Maybe Blue 第三部 誰かのために
夕凪9
ノックも無く開いたドアの音に顔を上げると、不機嫌そうな表情の和美が湊を睨んでいた。合宿の最終日前日。疲れもピークに達しようかとしている夜に、できるかぎり休んでいたいところを呼び出したのだから当然かもしれない。
「呼び出して、ごめん」
「話って？」
部室の中央まで来たところで足を止め、無愛想に和美が答える。しかし、手短に済ませたいのか、目の前にある椅子に座る気配はない。
「…椎名のことなんだけど」
そう言ったところで、湊は言葉を止めた。今から自分がやろうとしていることが、どれだけおせっかいな事か感じて、思わず躊躇ったのだ。
だがもうすでに和美は呼び出してしまっている。
どうせなら、最後までおせっかいで終わらせよう。
湊は覚悟を決めると、一気に話した。
「大学の話、ちゃんと椎名にしてあげてほしいんだ。その上で、椎名の話も聞いてあげてほしい」
返事はない。むしろ和美の表情は全くと言っていいほど変わらなかった。逆上するかと思っていただけに、湊はほっとする気持ち半分で、更におせっかいな言葉を口にした。
「大学が遠くになるからって別れること、ないと思う。椎名だっていろいろ覚悟決めたみたいだし」
「…くだらねぇ」
舌打ちの後に続いた小さな呟きに、え？と聞き取れなかった湊がそう言うと、和美はじろりと湊を睨んで答えた。
「話がそれだけなら、俺は戻る」
そう言って背を向ける和美を、慌てて湊は呼びとめた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ―」
しかし和美はそんな湊を気にする風も無く、ドアに向かってスタスタと歩いて行く。
「待てって、和美っ―」
引き留めようと和美の肩に湊が手をかけたところで、足に何かがひっかかり、結果湊は和美をドアに突き飛ばす形になった。ドンという大きな音と同時に、顔に手を当てた和美の呟きが聞こえた。
「…って…」
手の下から、鼻血がたらりと落ちるのが見えた。湊がごめんという前に、鼻の下を拭った和美が、手についた血を見て声を荒げた。
「…にすんだよっ」
今度は和美が心配そうに和美を覗きこむ湊を突き飛ばす。バランスを失った湊は、思わず床へと倒れ込んだ。和美の手の当たったところが悪かったようで、湊の頬には赤い筋ができていた。それを見て和美も我に返る。
「わ…」
悪い、そう口にしようとした言葉を和美は飲み込むと、一瞬謝ろうとした自分を消し去るように湊を怒鳴りつけた。
「ふざけんなよっ。
お前、馬鹿か？
好きな女がフリーになんだぞ？
なのに何で別れるなとか言えるんだよ。
自分で奪うくらいのこと言えよっ」
やはり気付いていたんだと、湊は反省した。当然だ、和美からすれば、自分は好きな女に近づく悪い虫なのだ。もし和美が湊に、美都には近づくなと言えるような性格であれば、美都とはもっと仲良くやっていたのかもしれない。或いは美都に、湊に気をつけろと言える性格であれば、ここまで和美が苛立つこともな かったのかもしれない。しかし、そのどちらも和美にはできなかった。できずに、鬱々と自分の中で貯め込み、時折美都を怒鳴ったりすることしかできなかった。
それは不器用ゆえの和美の真剣な想いの裏返しでもあったのだ。
湊は頬を拭いながら、小さくため息をつき立ち上がりながら呟いた。
「…言えるわけ、ない」
その呟きに、和美は更に逆上した。湊の襟元を掴むと、そのまま湊をロッカーに激しい音を立てて押し当てた。
「はぁ？何今更いい子ぶってんだよ！何かにつけて、相談のってるふりして、ずっと虎視眈々とあいつのこと狙ってたじゃねぇかよっ」
わかっていた。
和美の不器用な性格は。すべて美都への強い想いの裏返し。
残念ながら美都はそこまで気付いていなかったけれど、湊にはわかっていた。
周囲が考える以上に、二人は深く思い合っていたのだ。
だからこそ、もどかしかった。
湊も負けじと和美の襟元を掴むと、体勢を入れ替えて、和美の背中をロッカーに押し当てる。身長も五センチほど湊の方が高く、体重も細身の和美より筋肉質の湊の方が重いし、力もある。その勢いにまかせて、湊は叫ぶように言い返す。
「狙ってたわけじゃない！確かにずっと好きだった。でも…駄目なんだ、俺じゃ」
納得していない表情の和美から手を放すと、湊は深いため息をついていつもの声に戻って言った。
「椎名からの相談内容は、だいたいが和美のことだったよ。
奪うなんて思いつかないくらい、椎名の中は和美のことでいっぱいだった。
離れ離れになることで、椎名を傷つけたくないんだろ？不安にさせたくないんだろう？だったら、そうしないように和美が頑張ればいいじゃないか」
「うるっせーんだよっ」
畳みかけるように言った湊の頬を、和美が殴った。バンッと強い音がして、湊はロッカーに思い切り背中を打ちつけた。
と、同時に部室のドアが勢いよく開いた。
「和美っ」
「湊！」
中に入ってきたのは、萌子だ。続いて成、理香、篤志。
ああいつものメンバーだとぼんやり湊が思っていると、ひとり入口に立ち尽くして白い顔をしている美都が見えた。
湊はこの状況を把握しようとする美都と目があった。しかしそれは一瞬だけで、美都は和美を見つけると、湊から視線を逸らし、駆け寄って行った。
見た目の怪我も、和美よりも湊の方がひどい。そのせいか、中に入ってきた美都以外の全員が、湊の方に駆け寄ってきていた。
けれど、美都はそうしなかった。それが、美都の答えだった。
自分のところにやってくる美都に、和美は今までのように感情をぶつけるようにではなく、冷静に言った。
「どうして俺のところに来るんだよ」
「和美くん―」
「あいつのところに行け。あいつなら、お前のことをちゃんと大事にしてくれる。お前のことを泣かせたりもしない。
お前のことも幸せにしてくれる―」
「私は、和美君がいいの」
その言葉に、和美は一呼吸置いてからこう言った。
「俺は、お前のことを置いて、関西の大学に行く。もう決めた」
どうして、とか酷い、とか言って泣き出されるのが嫌で顔を背けた和美に聞こえてきたのは、自分以上に冷静な美都の声だった。
「和美君がきちんと考えて決めたことなら、私はそれを受け止める」
思いがけない返事に、強張っていた和美の肩が少し緩んだ。美都はそんな和美の変化に気づいているのか、声を柔らかくして話を続けた。
「大学の話聞いた時、すぐ思った。私が追いかけて関西に行けばいいんだって。
でもそれじゃ、ダメだって気付いたの。
いつまでたっても、それじゃ私が和美君を振りまわすだけだって。
ずっと思ってた。付き合い始める前から、私は和美君のお荷物じゃないかって。
マネージャーとしてだってそう。必要ないんじゃないかってよく思ってた。
だから、この夏が終わったら辞めるって決めた時、どこかでほっとしてたの。
でも、最近もっと皆の応援をしたいって思うようになってて。
決めたの、私。
最後までマネージャーやる。大学も、今まで通りこっちの大学受ける」
そう宣言するように言った美都は、小さな声で「合宿の最初の夜、本当はこのこと話したかったの」と少し笑いながら答えた。和美はそんな美都の今までにない強い笑顔をまっすぐに向けられて、慌てて顔を逸らした。
「勝手にしろよ。俺はもう関係―」
「和美君とも別れない。別れる理由がないもの」
はっきりとした言葉で返された和美は、返す言葉を無くした苛立ちを隠し切れずに髪の毛を掻き毟った。
「まめに連絡とらねぇぞ」
「私が連絡する」
「こっちにだって、滅多に帰ってこねぇかもしんねぇぞ」
「私が行けばいい。もし和美君がこっちに帰ってきても、私だって忙しくて会えないこともあるかもしれないよ」
美都の意志の固さをようやく理解した和美は、小声で答えた。
「…お前が泣いても、俺は何もできない」
「わかってる。付き合ってもう二年になるんだよ、私たち」
すぐにでも別れるカップルと噂され続けながらの二年だった。平穏な二年だったとは思っていない。それでも、美都の気持ちは変わることはなかった。
「大丈夫。和美君はそのままでいいの。私が変わればいいんだから」
美都と和美がお互いの絆の強さを確認する。それは、同時に湊の失恋が決定的となった証拠でもあった。
見つめ合う二人を横目にしながら、成が湊の肩をぽんと叩いた。
「行こう、湊」
「ああ」
成に腕を引き上げてもらいながら湊は立ち上がる。皆が部室を出ていこうとしても、二人はそのままじっと見つめあっていた。
あとは二人の話だ。
部室を出て歩きながら、ふいに湊は笑いそうになった。
あの恥ずかしがり屋の和美のことだから、後で今日のこと思い出して真っ赤な顔して怒鳴りだすんだろうな。
でもきっと、椎名はそんな和美のことを今までみたいにハラハラしてみてるんじゃなくて、隣でにっこり笑っているんだろうな。
立場が逆転だ。
そう思うと、笑いがこみあげてきた。そんな湊を見て、隣を歩く成が心配そうに湊を見つめていた。
「あ、いや、何でもないよ、成」
湊のその言葉に、今度はほかの皆が反応して、湊の顔を見た。
それぞれが心配そうに自分を見つめている。
ありがとう、みんな。
そう思いながら湊は誰と話に口を開いた。
「そういえば、どうして皆して部室に来たわけ？」
それは、と萌子が口を開く。
「まりちゃんが、湊が和美を部室に呼び出したって騒いで、ひとまず美都を連れてきたんだって。それでも心配だからって千鶴ちゃんにも私と理香を連れてくるようにって話して」
「でも女二人だと心配だし、湊君のことだからって成くんにも来てもらって」
ね、と理香と萌子が頷きあう。
「篤志は？」
「二人がどうやって成を呼び出そうか悩んでたから、呼びに行ったついでに、もし何かあった場合に男手は二人あった方がいいかなって思って」
「それなりに人数は集まったし、まりちゃんたちは帰らせたわ」
「そっか」
不意に湊は心の中がじんわりと温かくなるのを感じた。
俺も、幸せ者だ。
心配してくれる仲間が、こうしているんだから。
その時、和美に殴られた口元に痛みを感じた。
「いった…」
「冷やしておいた方がいい。それでも明日痣になるわよ、きっと」
萌子がそういってハンカチを湊の口元に充てている。汚れる、と言いかけたら返さなくていいからと先に言われた。
「ありがと。萌子」
「もう消灯時間だから、早く戻らないと」
校舎の入り口でそう話してて、男女で別れる。
「やばっ、もれるっ」
校舎に入った途端、そういってトイレに慌てて駆け込んだ篤志を見つめていると、成に名前を呼ばれた。
「湊」
「ん？」
「俺、決めた」
「レックスは断る。マリウス諦めたくないから」
「そっか」
よく見てみればこの合宿中、ずっと浮かなかった成の表情も、しっかりとしたものに変わってきていた。その表情を見ていて、湊はなんとなく自分の暗闇にも小さな光を見つけた気がした。
「うん」
消灯時間を少し過ぎて、美都は教室に戻ってきた。
しかし見回りの教師がやってきた時には、何とかサッカー部のマネージャーは全員布団に入っており、教師は儀礼的に教室内にぐるりと懐中電灯で照らすと、さっさと出て行った。
萌子が一安心して小さくため息をつくと、隣で衣擦れの音がして、美都が口を開いた。
「萌子、いい？理香も」
萌子が起き上がると、小さな寝息が聞こえてきた。まりと千鶴のようだ。和美と湊の決闘騒ぎを心配していた二人だっただけに、萌子と理香が結果を伝えると、安心した表情を浮かべていた。合宿中の疲れも溜まっていて、すぐに寝てしまったようだった。
「ね、ベランダ出てみない？」
月明かりが差し込む窓辺を指して、理香がそう言った。
「二人には、心配かけてごめん」
美都を中央に三人で並んでベランダに座り込んでから、美都が小声で言った。
「仲直り、できたんだよね？」
理香の問いかけに美都が小さく頷く。
「よかった」
ホッとして萌子がそう言うと、美都が恥ずかしそうに言った。
「ほんとに迷惑いっぱいかけてごめんね。二人には、感謝してる。ありがとう」
そんな事ないと萌子は首を振る。
「結局、私には何もできなかったもの。
美都が自分の気持ちを正直に話して、仲直りできたんだよ。美都が頑張ったからだよ」
その言葉を美都は否定することなく、えへへと笑うと、夜空に浮かんでいる月を見据えてはっきりとした口調で言った。
「それで、さっきの話聞こえてたとは思うけど。マネージャー、選手権まで頑張ろうと思って。…いいかな？」
「もちろん！」
当然だという萌子の声に、美都は頬を緩ませる。
「よかった。本当は、ちょっと引け目にも感じてたんだ。私だけ、途中で抜けちゃうみたいで」
「そんなことないよ。皆事情があるわけだし」
「でもこれでよかった。三人、最後まで一緒だね」
微笑みあう萌子と美都の隣から、一際低い声がした。
「…ごめん」
聞いたことのないような理香の重い声は、そのまま堰を切ったように続いた。
「ごめん、あたし。もしかしたら、この夏で引退しなきゃいけないかもしれない。…ううん、下手するとインターハイもいっしょに行けないかも」
口火を切れば、後は簡単だった。
気づけば理香は母親の体調不良の話を、店の状況も含めて話していた。
「ごめん、あたしが言ったのに。最高の夏にしようって、それなのに、あたしが―」
「理香のせいじゃないよ」
そう言ったのは美都だ。萌子も続けて言う。
「理香のお母さんのせいでもない。誰のせいでもない。
どうしようもないことってあるもの。
今回の和美の大学のように、どうにもならないことって。
大事なのはそれを受け止めて、どうすればその状況でも、自分が目指す一番近いところに行けるかどうかだと思う。
ごめんね、さっきもこの話してくれようとしてたんだよね、理香。なのに聞くことできなくて、ごめん」
謝られると、返って涙腺が緩み、気づけば理香はぼろぼろと涙を流していた。消灯時間を過ぎているため、声を上げて泣くことはできず、理香は抱えた膝に顔を埋めて肩を震わせた。隣に座っている美都は、そんな理香の背中を優しくさすりながら言う。
「お母さん、大事にならないといいね」
美都の優しい声に、理香は小さく頷いた。
そんな三人を、空からは月の光が優しく見守っていた。
理香の涙がようやく収まったあたりで、ふいに美都が口を開いた。
「ねぇ。明日の夜、海辺で花火しない？」
「花火？」
「今年は花火大会もいけないでしょう？だから、三人だけでもどうかなって。理香も、もしお母さんが入院することになれば、忙しくなるだろうからその前に。線香花火だけでもいいから」
毎年恒例の花火大会だが、合宿と遠征のスケジュールの関係で、今年は当日にこの凪浜にはいないことがすでにわかっていた。
合宿の最終日である明日は、昼前には練習が終わる。その翌日は一日休みとなっているが、その次の日は早朝から遠征に出る予定だ。
花火を楽しむとしたら、明日の夜がベストだ。
「そんなこと言って北内君はどうするの？」
美都と和美は、去年も一昨年も、二人で花火大会に行っている。来年春には和美が関西に行ってしまうことを考えると、数少ない凪浜での時間は、二人だけで過ごすことが理香には普通に思えた。
「今は、三人で思い出作ることの方が大事だもの」
しみじみとそう語る美都に、理香も萌子も何も言えなくなる。
来年には離れ離れになるという意味では、目指す大学の違う萌子たち三人もそうなのだ。距離的には同じ関東圏ではあるから会おうと思えば会える距離だが、今までのように毎日顔を会わせるわけではない。
重くなった空気を振り払うように、美都が話を続ける。
「私、サッカー部のマネージャーになってよかったって思ってるの。和美君のことだけじゃなくて、二人に出会えたこと、一生の宝物だから」
「あたしだって、そうだよ。一緒にマネージャーなったのが、美都と萌子でよかったと思ってる」
理香がむきになってそう言い返す。
共通点はサッカー部のマネージャーというだけで、その目的も、性格も、何一つ共通しているところはなかった三人だった。喧嘩も全くなかったわけではない。
それでも、一緒に過ごしてきたこの三年間は、三人にとってかけがえのない思い出になっていた。
考えてみれば、友達ができるなんて思ってもみなかった。
萌子はそう思い返しながら、きちんと二人に届くように今の気持ちを伝えた。
「私も。感謝してる。ありがとう」