Maybe Blue 第三部 誰かのために
夕凪11
合宿も最終日を前にした夜だと、さすがに疲れが溜まってきて体の節々が痛い。それでも篤志は頼みごとがあって香織を呼び出した。思えばこの合宿中、香織とは毎晩のように話をしたけれど、呼び出したのは初めてだった。そして、香織の反応は篤志の想像以上だった。
「本当に？」
「うん。結構、皆乗り気でさ。忙しいところ悪いんだけど、メンバー集めてもらえると嬉しいなって」
「全然！全然忙しくなんかないです！わかりました！五人集めればいいんですよね」
香織はそう言うと、そそくさと校舎へと戻って行った。
成もコンパにいってみたいと言い出したことがきっかけで、篤志は香織にメンバー集めを頼んだのだ。
サッカー部も忙しいが、水泳部も夏休みは毎日部活があるはずで、忙しくないわけはないのに悪かったかなと思いながら、自分の校舎に戻ろうとしたところで篤志は気付いた。
集めるのは五人じゃなくて、四人だ。
サッカー部側の参加者は、成、山田と、成の後見人というケン、それに湊も入れるつもりだ。ここ最近、湊は元気がないし、仲のいい成が珍しく参加するから、誘えば来るだろう。それに自分を入れた五人だ。
水泳部の方は、香織を入れて五人なのだから、誘うのは四人になる。ちなみにどうやら山田は香織狙いらしい。
誘ったくせに、後からやっぱりごめんと謝って断るのは申し訳ないし、香織ならば自分は来ないと言い出しかねない。
明日にすればいいと思いもしたが、合宿最終日で、お互いに忙しくして、話ができる時間もなさそうだ。
まだ、消灯時間まであるよな。
女子が宿舎としている校舎への入り口の前まで来て、篤志がどうやったら中にいる香織と連絡が取れるだろうかと考えていると、中の校舎から興奮した女子の声が聞こえてきた。
「ほんとに来るの？早坂先輩が？」
どうやら校舎を入ってすぐの廊下のところから会話が聞こえてくるらしい。
成ってばやっぱり人気なんだな。
そう考えていると、同じように興奮した香織の声が聞こえてきた。
「うん！今彼女いないしーって」
「すっごいじゃん、香織！日比野さんに取り入ってよかったね。料理当番だって、サッカー部にやってもらえることになったんでしょ？」
「ほんとー、頼んでみるもんだよね」
けらけらと笑う香織の声が聞こえてきた。その声は、水泳部一年生の大変さを涙ながらに語っていた香織の声とは明らかに違っていた。どう受け止めればいいのか、篤志が答えを出す前に、明るい女子二人の声は次第に近くなっていく。
「ねぇねぇ、早坂先輩来るんだったらさ、メンバーもちゃんと考えようよ」
「だよね。うまくサッカー部の人たちと仲良くなれば、そのうち藤原先輩にもつながるかもしれないし」
「私、藤原先輩とお茶できたら、彼氏できなくてもいい！」
「それは言い過ぎ…あ」
声が止まり、篤志が視線を上げると、ちょうど渡り廊下につながるところに現れた香織たちがいた。一瞬だけ篤志を見たその表情は強張っていて、明らかに失敗したと物語っていた。
その瞬間、篤志の答えは出た。
「やっぱり成って人気者なんだなぁ」
あははと笑いながら篤志が言うと、香織が慌てたように言った。
「あ…いや。そうじゃなくて。だって。篤志さんには彼女がいるじゃないですか」
慌てているからか、フォローにもなっていないと篤志が思っていると、ふいに香織の後ろから真面目な顔をした理香が現れた。
「彼女じゃないわよ」
「…理香」
その声に驚き後ろを振り返る香織を無視するように、理香は香織の脇をすり抜けるようにして歩くと、篤志の前に立つ。
「ただの幼馴染。ね、アッチ」
こういう言い方をしている時の理香は、だいたい機嫌が悪い。篤志が理香の機嫌を損ねない言葉を探しだす前に、香織が真剣な声色に変えて口をはさむ。
「ごめんなさい。日比野先輩、やっぱりやめましょう、コンパ。サッカー部も忙しいだろうし」
ね、と香織は隣の女子に同意を求め、ぎこちない頷きが返ってくるのを確認するや否や、そこで話は終わりとばかりに、香織は頭を下げてそそくさと校舎に戻って行こうした。そんな香織を理香は声を張り上げて引き留めるように言う。
「忙しくても、コンパくらいできるわよ、ね？アッチ」
「あ、あのさ、理香。誤解してるみたいだけど、俺は成がコンパ行きたいって言うから―」
まずいとばかりに慌てて言った篤志を無視して、理香は声を張り上げる。
「だけど、コンパやるなら、小泉君にも話しておかないとね」
その名前に、香織が足を止めた。しかし、理香の影になって香織の姿が見えない篤志にはわからない。
「へ？隆？どうして？」
小泉隆は水泳部の三年だ。内部生で篤志も中学時代は同じクラスになったことがある。
「小泉先輩は…関係ないです」
強張った香織の口調に、思わず篤志は体を右に倒して理香の後ろを覗く。香織は足を止めながらも、理香には背を向けていた。そんな香織に追い打ちをかけるように理香が続ける。
「それじゃ、村木君も？」
香織の肩がびくんと跳ねあがるのが篤志に見えた。村木も水泳部の三年だ。
答えを求めて、篤志がじっと香織の反応を待っていると、理香の冷静な声が正面から聞こえてきた。
「水泳部が禁止してる部活内恋愛をするのも、そうやってオープンできないからって二股かけるのも、お好きにどうぞ。
でもね、あたしたちの仲間を利用したら、許さないから。覚えておいて。
それと、言いたいことがあるなら、直接あたしなり萌子なりに話して。そっちの身勝手な希望は聞いたけど、呆れて物が言えないわ。こっちの意向は、もう萌子が水泳部の部長に話しつけてるところだから。って言っても、部長はそんな話が動いてたなんて知らなかったみたいで、びっくりしてたけど」
「…へ？」
話に追い付けずに間抜けな声を出した篤志に、理香はさっさと言う。
「もう消灯時間近いから、戻ったら。アッチ」
「あ、うん。…じゃ」
話は終わったとばかりに、理香は校舎の中に入っていった。少し気になって篤志が渡り廊下の方をちらりと覗くと、口に手を当ててしゃがみこむ香織の姿が見えた。
入浴を終えた成だが、気持ちがざわつくのを感じ、ひとり教室を後にした。
消灯時間までは、まだ少しある。
海でも行こうか。
そう思い、靴を履いていると、荒い息と共に知朗が現れた。
「おつかれ。ランニング？」
知朗は無言で頷くと、そのまま雪崩れこむように座り込んだ。朝晩二回、誰に言うこともなく欠かさずランニングを続ける知朗を見て、成は思わず話しかけていた。
「知朗は、大学に行くんだよな」
「ああ」
それがどうした、というように知朗はぶっきらぼうに答えながらも、立ち去る様子もない。単に疲れているのかもしれないが、成はそんな知朗の隣に腰を下ろした。
「どうして？」
知朗にも、いくつかクラブチームから誘いがあった話は聞いている。これだけ真面目にサッカーに取り組めるのであれば、知朗ならばプロとしても十分やっていけるのではないかと成は思っていた。
だからこそ、知朗の返事に驚いた。
「教師になりたいんだ」
「教師って、監督ってこと？」
小さなため息が聞こえてきたが、それでも知朗はきちんと成の問いかけに答えてくれた。
「違う。単純に、学校の先生、だ。できれば小学校」
「へぇ、知らなかった…」
「小さい頃からの夢の一つだ。お前は？」
「え？」
逆に聞かれて、成は考えたが、すぐに答えは出てきた。
「…日本代表選手」
「お前ならなれる」
事実、ユース代表には選ばれている。だがそれは、限られた年齢の中での選出だ。全日本の選手となれば、更に狭き門となる。
「…まだまだ、先は長いけどね」
最近はすぐ先のことばかり考えていて、自分が一番に何を目指してきたのかを忘れていたことに成は気づいた。おまけに成の意志だけではどうしようもならないことまで絡み、自分でもどうしたらいいのかがわからなくなっていた。
そんな成の気持ちを見透かすように知朗が乱暴に言う。
「外野がいろいろ言っても、決めるのはお前自身だろ。お前は周りを気にしすぎて、大事なこと見失いがちなんだよ」
「…前にも同じこと言われた気がするよ」
内容は今回のようにサッカーではなかったけれど。
知朗の的を得た言葉は、いつだってどうしていいかわからない成の心にまっすぐに刺さっていた。
いつだって、知朗はぶれないんだ。
大口たたいても、それに見合うだけの努力をしている。
人にきつい言葉をかけるようでいて、きちんと相手のことを考えて話している。
…どうやったって、勝てない。
沈み込みそうになった成の背中を軽くタオルで叩きながら、知朗は立ち上がった。
「最初に大事なのは、お前の気持ちだろ。そこを確認する前に、他人に気遣ったりしてるから、わけわかんねぇことになるんだ」
ってな話も前にしたような気がするな、と知朗がさらりと言った。
本当にその通りだと思う。
ため息をつきそうになる成に、とにかく、と知朗が口を開いた。
「将来が決まる大事な時なんだから、とことん自分の気持ちに向き合え。たぶん真剣に考えられる時間なんて、この夏くらいしかねぇぞ」
「ありがとう」
成の感謝を聞きながら、知朗はタオルを片手にシャワー室の方に向かっていった。
消灯時間も近づき、美都は一人で歯を磨いていた。
萌子はまりの訴えを聞き、水泳部と話をしてくると教室を出て行っていたし、
理香は気づいたら姿を消していた。
一年生の二人は、風呂に入っている。
鏡を見ながら美都は、昼間まりから話を思い返していた。美都が何も知らないと気づいたまりは、最初躊躇ったものの、根負けして偶然聞いてしまった石橋と和美の会話を話してくれた。ほぼ決まっていた東京の大学のスポーツ推薦を断り、和美は関西の大学に行くことを急きょ決めたのだと言う。コーチは反対していたようだが、石橋はそんな和美の決意を認め、東京の大学への謝罪は自ら行うと話したらしい。
「別れよう」
あれは、そういう意味だったのだ。
自分が関西に行くから、別れよう。
何で相談してくれないんだろう、和美君。
だがそう思った直後に、美都はふっと笑みをもらして考え直す。
そういう人じゃないものね。
人づきあいが苦手な和美にとって、新しい環境というのも当然苦手だ。
そこからすれば関西の大学への進学を決めることがどれほど和美にとって大きな決断だったのか、美都にはわかる。
そして、遠距離恋愛ができるほど、和美がマメな性格でもないことも、わかっていた。
だから、別れようって言ったんだよね。
ならば美都の方はと問われれば、続ける自信があるわけではない。
寂しがり屋で、甘えん坊な自分の性格はよくわかっている。ともすれば、関西に自分もついて行くと言いかねない。
だが美都には希望の大学があり、そこは自宅から通える距離にあるのだ。
和美の為に、自分の夢を捨てること。
そういう考えが、和美が何より嫌いなことくらい、美都にもわかっている。
すぐに別れると噂されながらも、付き合い続けて二年にもなるのだ。
癖の強い和美の性格は、十分理解しているつもりだ。
非情な言い方の裏に隠れた深い愛情も、
身勝手な振りして気を遣っていることも、全部。
そうなると美都の答えも自ずと出てきた。
まずは話そう、和美君と。
きちんと、話そう。
夏が終わっても、引退しないことも、
将来のことも。
結論がどうなるかはわからないけれど。
消灯まであと十五分ほどだ。時間はあまりない。
美都が教室に戻ろうとしたところで、廊下の反対側から駆けてきたまりが美都を見つけて声を上げた。
「美都さん！大変です！すぐ来てください！」
理香は苛立っていた。
可愛い女の子に鼻の下を伸ばしている篤志にではない。そうやって篤志を馬鹿にしている香織に、だ。だからつい、香織の二股の話をしてしまった。本当は話すつもりはなかったのに。
それもこれも、さっきまでしていた電話の内容のためだ。
体調が悪く検査のため入院した母親の具合が気になり、理香はそっと自宅に電話をかけた。出たのは父親で、母親はやはり体調がすぐれないと今日も横になっていたという。
「結果が出るのは明日だけど、もしかしたらしばらく入院ってことになるかもしれないって」
いつもは明るい父親の声も、今日はどことなく重い。母親が入院すれば、店のために理香は部活を休まなければならないし、それはつまり引退を意味することになる。
インターハイにも参加できないのかもしれない。
「…ま、まあ、理香は店のことなんか気にしないで、サッカーボールでも追いかけてろよ。あ、理香が追いかけてるのは篤志か。ハハハ」
元気を装った父親の声が、電話の向こうから聞こえてくる。が、そうもできないことは、一人娘の理香が一番わかっていた。
「とにかく、明日で合宿は終わるから」
そういって電話を切ってから深いため息をつく。いっそ泣きわめきたい。けれど、そうしても何も変わらないのだ。自分にできることがないことが歯がゆくて、悔しくて、そうして苛立っていた時に、篤志が香織と話しているのが見えた。
おまけにその内容がコンパだ。状況からして、また篤志はだしに使われたらしい。進歩のない篤志には呆れ、香織の図々しさには嫌気がさした。おまけに理香を理由に、すべてをもみ消そうとしている姿に、思わず言い返してしまった。
…また余計なこと言っちゃったかも。
とはいえ多少はすっきりした理香は、篤志にさっさと別れを告げて寝泊まりしている校舎に入った。
水泳部の部長との話を終えた萌子は、校舎に入ろうとして入口の前で突っ立っている篤志を見つけ、小さく息を吐き気持ちを切り替えてから声をかけた。
「あれ？篤志。どうしたの？」
「いや…」
「もうすぐ消灯時間よ。おやすみ」
校舎を見つめて、どこかきょとんとしている篤志にそう告げ、萌子は校舎に入ろうとした。水泳部との問題もそうだが、美都や右京のこともあり頭を悩ませることが多すぎて、萌子も疲れ切っていた。
「なあ萌子。理香の様子、ちょっとおかしくない？」
篤志にそういわれて、萌子は即答した。
「篤志のせいじゃないの？水泳部の子と仲いいんだって？」
その噂は、色々なところから耳にしている。去年も同じようなことがあったと思いながら、理香の気持ちを慮り、少し嫌味交じりに萌子がそう答えると、篤志がわざとらしいくらいに大きなため息をついた。
「萌子まで。彼女と話してるのは別に俺に下心があるわけじゃなくて、ケンにあるわけで」
「ケン？亮子ちゃんとはうまくいってるんでしょう？」
「あー、そうじゃなくて、成のため、っていうか。あ、いや、何でもない」
慌ててそう答えた篤志がもごもごと口ごもる。しかし考えてみると、合宿に入ってから忙しいのと美都の方に気を取られて、全然理香の話を聞いていない。たまにため息をついている姿も目にしたが、それは忙しさのせいだとどこかでさらりと流していた。
「そうね、聞いてみる」
「頼むよ」
篤志と理香の関係は、いつも理香がふらふらしている篤志を心配しているばかりで、今回のようなことは珍しいと思いながら萌子が寝泊まりしている教室に戻ると、ちょうど理香が一人で窓から見える海を眺めているところだった。
高校三年の夏だ。
恋愛のこと、友情のこと、勉強のこと、将来のこと。
悩みは尽きない中で、本来の楽天的な性格からか、理香はそれ程深く悩んではないように思えた。事実、理香は将来は実家のラーメン屋を継ぐからと、大学も推薦入試で行ける範囲の短大でいいと早々に決めていた。
けれど、理香は理香で悩み事があったのかもしれない。
月に照らされて思いつめたような理香横顔を見て萌子はそう思った。運よく他には誰もいない。
話をするならいい機会だ。
「理香」
「ん？」
窓から入ってくる夜風を頬に受けながら理香が答える。
「何かあった？」
「え？」
理香が振り返らないのでその表情がわからないものの、萌子はそのまま話を進めた。
「理香の様子が変だって篤志が気にしてるから。私も、忙しいからって理香とこのところゆっくり話できてないし」
沈黙の中で、開け放たれた窓から波の音が聞こえてくる。
静かで、心を落ち着かせる音だ。
少しして、いつもとは違い沈んだ理香の声が聞こえた。
「…あのね、萌子」
しかしその先は、いつもの理香の声に戻り、萌子ではなくその先の廊下で立ち尽くしている千鶴に向けられた。
「どうしたの？千鶴ちゃん。何かあった？」
萌子も振り返ると、照明のせいか千鶴の顔は青白く、不安そうな表情を浮かべている。
「…あの」
小さな声で千鶴はそういうと、不安そうなままで言葉を続けた。
「決闘…らしいんです。まり曰く」
「決闘？」
使い慣れない言葉に、思わず理香が声を上げたが、千鶴はそれでも表情を変えることなく続けた。
「はい。まり曰く、ですけど。それで、お二人も呼んだ方がいいって、まりが」
萌子と理香は思わず顔を見合わせた。
決めた。
マリウスにする。
といっても、マリウスから誘われたわけじゃないけど。
でも、それ以外は断る。
心に決めると、成は海辺の駐車場の縁に寝転がっていた足を大きく振り上げ、その勢いで体を起こした。
自分の目指す先が見えると、自然と自分のなすべきことも見えてきた。
まずは、報告だ。監督や、自分を誘ってくれたレックス、あとはマリウスのスカウトにも話をして、更にお願いした方がいいのだと思う。けれど、最初に話すのは湊だと、成は思った。
決めた途端、頭にかかっていたような靄が一気に晴れた。
成はひとまず湊を探すことにした。
「湊？そういや、外に出ていったけど」
同じ部屋の興仁に尋ねたら、そう返事が返ってきた。湊もこの合宿に入ってから悩みを抱えているようだったから、成は自分と同じように海でも見に行っているのかもしれないと思った。明日この合宿が終われば、あとはインターハイに向けた慌ただしい日々が始まる。ゆっくり将来の話もできなくなるだろうし、話すなら今夜だ。
「ちょっと探してくる」
走って海まで行って、湊を見つけて、話をして帰ってきても消灯時間には間に合うはずだ。
靴に履き替え、海に向かおうとしたところで、成は走ってきた篤志に呼び止められた。
「せっ成！どこ行くんだよ！」
「湊探しに海にでも行こうかと―」
「海になんかいないって！」
篤志は息も絶え絶えにそういうと、周囲に気づいて声を潜めて言った。
「…部室で、決闘するらしいんだ」
「け、決闘？」
時代錯誤なその言葉に、思わず成が声を上げると、篤志が慌ててその口を押えた。
「相手は、どうも和美らしい。とにかくお前も来いって」