12理由

　大樹の勉強会は、その後も週末にファミリーレストランで行われた。
　最初は繭を護衛するようにやってきた笙も、安心したのか、他に用事があるのか、今日は繭一人で向かうように言われた。
　人見知りする繭も、何度か大樹と会って話すうちに徐々に打ち解けていった。笙が怨みを抱くくらいだから、見た目とは違いどこか安心できない人柄なのかと少し身構えていたけれど、最近ではそんなこともなくない。
　今日などは、いざ帰ろうとした時に雨が降り出してしまい、傘を持たない繭の為に、車で来ていた大樹が家まで送ると言いだした。傘を買えばいいという繭 に、それじゃもったいないし、用事があって繭の家はその通り道だからと言われ、半ば強引に繭は大樹の車に乗せられた。国産車ではあるが、綺麗に掃除された 車内に、丁寧な運転は心地よく、ますます繭の中で大樹の評価は高くなった。
　車に乗り、雨の匂いが消えると、ふいに華やいだ香が繭の鼻を掠める。いつもの大樹の匂いとも違うその匂いは、雨のせいもあるのか車中に広がっていた。

「匂う？」
　くんくんと鼻を動かす繭を見て、大樹がそう言う。繭は正直に答えた。
「ええ、何だかとても華やいだ匂い」
　すると大樹はくすりと笑って、後部座席を指さした。
「正解」
　置かれていたのは、白いユリの花束だ。綺麗に包装されていて、一目で贈り物とわかる。
「ごめんなさい、これからデートなんですね」
　思わずそう言うと、大樹はふっと息を漏らして微笑んだ。
「繭ちゃんとのデートはもう終わったよ。でも残念ながらあの花束は繭ちゃんへの贈り物じゃないんだ。まあ、相手は女性だけどね。でも、もう二度と会えない人だ」
「二度と会えない？」
　しかし大樹はそれ以上は答えずにしばらく運転を続けた。繭もそれ以上聞くことはできず、車は沈黙の中しばらく走り続けて、大きな交差点の近くで止まった。
「ちょっと待っててくれる？」
　大樹はそれだけ言うと、傘も差さずに花束を持って道に飛び出していく。車の中にはまだ百合の強い香が残っている。大樹は繭の見つめる前で、交差点の信号機の下にその花束を置くと、しゃがみこみ合掌する。大粒の雨が、真剣な表情の大樹の髪に、肩に降り注いでいく。
　一分ほど、大樹はそうしていたが、立ち上がると繭の待つ車まで駆け足でやってきた。
「結構降ってきたね」
　そういう大樹に、繭は持っていたハンカチを思わず差し出す。
「使ってください。あまり役には立たないかもしれないけど」
　大樹はありがとうと答え、素直にハンカチを受け取った。
「誰か知り合いの人が、ここで亡くなったんですか？」
　ぽつりと繭が尋ねると、大樹は少し間を置いて、ああと答える。
「もしかして…恋人だった人とか？」
　大事な休日に勉強会をすることに、繭は気になって恋人が怒らないのか聞いてみたことがある。すると大樹は、恋人はいないと答えた。笙は大樹は女にだらしがないと言っていたけれど、そういう様子も、少なくとも繭と会っている間には全くと言っていいほど見せない。
　それでも大樹ほどの人に恋人がいないことが不思議な繭はそう尋ねた。事故で死んだ恋人を想い、大樹が未だ新しい恋に踏み出せないのだとしたら、その理由に相応しいような気がした。しかし、大樹はあっさりと答える。
「いいや。残念ながら違うよ」
　しかしそう言って微笑む横顔には、一抹の悲しみが垣間見える。
「それじゃあ―」
「じゃあ、出発しようか。ごめんね、寄り道して」
　繭の言葉を遮り、大樹はそう言ってエンジンをかける。これ以上、この話はしたくはないのだということがわかり、繭は口を閉ざした。
　そして無言のまま、車は繭の住むマンションに着く。
「それじゃあ、また」
　繭をマンションのエントランスまで送り届け、さよなら代わりにブレーキランプを数回点灯させる。
　どうやら最近仕事が忙しいらしく、勉強を教えている最中も、何度か欠伸を噛み殺していたが、繭がそれに気付くと大樹はごめんと素直に謝った。そうしてさっきも、知人の事故現場に花を手向ける。
　手を振りながら、その優しさに繭は戸惑いを覚える。
　大樹はいったい笙に何をしたというのだろうか。
　もやもやしたものが、繭の中に渦巻き始めた。
　胸に抱いた疑問が膨らむ一方だった繭は、結局その後に部屋に戻って傘を手にすると、その足で笙のマンションへと向かった。
　エントランスでチャイムを鳴らしたが反応がなく、もしかして部屋にいないのかもと、家に帰ろうと思った繭の前に、笙はいつもとは違う格好で現れた。黒い細身のスーツに、白いシャツ。ネクタイは外して、ボタンは二つほど開けたままの笙は、繭を見ると驚いた表情になった。
「…何かあったのか？」
　そう言って肩についた雨を払ういつもより大人っぽい笙にどきりとしながら、繭はちょっと聞きたいことがあって、とだけ答えた。

　部屋に入って、ラフな格好に着替えてきた笙は、いつものように繭と自分のコーヒーを用意したところで、笙が「聞きたいことって？」と聞いた。
　繭は素直に尋ねた。
「渡来さんと笙って何があったの？」
　笙の周りの空気が固まるのがわかり、繭は僅かに息をのんだ。
　慌てて言い直すように繭は言葉を紡ぐ。
「今日、渡来さんと会う日だったでしょう。相変わらず丁寧で、優しいし…悪い人にも思えなくて。
　もしかして、笙の勘違いってこともあるかも―」
　ガシャンと見事なまでの破裂音がリビングに響く。慌てて繭が立ち上がりキッチンの方を覗くと、シンクに両手を置き、項垂れている笙がいる。どうやら腕を置いた時にカップが揺れたらしい。傾いたカップから、こぼれたコーヒーが、笙の手を濡らしていた。
「火傷してない？大丈夫？」
　はっとしたように繭は笙に駆け寄ると、その手を取ってすぐに流水を当てる。それでも掌が赤く腫れていた。
　火傷には何を塗ればいいのかと思う繭の耳元に、笙の低音が響く。
「俺の、勘違い？」
「かもしれないって思っただけ―」
　はっきりとした笙の言葉に、繭は戸惑い、声を詰まらせると、笙が震えるようにして言った。
「あいつは人殺しだ」
「ひと…ごろし？」
　思いがけず物騒な言葉に、繭は再び声を詰まらせる。
　どういうことなの？
　しかしそう思った繭の気持ちを読み取ってか、ばっさりと切り捨てるように笙は言った。
「話せる時がきたら、話す」
　そうして立ち上がると、窓辺に立ち、雨の降り続く空を眺めながら笙は今度は力強い言葉になって続けた。
「とにかく、あいつの見せかけの優しさに騙されるな」