出会って、そう思った。
　今の俺には、繭が必要なんだよっ」

　最後には声を荒げて笙はそう言った。
　その言葉に繭は全ての思考を一瞬止める。
　今回の親の離婚で、繭は気付いていた。
　両親はどちらも自分を引き取りたくなかったのだということを。
　結果、父についてきたわけだけれど、その父も、見知らぬ土地で一人になった繭に気をかけることなく、仕事が忙しいと家にもなかなか帰ってこない。
　そして、唯一の拠り所だった佑太と琴子には、裏切られた。
　自分の居場所はもうどこにもないのだと、そう思っていた。
　だからこそ、笙に必要だと言われ、繭は昨日固く決心したことも、ついさっき笙に言われたことも忘れて答えていた。

「…わかった」

　よかったというように、笙が微笑む。
「繭は俺の言うとおりにさえ、動いてくれればいいから」
　そうして、繭を掴んでいた手を離すと、そのまま繭の髪に笙は触れた。