13疑惑

　ホームルームが終わり、鞄を持って廊下に出たところで、目の前を歩いてきた笙と目があった。
　一瞬どきりとしたのは繭だけのようで、笙は何事もなかったかのように通り過ぎていく。
　まるで、繭など目に入らないように。
　約束だとは分かっていたけど、それでも自分が道端に落ちている石にでもなった気持ちになって繭の心はちくりと痛んだ。

「片桐さん？」

　先を行く有希が足を止めた繭を呼ぶ。
「どうかした？」
「ううん」
　そう答えると繭は有希の隣に駆け寄った。
　今日の放課後、繭は有希の所属する美術部を見学することになっていた。一度誘われた時は、何となく濁していたが、見学してみるだけどうかと言われて、少しならと繭も受けた。
　話しかけられて以来、有希とは少しずつだが会話をするようになっていた。明るくて、面倒見のいい有希とは、一緒に居ると楽しい。しかし、親しげな有希にどこか琴子を重ねてしまい、繭はクラスメート以上には有希との距離を詰め切れずにいた。
　琴子。
　繭が唯一無二の親友だと思っていた相手。
　しかし、繭を裏切り、繭の恋人の佑太を奪った相手。
　そういえば、笙は琴子と佑太に何かしたのだろうか。
　種は蒔いたとは言っていたけれど、以来何も報告は受けてはいない。
　かといって繭の方も、進んだとは言えない状況だった。
　大樹には相変わらず週に一度勉強を教えてはもらうが、それだけの関係だ。
　このままでいいのかとも思うが、笙とはこの前大樹の話をして以来、微妙な距離感ができていた。
『話す時がきたら話す』
　笙はそう言ったが、人殺しだと言われた相手と、この先も変わらず笑顔で話せるのかと言われると不安ではある。
　だが、繭は、心のどこかで笙の言葉を疑っていた。
　もしかしたら、笙が勘違いをしているだけじゃないのか。
　笙の言う殺人は、例えば事故で、大樹に非はないのではないか、と。
　そう考えると、繭の心は自然とほっと安心できた。大樹がそんな人間とは到底思えないからだ。
　そして繭は自然と、大樹が殺したという相手が、笙の両親ではないかと考えた。復讐を考えるほど、笙にとって大切な存在なのだから、と。
　そう思った繭は、まずは笙の誤解を解くことから始めることを決めた。
　その為には、まず笙の両親について調べなければならない。

「どうだった？部活。皆マイペースにやってるでしょう？」
「そうね」
　作品は個人個人で作り上げる為なのか、繭が美術室に顔を出しても、中にいた生徒の多くは無反応で、真剣な表情のまま自分の作品に取り組んでいた。有希の 話によれば、週５日美術室は美術部の為に解放されるものの、作品は美術室で取り組まなければならないものでもなく、また出欠も取っているわけでもなかっ た。それぞれが目標としていること、例えばコンクールであるとか、学園祭での展示とかに向かって、各自が行動するのがモットーらしく、確かに有希の言う通 り、マイペースにこなしている。実際に有希も、今日は部活に出るのではなく、繭と一緒に帰ると言いだした。
「私の場合はね、コンクール向けの作品がもう出来上がってるからいいの」
　本当に帰ってもいいの？という繭に、有希は笑顔でそう言い返した。
　心のどこかがちくりちくりと針を刺しているのがわかるが、それでもそう尋ねる自分の声は弾んでいる。
　下校する生徒が多く乗り合っているバスの中で、隣り合わせで立ちながら、自分を熱心に美術部に誘う有希に、繭は笑いながら答えた。
「でも私、ちゃんと絵なんて描いたことないんだよ」
「大丈夫よ。授業で描いてるデッサンも上手じゃない」
「あれは…。モデルがいいから」
　そう答える繭に、ああそっかと有希は答える。
「水谷君モデル慣れしてるしね。そういえば水谷君も、中学までは美術部だったんだよ」
　え？と繭が驚くと、有希は笑顔で答えてくれた。
「私、中学も一緒なの。水谷君、最初バスケ部と掛け持ちだったんだけど、バスケの方が忙しくなったみたいで、途中で美術部はやめちゃったけどね。
　その頃はまだ背も低くて、女の子みたいだったのよ。今じゃ、想像できないけど」
　有希の話では、その間時折教師に頼まれて、笙はデッサンのモデルをしていたというのだ。
　女の子みたいと言われて、繭は笙の部屋で見たあの家族写真を思い出す。
「…水谷君のお母さんって、きっと綺麗な人なんでしょうね」
「そこまでは知らないなあ。確か、小学校四年生の時に交通事故で亡くなったって聞いたから。お父さんも一緒に」
「交通事故？」
　自分が思っていた通りの展開に、繭はそれでも少し驚いて答える。
「うん。この辺り、よく事故があるんだよね。何年か前も女子高生が車に引かれたりしてて。海が近くて何となく開放的になるのに、道は狭いし、カーブが多い でしょう？だからつい飛ばし過ぎちゃってってのが一番有力な話かな。他には、事故死した魂がそういった事故を呼び寄せるんだ、とかもいうけど」
　どうなんだろうね、と興味なさそうに話す有希に、繭は遠慮がちに尋ねた。
「じゃあ水谷君はその後一人で？」
　しかし有希は首を振る。
「もともとお祖母さんも一緒に暮らしてたって聞いたよ。兄弟はいないから、二人暮しなんじゃない？」
　確かにあの写真には、笙の祖母と思しき人物もいた。それに姉と思える人物もいたはずだ。
　しかし笙のマンションには姉はおろか祖母が一緒に住む様子はない。

　他にあの写真に写っていた人たちは誰なんだろう。

　駅前でバス停が止まり、二人はバスを降りた。
　考え込む繭に、駅に向かって歩き出しながら有希が尋ねた。
「片桐さんの家ってどっちだっけ？」
　繭が最寄り駅を答えると、有希とは方向が逆だった。改札に向かう有希に、
「今日はちょっと寄って行くところがあるから」
「うんわかった。それじゃ、また明日ね」
「うん」
　改札をくぐる有希の姿が消えていくと、繭は図書館へと向かった。
　両親の事故があったのが、小学校四年生の時と聞いて、繭はひたすらその時の新聞記事を探した。
　そして、閉館間近になってようやくその記事を見つけることができた。
　記事は地方版の、小さな記事だった。居眠り運転のトラックが、信号無視をして赤信号をそのまま直進。ちょうど右折してきた笙の両親の車と衝突した。運悪 く雨の日だったと言う。笙の両親の乗っていた車は大破し、両親は即死。トラックに乗っていた運転手も、その後病院に運ばれたものの、しばらくして息を引き 取った。そこに大樹に関わるような記事は書かれていなかった。
　やっぱりただの事故だった。
　その事実に、繭はほっと安心する。
　あの大樹の温かな笑顔が、嘘じゃなくてよかった、と。



　出来合いの料理を並べて、温めもせずに繭はひとり、それを食べる。
　気を紛らわすためにつけたテレビの音が、妙に空しくリビングに響いていた。仕事に忙しい父が帰ってくるのは日付が変わるような時間だ。
　ふいに笙もこうして冷たい料理を一人きりで食べているのだろうかと繭は思う。
　もっと家が近かったらよかったのに。
　そうすれば、一緒に御飯も食べれたのに。
　自転車を走らせれば三十分ほどの距離が、繭にはもどかしかった。そう考えているうちに、食事も終わり、後片付けをすると何もすることがなくなった。
　テレビも大して面白くない。
　笙に電話をかけてみようかと携帯を手にしたところで、家の電話が急に鳴った。珍しいと思いながら出ると、相手は意外な人だった。

「繭ちゃん？中川です、琴子の母親です」
「ああ…おばさん」
　琴子の家に上がった時に、何度か顔をあわせたことのある琴子の母だった。琴子に似て、明るく社交的な印象だった母親だが、電話越しの声は、少し神経質になっていた。挨拶もそこそこに、琴子の母親は緊迫した声で繭に尋ねた。

「繭ちゃん、最近も琴子と連絡とりあってる？」
「…いえ、すみません。最近忙しくて…」
　もっと鋭くその理由を問われたらどうしようかと思う前に、母親は大きくため息をついた。
「…そう」
　憔悴している様子に、繭は少し意地悪になって尋ねる。
「…どうかしたんですか？琴子」

　笙の言う種が、芽吹いているのかもしれない。
　母親のように憔悴している琴子の様子がわかるのであれば、と繭はそう尋ねた。
　しかし、深いため息の後に聞こえてきた言葉は、繭の背筋をぞくりとさせるものだった。

「…ビルから落ちたの、あの子」
　息をのむ繭に、母親は堰切ったように涙交じりの声で話しだした。
「警察が言うには自殺じゃないかって。そんな子じゃないのに。
　知ってるでしょう？繭ちゃんなら。あの子がどれほど明るい子かってことくらい。自殺なんかするような子じゃないわ。
　でもそれ以来、部屋にこもって出てこないのよ、あの子。私、どうしたらいいのかわからなくて…」
　ついには泣きだす母親に、繭は当たり障りのない言葉しか言えずにいた。

　一通り泣き終わったところで、謝りながらも琴子の母親は繭に言った。
「繭ちゃんも新しい暮らしで大変だと思うけど、時間ができたらあの子を見舞いに来てほしいの」
　そう言われると断ることもできずに、繭はわかりましたと電話を切る。
　切ってからふと、佑太はどうしているんだろうかと思った。
　恋人がビルから落ちて、部屋にこもっているのだとすれば、それを助けるのが佑太ではないのだろうか。
　それとも、と考えて繭は息をのむ。
　それとも、自殺の原因に佑太が絡んでる？
　繭は携帯を取り出すと、悩んだ挙句一度登録しただけの番号にかけた。
　かつてのクラスメートは、数コールで携帯に出た。
　情報通でもある彼女は、繭の琴子の怪我についての質問に、わざとらしいくらいオーバーな声で答えた。
「私もね、びっくりしたんだよ、あの琴子が自殺未遂なんてさ」
「…ほんとに自殺未遂なの？」
　強張った繭の声に、彼女は、まるで警察のように答える。
「琴子が落ちビルの屋上は、途中で立ち入り禁止って札が貼ってあって、それを越えないと屋上に行けないんだって。だから、琴子は自分の意志で屋上に向かっ たのは確かなの。それに、手すりの高さは肩くらいまであるから、自分で乗り越えないと屋上からは落ちないんだって。手すりが壊れた様子もないし、争った跡 もない、琴子は自分で手すりを越えたんじゃないかって話だよ。本人もそう言ってるって」
　そう…と答えると、彼女が興味津津という声色ですかさず聞いてきた。
「あれ？聞いてない？仲良かったから知ってるかと思ったんだけど」
　こういうとこが嫌だった。
　他人の不幸が蜜の味とでもいうような態度が。
　だから頼まれて携帯番号を取り交わしたものの、一度もかけることなくそのままにしておいたのだ。
　繭は、こっちの生活が忙しくてと曖昧に答えてから、それとなく尋ねた。
「琴子、大丈夫なの？」
　母親に聞きたかったが、驚きのあまり聞けなかったのだ。彼女は、まるで手帳に書いたメモでも読むようにすらすらと答えた。
「怪我は全治一カ月みたい。腕の骨を折ったんだけど、あとは軽傷だって。ビルの五階から飛び降りた割には軽くてラッキーだったよね。下にあった植木がいいクッションになったんだって。でもずっと学校は休んでる」
　そこまでいうと、彼女は電話なのに声をひそめて言った。
「でもさ。実は噂があって」
「噂？」
「誰かに突き落とされたんじゃないかって」
　そう答えると、彼女はしゃべる相手を見つけたことが楽しそうに話を続けた。
「実はね、通報したビルのオーナーがお母さんの知り合いらしくてさ。で、その人が言うには、琴子が落ちる少し前に言い争うような男女の声がしたんだって。
　おまけに、琴子が落ちた後、非常階段を猛スピードで誰かが降りていったらしいよ。
　救急車呼んだのも、男の人の声だったみたいだし。
　警察にも話したんだけど、証拠は何もないし、琴子側も訴えるわけでもないから、うやむやになってるみたい。琴子が落ちた後、走り去った男の影を見た人も他にいるみたいでさ」
　気付いたら携帯を落としていたらしい。
　自分の名前を呼ぶ声が遠くに聞こえて、繭はハッと気付くとベッドに転がっている携帯を取り上げた。
「…ごめん。ありがとう」
　そう言って電話を切ろうとしたところで、彼女のいやらしい声がまた聞こえてきた。
「そういえば片桐さんって内藤君と別れたんだね。原因ってやっぱり、内藤君の浮気なわけ？」
　言われて、無防備になっている繭の心はふと考える。
　浮気だったのだろうか。
　それとも、佑太は本気だったのだろうか。
　私と、琴子と。
　もしばれずにいたら、どちらとも付き合い続けていたのだろうか。
「そういうことは、佑太に聞いて」
　繭はそれだけ言うと、電話を切った。彼女が何か言っているのが聞こえてはいたが、答えるつもりはなかった。
　それに今の繭には、終わってしまった佑太とのことよりも、今さっき聞いたばかりの言葉が心に引っかかっていた。
　そのまま力なくすとんとベッドに座り込んだ繭の手から、携帯が落ちて床に転がった。
　しかし繭はそれを拾うことなく、ベッドの上で震える両手を口にあてた。
　…どうして、そんなこと。
　そんなことまで、頼んでないのに。

　思い描くのは、笙の口許に浮かんだ不敵な笑み。
『種は蒔いてある。少ししたらわかるよ』

　ずっと佑太のことが好きだった。
　繭と佑太が付き合い始める前から。
　琴子はそう言っていた。
　そして、繭がいなくなり、佑太は琴子の物になった。
　あれからひと月も立っていない今は、普通なら恋愛を謳歌している時だろう。

　そんな琴子がビルから飛び降りる理由なんてない。

　繭は震える手を祈るように握りしめながら思った。

　笙が、やった。
　私の、復讐として。

　背中にまるで冷たい水をかけ流されたような悪寒がした。
　その時床から携帯が震える音がした。携帯は少しして切れる。
　メールが来たのだろう。
　おそるおそる近づいて開くと、そこには笙からのメールが来ていた。

『明日の放課後、家で待ってる』