11逢瀬

　渡会大樹との初めての勉強会は次の土曜日になった。
　勉強会と言っても、喫茶店でお茶を飲みながら勉強を教えてもらうだけのことで、大樹からすれば単なる暇潰しなのかもしれなかった。

『最初はそれでいい。下手に女の部分見せて近づいたら、逆に疑われるかもしれない。それに変な期待を持たせることもない』

　笙はそう繭に説明した。

　当日、繭は笙に指定された服を着て、打合せのため笙の家にやってきた。半袖の白いブラウスにチェックのスカート。これじゃ制服と変わりないという繭に、 笙はだからいいんだと答えた。そして、繭の肩にかかっていた髪を手にとって、満足そうに微笑む。何を考えているのかわからないくせに、ふとした瞬間に素顔が浮かび上がる。どきりとした繭に気付かないまま、笙はそれじゃ行こうと言った。

　笙は水色と白のストラップのシャツに、ベージュのチノパンを履いていた。黄色の靴がかわいいと思いながら、繭は笙の後ろを歩く。通りにでると、そんな笙 の姿に、何人かの女性が振り返るのがわかった。しかし笙はそれを気にすることなく颯爽と歩いている。迷いのない足取りを繭はただ追従していくだけだ。

　笙は何処に向かっていくんだろう。
　
　涼しくなり始めた風が、笙の髪を揺らしていた。
　待ち合わせのファミレスが見えてくると、笙は立ち止まり、自分が先に行っているから、少し遅れて入るよう言い残すと、さっさと店の中に姿を消した。
　待ち合わせの時間までまだ少し早い。手持ちぶさたになった繭は、すぐ側にあった本屋に入った。雑誌でも立ち読みしようかと考えたところで繭はふと文庫本のコーナーへと向かうと、棚から一冊の本を取り出した。笙が家族写真を挟んでいた本だ。
　繭はそれを持ち、レジへと向かった。買ったばかりの本を鞄にいれていると、笙からメールが来て、大樹が現れたことを教えてくれた。


「ごめんなさい、せっかくのお休みに」
　繭がそういうと、大樹は注文したアイスコーヒーを飲みながら、
「休みと言っても、家でゴロゴロしてるだけだから、今日は有意義な1日だよ」と柔らかな笑顔を浮かべて答えた。
　受け答えもしっかりしていて、繭に気を遣わせないように配慮しているのがわかる。
　いい人だと、繭は素直に思った。そして、この人と笙の間に何があったのだろうか、とも。

「それで、わからないところってあるのかな」

　大樹の言葉に繭ははっと気付く。そして鞄に詰め込んできた教科書を広げた。
　大樹の教え方はとても解りやすいものだった。丁寧な教え方に、学校の教師よりよっぽど教師に向いているのではないかと思うほどだ。
　ノートにペンを走らせながら、ふいに大樹からの視線を感じる。しかしそれはまとわりつくようないやらしいものではない。言うなれば、幼い娘を見守る父親のそれに近い。
　ふと、繭は好奇心を起こし、そのままさらりと聞いた。

「どうかしましたか？」
　ん？という大樹の返事を待つことなく、繭は顔を上げて大樹の顔をのぞく。
「さっきからずっと、見てるから」
　ふいをうたれた大樹の表情に僅かな悲しみがにじんでいたが、繭のその言葉に大樹は柔らかな笑みを浮かべ直して答えた。
「繭ちゃんと何処かであったことがあるような気がしてね」
　くすりと笑う大樹に比べ、いきなりの口説きに戸惑ったのは繭の方だった。
　赤らめた顔を慌てて俯かせる。
「そうやっていつもナンパしてるんですか」
　そう返すのが精一杯だった。
　すると大樹は声を上げて笑った。まるでクラスの男子みたいに無防備で、それが素の大樹かと思うとますます繭は顔を赤らめた。
　そんな繭に気付き、ごめんごめんと大樹は、アイスコーヒーを飲む。
　そして思い出したようにぽつりと、「知り合いに似てるかなって思って」と言われた。
　繭は笙と大樹を結ぶ何かを掴みたくて大樹の話をもう少し聞きたいと思ったのだが、大樹に「休憩は終わり、さぁ問題に戻って」といわれ、何も言えなくなってしまった。


　支払いは流石に社会人の大樹が払った。繭も自分のぶんは出すと言ったが、たいした額ではないからとやんわり断られた。
　店を出るとき、店内を走り回っていた子供が繭にぶつかり、鞄の中身が散らばる。その中に、返すタイミングを失ってずっと持ち歩いてしまっている笙の生徒 手帳を見つけて、繭は慌ててそれを拾い上げて、すぐさま鞄に入れた。他にもさっき教えてもらっていた教科書や文房具、携帯も拾い上げる中で、ふと目の前で 大樹が拾い上げたものを手に、動かないでいるのが見えた。手にしているのは、さっき繭が買った本だ。
　あの、と声をかけると、大樹ははっと気付いたように顔を上げて、自分を見つめている繭に視線を向けた。
　一瞬、その視線が揺らいだような気がした。
「…好きなの？この本」
　そう問われて、繭は少し悩んでから答えた。
「人に勧められて」
　笙は決して繭にこの本を勧めたわけではない。
　ただ、大切に思っている本だというのはわかった。
　笙にとって大切な本だから、それを自分が勧められていたら、という期待を込めて、その時初めて大樹に罪悪感を覚えた繭に、大樹は、そう、とだけ答えた。

「それじゃあ、また」
　大樹は駅まで繭を送り届けると、そう言い残して、去っていった。来週の土曜日も同じ時間に同じファミレスで会う約束をして、大樹は消えていく。
　これでよかったんだろうかと、駅のホームに立っていると、メールが入った。
『家で待ってる』
　送り主はレイン。
　結局、笙と大樹の関係は分からずじまいだ。
　繭は小さくため息をつくと、やってきた電車に乗り込んだ。