石橋の説得がきいたらしく、サッカー部は無事文化祭で『王子様カフェ』を開店できることになった。
　その準備は、理香を中心として行われ、割り振られた教室は、最早パーティールームと化していた。
　床には真紅の絨毯が敷かれ、窓にはビロードのカーテンが日差しを遮り、中央には大きなシャンデリアが飾られている。他の照明はわざと暗くして、代わりにテーブルにはろうそくが用意されている。
　すごなあ。
　シャンデリアを見上げていた成は、ふとその天井に、何やら文字が書かれていることに気づいた。
「…矢橋硝子店？」
　読み上げたところで、成は首を傾げる。
　何だろう。
　そう思いながらも、先ほど理香から手渡されたネームプレートをつけようとして、ふと成は気づく。
「…亀井洋品店？それに、ひまわりクリーニング？小池。何これ」
　プレートの名前の下には、お店の名前が二つ並んでいたのだ。
「それ？スポンサーの名前。
　あーはがさないでよ、それで色々格安で仕入れさせてもらったんだから。
　おかげで、少ない資金でここまでそろえられたんだからね」
　よく見れば、用意されているコップにも、荒井屋の文字がでかでかと貼られている。
　確かに立派だとは思ったけど、そういうことなのか。
　そのコップをまじまじと見つめる成を無視して、理香は廊下に出ようとしたところで、カーテンに隠れるようにしている萌子に声をかけられた。
「理香、あの、これちょっと、スカート丈短いんじゃない？」
　萌子は白いシャツに黒いスカート、フリルのついた白いエプロン姿だが、スカートの裾を気にして、身を縮めている。
　が、理香が想像した通り、似あっていた。
「しょうがないじゃない。メイドっぽいのがこれしかなかったんだし。
　それによく似合ってる、萌子。かわいいかわいい」
「でも…いいじゃない。私たち、制服でも―」
「ダメッ。ここに来たら、誰もがお姫様になれるのよ。制服着てる人が歩いてたら、興ざめじゃない」
「だけど…」
　萌子を無視して歩きだした理香を追いかけようとしたところで、萌子は思わず足を止めた。
　目の前には、着替えを終えて、目を見開いている朔哉がいたのだ。
　朔哉は口をパクパクとさせて、小さく呟いた。
「萌子…、その格好」
「ほら理香っ」
　困ったようにそう叫ぶ萌子を無視して、理香は両手を組み、うっとりとした表情を浮かべて朔哉に走り寄った。
「朔哉先輩っ、素敵ですっ。白いスーツ似合いますねっ。あと胸には赤いバラ、つけてくださいねっ」
「ああ…。それよりも―」
　萌子のあの格好は？と聞こうとしたところで、朔哉の後ろから篤志がひょいと顔をのぞかせると、おぉと声を上げた。
「萌子、似合うじゃん」
「篤志っ、冗談言わないでよ」
　睨みつける萌子を無視して、篤志は理香に続いて廊下へと出ていく。
「朔哉さんも来てくださいっ」
「ああ、わかった」
　ため息をつこうとした萌子を、そう答えながらも朔哉は呼び止めた。
「萌子」
「何？朔哉さん」
「あまり人前に出るな」
「え」
　しかし萌子は、各テーブルの給仕をすることなのだ。
　出るなと言われても、出ない方が難しい。
　困ったなあ。
　再び萌子がため息をつこうとした時、廊下の方から理香の大きな声が聞こえてきた。
「ほらほらみんな準備してーっ、もうすぐ開店だよっ」



　調理室には、自称も含めて料理ができると言う部員たちがそろっていた。
　その取りまとめ役を言い渡された厳己は、柔らかい皮にクリームを入れる作業をする部員たちの中央で緊張した面持ちの美都に話しかける。
「椎名、もうすぐ開店らしいけど準備は大丈夫？」
「うん。一応昨日の夜準備してきたから。あとは、シュークリームの皮に、クリーム入れるだけだし―」
「うわっ…」
　突然叫び声がして、厳己は慌てて声のする方向を見る。
「どうした？北内」
　和美が、手に持っていたクリームを机の上にぶちまけた状態で、茫然としている。どうやら皮にクリームを入れすぎて、破裂してしまったようだ。
　顔にもクリームをつけながらも次第に強張るその表情を見て、慌てて美都が口を挟んだ。
「シュークリームってね、ここが一番難しいのよ。
　大丈夫、余分に持ってきてるし。ここでも作るつもりだし―」
　しかしその美都の柔らかい声を遮って、和美がどなり声を上げた。
「あーっ、畜生！
　何でこんなに面倒くさいんだよっ」
　途端に、調理室の空気が張りつめたものになる。
　慌てて厳己が和美に言った。
「あの…北内…。もしあれだったら、王子役に戻ってもいいよ。北内だってもとはそうなんだし。理香ちゃんには僕から―」
　本当は、癇癪持ちの和美に接客は無理だと理香が当番を変えたのだが、それが和美の気持ちを損なっているのなら、接客にするしかないとその時の厳己は考えながら必死でそう言った。
　しかし、和美は低く、
「嫌だ」
と一言だけ答えた。
　とはいえ、丁寧にやらなきゃならない作業場を、余計な緊張感で埋めるわけにはいかないし、それにどう見ても不器用な和美にこう言った細かい作業は向いていない。
　厳己は、無理やり笑顔を作って答えた。
「だ、だよねぇ。だから変わってもらったんだもんね。
　じゃ、一馬の方手伝ってくれても、いいよ。あっちも人足りてないらしいし。
　ね、椎名」
「う、うん…」
　美都も頷きなら、厳己に向ってごめんと訴えている。
　北内って、椎名がいないと絶対やっていけなそう。
　厳己がそんなことを考えている前で、しかし和美ははっきりと答えた。
「いいや、これをやる」
「へ？」
「畜生、こんな菓子なんかに負けてたまるかってんだよっ」
　そう言って新たな皮を手にする和美を見つめ、厳己はふうとため息をついた。



　開店まであと五分。
　店の前に立った理香は、ふと自分の隣に立った由太が、いつものように制服でいることに気づいた。
「ちょっと由太チャン…どうして着替えてないの？
　Aチームの選手は、原則王子役なんだから。ちゃんとスーツに着替えてもらわないと困るよ」
「断る」
　はっきりとそう答える由太に、緊張感がピークに達していた理香は思わず怒鳴り返した。
「分かってるの？サッカー部として由々しき事態なんだから、仕事のえり好みされちゃ困るの！」
「下らん」
「なんですってぇ！」
「ちょっと待った、落ち着け、理香も由太も」
　慌てて篤志が仲介に入った。
「でもっ」
　そういう理香に、篤志は由太に聞こえないような小声で話しかける。
「由太が頑固なの知ってるだろ？それに、無愛想なホストがいても客が気分を壊すだけだし。他の仕事、割り当ててやれよ」
　口を尖らせた理香だったが、考えてみるとそれももっともな意見だった。
「…仕方ないなあ。じゃ、由太チャンは田島先輩と一緒にここでにらみを利かせて。変な客が来たら、男子禁制だって言って断ってくれればいいから。
　基本的に、男子だけのお客様は入れちゃダメ。でも、女の子連れてる人だったら、入れていい。
　あ、なるべく凄み効かせててね」
「…凄味？」
　ギロリと理香を見返す由太に、理香はにこりと笑って答えた。
「大丈夫。いつもの不機嫌そうな由太チャンならそのままで十分だから。
　じゃ、よろしくー」



「ようこそ、我が城へ。お姫様」
　そう言って恭しく跪くと、ソファーに座っていた女子生徒が嬉しそうに声を上げた。
「やだーっ、司ってば似合うじゃん。ホスト」
　にやりと司は笑うと、そのままその女子生徒の隣に座った。
　彼女は、最近司がよく遊ぶ女だった。
　お嬢様らしく、お金も持ってるようなので、事前に司は誘っておいたのだ。
　その肩に手をまわして、司は長く伸びた髪をわざとらしくかきあげる。
「まあな。サッカー引退したら、バイトでホストでもやろうか」
「そうしたら、あたし毎日通うわ」
　顔を近づけ、見つめあったところで、甲高い萌子の声が司の耳に響く。
「大槻先輩っ」
「何だよ、メイド１」
　その言い方に萌子はむっとしながらも、司の隣で楽しそうにしている女子生徒を見て、ぐっと堪えて囁いた。
「…ご指名、入ってます」
　すると大げさに司はため息をついて立ち上がった。
「了解。悪い、ちょっと席外す。戻ってくるまで何か頼んで待ってろよ」



　知らない人と接することは、別に苦ではなかった。
　だが朔哉としては、目の前の客よりも、萌子のことが気になって仕方なかった。
　あんな格好するなんて、聞いてないぞ。小池。
　何かにつけて、萌子を呼ぼうとはするものの、理香の策略と朔哉自身の忙しさもあって、なかなかできない。
　ようやく客が帰ると言うので、ほっとしていた朔哉だったが、立ち上がった途端にこう言われた。　
「あのっ、写真を一緒に撮ってもらってもいいですか？」
「ああ」
　そういえば、そんなサービスもやるとか言ってたな。
　写真代と撮影代込みで、料金はちゃんともらうという。
　小池は、本当にいい商売人だな。
　そんなことを言いながら、理香の構えるレンズを見ていると、あの、と隣に立つ客が朔哉に声をかけてきた。
「…お願いしたら、お姫様だっこしてもらえるって聞いたんですけど…」
「へ？」
　そんな話は、聞いてないぞ。
　しかし、カメラを持った理香は、にっこりと微笑んでいる。
　…小池。
　騙したな。
「はーい、じゃ、撮りますよー。朔哉先輩、しっかり持ち上げてっ。
　ハイッ、チーズ」


　ようやく昼の時間を迎え、部員達は交替で休憩に入るようになっていた。
　だが、いわば店長の立場である理香に、休憩などない。
　電卓をたたいて、ふむふむと頷きながら理香は、隣にいる篤志に向って言った。
「今のところＮＯ１は、大槻先輩ね。で、次が朔哉先輩。予想通りっちゃそうだけど。…あれ？そういえば、右京君は？」
　理香の読みでは、トップスリーに入ると思われていた右京の売り上げがゼロとあって、思わず篤志に尋ねた。
「さあ。着替えてる時は居たけど、そういやそれから見てないなあ」
「まさか、逃げ出した？」
　理香と篤志が顔を見合わせたところで、明るい声が廊下に響いた。
「こんにちわーっ」
「環さん、あっ右京君」
　廊下には、ご機嫌そうな篤志の姉・環と、不機嫌そうに環に腕を掴まれている右京がいる。
　環は笑顔のままに、無理やり右京の腕に自分の腕を絡めて言う。
「学校出て行こうとしてたから、連れてきた。こういうのって、同伴出勤っつーの？」


　ランチの時間に入ったというのに、王子様カフェは相変わらずの盛況ぶりだった。
　その中で、細谷俊平は恋人の宮尾真琴とまったりと珈琲を飲んでいた。
「結構うまいな、このシュークリーム。細谷も食べる？」
「いや、俺もうおなかいっぱい…」
　実のところ、真琴が来る前に、俊平は何人かの女子生徒の相手をしていた。
　手持無沙汰そうに見えるのか、彼女たちは俊平にもシュークリームを勧め、午前中だけでも五個は食べていた。甘いものが得意ではない俊平としては、これ以上はもう無理だった。
　真琴はシュークリームを二個頬張ると、一口珈琲を飲んだ後にゆっくりと店内を見回した。
「でも、結構繁盛してるじゃん。これなら、修理代稼げるんだろ」
「だといいんだけど。それにしても、宮尾はどうして黒いスーツ着てるわけ？サングラスも持って」
　迎える側は王子様役とあって、理香が用意したのは白いスーツばかりだった。その中で、女子としては長身で、髪も短くボーイッシュな真琴の黒いスーツはよく映えた。
「ああ。衣装だよ。あと一時間したら、クラスの出し物が舞台で始まるから。ギャングの役なんだ。細谷、来るんだろ？」
　どうして女子がギャングをとは思うものの、そういう役が真琴にはよく似合う。
　実際女子生徒からの人気も、彼氏の俊平を上回るもので、中等部では朔哉を抑えて一位だという噂もあるくらいだ。
「もちろん」
　二人が笑い合っていると、ソファの後ろから女子生徒の悲鳴があがった。
「キャッ」
　慌てて二人は後ろを覗き込む。
　一年の青山望と、女子生徒が床に転がっていた。
「大丈夫か？」
「あっ、はいっ、すみませんっ」
　最後のすみませんは、俊平ではなく女子生徒に向けられたものだった。
　理香の策略でもって、お客がオーダーをした場合、お姫様だっこをして写真を撮らなければならないことになっていた。どうやらその時に、まだ成長途中の望は自分より体重のある女子生徒を抱えきれなかったらしい。
「おいそこの一年。こういう時は、しっかり支えてやらないといけないんだ」
　真琴にまでそう言われて、望は肩をすくめた。
「スミマセン…」
　望は立ち上がった女子生徒を、再び抱えあげようとしたが、女子生徒はそれを無視して真琴に話しかけてきた。
「あのっ」
　思わず真琴と俊平は顔を見合わせる。女子生徒は真琴に向って話しかけた。
「あの、一緒に写真とってもらってもいいですか？」
「え？私？」
　真琴の声に、女子生徒は大きく頷いた。
「はい。お姫様抱っこでお願いします」


　紗依は少ない休み時間に、廊下を歩いていたところで、篤志に呼び止められた。
「田波先生っ、お願いだから入ってくださいよっ」
　見ればその後ろには、王子様カフェと看板に書いてある。
　これが、噂の…。
　紗依はそう思いながらも、ひらひらと手を振った。
「え？でも、私ホストクラブなんて…」
「別に変なことしませんて。ただ、お茶飲んでくれればいいだけですからっ、ねっ。絶品のシュークリームもありますし！」
　甘いものに目がない紗依は、シュークリームと聞いて気持ちが変わった。
　そもそもは、車の修理代を稼ぐためだっていうし。
　私が食べることで、少しでもサッカー部の為になるんだったら…。
「…じゃあ、ちょっとだけなら」
「やったぁ」
　篤志は紗依の腕を取ると、そのまま店の中に押し込んだ。
「で、指名は誰にします？今なら誰でも選びたい放題っ」
　すると現れた紗依を見て、店の端でぶらついていた王子役の部員たちが色めきだった。
「はいっ。俺、立候補っ」
「俺もっ」
「お姫様抱っこなら、任せてくださいっ」
　何人もの手があがり、紗依は戸惑ったが、ふいに店の奥で、壁にもたれながらこちらの様子をうかがっている右京に気づいた。目が合うと、何もなかったかのように右京は視線をそらした。
「…じゃあ、藤原君で」
「さすが先生。お目が高い！おい、右京っ」
　その声を聞いて、手を上げた部員達はブツブツ言いながらそれぞれ元いた場所に戻っていった。
　紗依が用意されたソファに座ると、篤志はメニューを置いて笑顔を浮かべた。　
「じゃ、ごゆっくりっ」
　紗依の隣には右京が座る。何もしゃべろうとしない右京に、紗依は気を悪くしたのかと思い謝った。
「ごめんなさい。ちょっと…落ち着きたかったから」
　ただでさえ文化祭ということもあって、今日は朝から忙しない。この上、元気いっぱいにおしゃべりする男子生徒の相手をすることは、紗依の望むことではなかったのだ。
　でも、藤原君だって一人でいたかったのかもしれない。
　こんなおばさんの相手だって、嫌だったかもしれない。
　何も答えない右京に、紗依は俯き、更に自分を責めていると、ふいにメニューが視界に入った。
「何、飲みます？」
　顔をあげると、右京がメニューを差し出していた。
　気にするなってこと、かしら。
　紗依は、大きく息を吸い込むと、メニューに目をはしらせて答えた。
「それじゃ、ロイヤルミルクティーと、シュークリームひとつ、お願いします」


　
　その頃、入口では押し問答が始まっていた。
「勘弁してくださいよ。ヤナギさん」
　田島に代わってそう答えるのは、篤志だ。
　今年の春に凪高を卒業した柳田が、一人でやってきたのだ。
「俺はＯＢだぞ、入れないっていうのはどういうことだ？」
「男子禁制なんです。すみません」
　由太があっさりと答えるが、その紋切り型の口調が、更に柳田の顔を紅潮させる。
　やばいと、篤志は慌てて付け加えた。
「あ、ただし、女子を連れてたら、入れますから。彼女とか連れてきてないんですか？」
「いないっ」
　怒鳴り返され、篤志が言葉を詰まらせると、後ろにやってきていた新田樹生が口を挟んだ。
「じゃあ、その辺りの子、ナンパでもして―」
　その言葉に、とうとう柳田はブチ切れた。
「お前俺をおちょくってるのかっ。おい日比野っ。
　教育がなっとらんぞっ、何やってるんだっっ」
「すみませんっ」
　仕方なく篤志は頭を下げる。それを見て、いくらか柳田の気持ちは落ち着いたようだった。
「わかればいい。それに、連れなら中にいるっっ」
「…彼女ですか？」
　篤志の表情に好奇心が垣間見えて柳田は怒鳴り返した。
「妹だ！」
　慌てて篤志は呆れ顔の由太の後ろに隠れる。
　すると、懲りない樹生が柳田に聞こえるように呟いた。
「え、妹いるんだ。かわいそう」
「かわいそうってどういう意味だ、この一年坊主っ。
　だいたいホストクラブなんてチャラチャラした出し物決めた小池に、俺はひと言言ってやるっ」
「柳田さん―」
　止める由太を振り切ってドアを開けた柳田の目に、最初に飛び込んできたのはミニスカート姿の萌子だった。
「さっ沢木？！」
「や、柳田先輩っ」
　驚いたのはむしろ萌子の方だ。柳田は萌子を指差すと、声を裏返らせながら怒鳴った。
「おっお前っ、何なんだ、その格好はっ」
「えーっと、一応メイド役なので、それなりの格好を…」
「それにしてはスカートの丈が短かすぎるっっ」


　
　入口の騒動に気づくことなく、司は順調に客足を伸ばしていた。
　ほんと、天職かもしれねぇな。
　思わせぶりな態度で、客の注文を煽るのは、司にとって日常の恋愛ゲームと一緒だ。
　このまま絶対ナンバーワンになってやる。
　強い決意とともに、呼ばれたテーブルに顔を出した司だったが、客の顔を見た途端、営業スマイルが壊れていくのを感じた。
「ようこそ、お姫さ…ま。
　悪ぃ、席、間違えた」
　くるりと背を向けたところで、誰かの手が司のジャケットを掴んだ。
「どこいくの、ツッキー先輩。間違ってないよ」
　司は頭を抱えると、いら立った様子で答える。
「だからその呼び方やめろよ、柳田妹」
　司にそう言われ、柳田岩雄の妹・久仁子は体をくねらせて言う。司を追って、凪高を受験したものの、運よく（？）試験には受からず、別の高校に今は通っていた。
「いやだなあ、久仁子って呼んで♪」
　その様子に、通りかかった理香が思わず足を止める。
「あれ？もしかして、ヤナギさんの―」
「黙れっての。余計に騒ぐんじゃねぇぞ」
　そう怒鳴りつける司だったが、ジャケットをしっかり掴まれて、身動きができない。
「ねぇ、ツッキー先輩って―」
「だから黙れってばっ」
　頭を抱えて司が思わず振り返りそう叫ぶと、背後から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「おいっ、大槻っ」
　顔を向けると、真っ赤な顔をした柳田が思ったとおり立っている。
　ジーザス…。
　司はジャケットをするりと脱いでようやく久仁子から解放されると、振り返って言った。
「ああいいとことにきた。ほら、兄貴が来たから俺はこのあたりで―」
「おい待て、大槻っ。お前人の妹をたぶらかしおって、この野郎」
　そそくさと消えようとした司だったが、柳田がその肩をガシっと掴むと、そのまま首元を縛り上げる。
　勘弁してくれ、っつーの。
　司は小さくため息をついて、両手をあげ、お手上げだと意思表示をした。　
「冗談キツイっすよ。誰もたぶらかしてなんかないし。っつーかむしろ迷惑だし」
　司は久仁子を睨んだものの、むしろ久仁子は司にウインクを送る。
「もう、ツッキー先輩ってば。恥ずかしがらなくてもいいのに。他人じゃないでしょ、あたしたち♪」
　久仁子のこの一言で、柳田の顔はこれ以上ないくらいに怒りで赤くなった。
「何だとっ、まっ、まさか久仁子っ、お前もうっ―」
「嘘言うなよ、おいっ」
　冗談じゃないと言おうとした司だったが、目の前の柳田に首元を縛り上げられたまま、ドンと押され、背中が壁に大きな音を立ててぶつかる。
「大槻ーっ」
　柳田はそう叫びながら大きく右手を振り上げた。
　周囲の客からは小さな悲鳴すら上がる。
「うわっ、ちょっとヤナギさん―」
　タイムッと司が叫ぶ前に、その右手は振り下ろされた。