Maybe Blue 第三部 誰かのために
夕凪10
予想はしていたが、湊は朝食が終わると、すぐさま石橋からの呼び出しを受けた。もちろん和美も一緒だ。
「昨日の夜、うちの部室で言い争う声と大きな物音が聞こえてきたという話が水泳部から来てるんだが。二人ともその顔はどうした？」
単刀直入、石橋にそう切り出されて湊と和美は一瞬顔を見合わせた。隠し切れない青痣が、互いの目の周りや口元に見えている。和美の痣は、湊のように殴られてできたものではないにしても、湊が原因の痣だ。
インターハイを控えた大事なこの時期、サッカー部内での喧嘩ともなれば、出場停止になる可能性もある。それが他の三年生に与える影響も少なくない。
和美は体育教官室に入ってきた時から、ずっと黙ったままだ。嘘を平然とつけるような性格でないことは、湊にもわかっている。
俯いていた湊は、覚悟を決めるとすっと顔を上げて答えた。
「すみません、監督。俺、最近調子悪いし、なんかイライラしちゃってて、昨日の夜何となく部室に居たんです。そしたら、忘れ物した北内がやってきて。
気まずくて出ていこうとした時に、俺が間違って北内の足を引っ掛けてしまって…。
それで、口喧嘩になりました」
「顔の傷は？」
「最近の不甲斐ない自分に苛立って…それで、一人でロッカーに打ちつけてました。北内がやってきたのは、その後です。
水泳部が聞いたっていう物音は、それだと思います」
すっきりとした表情で湊にそう言われ、石橋は腕組みをしながら大きくため息をつき、その視線をじろりと和美に向け直した。
「北内、お前は言うことはないか？」
矛先が変わったとはいえ、石橋が自分の説明を完全に信じているわけではないと湊にはわかっていた。
肝心なのは、説得する相手が石橋ではなく水泳部だという点だ。
石橋になら、恥ずかしい話とはいえ話すこともできる。だが、すべて正直に話せば、湊の行為は不可抗力だと判断されるかもしれないが、和美の行為は、完全に黒だ。
明るみになれば、大学推薦の話は無しになるだろう。そうなれば、和美は関西の大学に行くこともない。
だが、そうなっても美都が喜ぶわけではない。
「…あ、の…」
和美はそういって言葉を詰まらせた。
嘘をつくこともできないが、そういう行為自体、和美が嫌っているのは、湊にもわかっていた。おまけに、湊に庇われるという立場が、和美のプライドを傷つけるであろうことも。それ故に、和美が本当の話をしてしまうかもしれないことを、湊は危惧していた。しかしそうさせてはいけないと、湊は先に口を開いたのだ。
湊だって嘘をつきたくはない。それでもこうするしかなかったと、湊はじっと和美の次の言葉を待った。
長い沈黙の後で、息を吐いて和美は石橋の投げかけに答えた。
「和泉の言う、とおり、です」
一瞬自分に向けた石橋の視線が痛かったが、それでも湊は石橋を見つめ返していた。ここで怯んでは意味がない。ふっと石橋の口元から吐息が漏れた。
「わかった。この話はここまでだ」
石橋も覚悟を決めたのだろう。たとえ二人が嘘をついていたとしても、言われたことを信じることに。
ほっと安心した湊に、石橋は視線を鋭くして伝えた。
「だが湊、お前はインターハイの初戦は、ベンチだ」
「監督！」
声を上げたのは和美だ。抗議しようとする和美を湊は目で制する。石橋はそんな二人のやり取りを見ながら続けた。
「理由はお前が一番わかってるはずだ」
それは先ほど湊が石橋についた嘘の中で説明されていた。
湊の調子の悪さ。
スタメンが決まっていない今、言われることではなかったのかもしれない。
それが、嘘をついた湊への、ある種のペナルティにも感じられたが、その理由は正当で、湊はわかりましたと答えた。
むしろ、ペナルティを与えられたことで、湊自身嘘をついた責任をきちんと取ることができたような気がして、気持ちはすっきりしていた。
体育教官室を出たところで、和美が湊に視線を投げかけて、口を開いた。
「…その」
すっきりした湊とは違い、和美の表情は曇っていた。
真実を語った方が、和美にとっては楽だったのだろう。だが、そうすれば何を失うのか、理解し、和美は黙っていることを選んだのだ。
頑なだった和美が、ここまで譲歩したのは、成長した証なのかもしれない。
そう思いながら、湊は和美の背中をばんと叩いた。
「餞別だよ。関西の大学に行く」
にこっと笑うと、和美は気分を害されたというように湊を睨み返してきた。
思ったことがそのまま表情に出てしまうところは、相変わらずだと思いながらも、湊は明るく話を続けた。
「それに、自分に区切りがついたんだ。あそこまで振られちゃって、むしろすっきりしたっていうか。
椎名が落ち込んでても、泣いてても、もう俺は手を貸さない。そこまでみじめになりたくはないから」
その役目は、意地でも和美に譲るよ。
だがその言葉は湊の心の中だけに留まった。口にしたら、また和美が逆上するだろうから。
それにそんなこと言わなくても、二人はもう大丈夫だろうと、湊は微笑んだ。
「さて、練習練習。
初戦は出れないけど、次は出るつもりだから、邦南には絶対に勝ってくれよ」
湊がそう言うと、和美が真面目くさった顔になって、ああと答えた。
この五日間の合宿で、使用した布団を萌子が干していると、隣で同じ作業をしていた理香がふと呟いた。
「こうやって学校で布団干すのも、これが最後なんだよね」
年季の入った布団は、いつもどこか潮くさかった。寝泊まりしていた教室の掃除を終えて、使っていたこの布団を干す作業は、汗の臭いも混ざっていたりして決して気持ちのいい恒例行事ではなかったが、そう言われると心の奥がぎゅっと掴まれたように切なくなる。
黙り込んだ萌子と美都の隣で、まりの大きな声が響き渡る。
「寂しいこと言わないで下さいよぉ、理香さん」
「だって本当のことだもん」
「そんなぁ。来年の合宿、千鶴と二人でやっていけるかなあ」
まりはそういうと、千鶴と顔を合わせた。
美都や水泳部のこともあり、どうなることかと思った今年の合宿だったが、結局は無事に終えることができそうだ。
萌子はまりに微笑みかけた。
「大丈夫よ。今回だって立派にこなせたでしょう」
「でも水泳部みたいに他の部ともめるようなことがあったら、誰が萌子さんみたいに冷静に話し合えばいいんですか？私じゃ喧嘩っ早くて逆にもめそうだし、千鶴は言い負かされそうだし」
「毎年もめ事があるわけでもないし、そういう時は伊東君や青山君たちがいるじゃない」
二年の伊東は学年代表だけあってしっかり者でもあるし、次の部長候補だ。
その同級生の青山は、一見頼りなさそうに見えるが、あれで中々人の間に立つのがうまい。
しかしそれでもまりは安心できないらしい。
「ですけどぉ」
「自分だけで対処できなかったら、誰かに頼ればいいのよ。全部一人で背負うことないんだから」
肩をぽんと萌子に叩かれ、まりもこれ以上弱音を吐いても仕方ないと思ったようだ。
「…わかりました」
小さな声でそう答えると、自分の布団をぽんと叩いた。
そういえば、自分もそうだったと萌子は思い出す。前マネージャーであった笠間は、萌子たちがマネージャーとして正式に認められたタイミングでマネー ジャーは辞め、選手の一人に戻っていたとはいえ、常にその場にはいたので、萌子も何かと頼りにしていた。実際に選手権で敗退して引退し、部活に顔を出さな くなった時はしばらく不安だった。
そう考えると、引退という言葉が妙に現実味を帯びてきて、萌子は気持ちのがざわつくのを感じた。
その時、石橋が顔を出した。
「小池、ご両親から学校に電話がかかってきてるそうだ」
咄嗟に萌子と美都が理香を見つめる。理香の母親の検査結果が出るのは今日と聞いていた。
「…すぐ行きます」
理香は表情を硬くしてそう答えると、石橋の後をついていく。
「理香」
そう名前を呼びかけたものの、萌子はそれ以上何も言うことができず、理香も萌子たちの方を振り返ることもなかった。
「うわっ、何すんだよ！山田！」
グラウンドで、突然篤志の声が上がった。成が振り返ると、ホースを手にした山田が、勢いよく飛び出してくる水を篤志に向けていた。篤志のＴシャツは当然びしょ濡れになっているが、それでも山田の手は緩まない。
「うるせー！俺の高校最後の青春、返せ！」
「青春って、水泳部とのコンパが流れたこと？」
萌子が水泳部の部長と話し合った結果、きちんと水泳部員たちも合宿の雑務を手伝うようにはなったらしい。それに関係しているかどうかは定かではないが、 香織からは正式にコンパを断られた。どうやら二股かけていたのが相手にばれてしまったらしい。香織の表情は暗かったが、励ましてあげるほど篤志も人がいいわけではなかった。当然山田たちには、香織の二股の話はしていない。
「そーだ！俺の香織ちゃん、返せ！」
「って、お前別にあの子と付き合ってたわけじゃないだろう」
ケンが鋭く突っ込みを入れるが、山田には届かなかったらしい。
思わず篤志も呟いた。
「そうだよ、それにきっと山田には手に負えないと思うよ」
理香の話を疑ったわけではないが、篤志なりに香織の身辺を探ってみたのだが、小泉と村木以外にも、怪しい男が何人かいたのだ。
あんなに純粋そうな顔して、女の子って見た目を信用しちゃいけないんだな。
そう学んだ篤志の言葉を、山田は誤解したらしく、
「なんだと、アッチ！香織ちゃんみたいなかわいい子は俺には無理って言いたいのかよ！」
「あ、いや。そういう意味じゃなくて。とにかくコンパなら別にセッティングするからさ、それで勘弁してくれよ」
「香織ちゃん以上のレベルだからなっ」
そこまで言って山田はようやく気が晴れたのか、篤志に水をかけるのをやめた。しかし、Ｔシャツのみならず、篤志は全身ずぶ濡れになってしまった。あと三十分ほどで、サッカー部員は全員集合して、学校での合宿が終わる。今はその前の、片付けの時間なのだ。篤志たちは早々に片付けを終え、グラウンドで少し遊んで集合時間を待つだけのはずだった。
それなのに、着替えないとまずいなあ。
着替え一式を、せっかく詰め終わったカバンから出すことを考えて、少し憂鬱になりながら篤志は呟く。
「なんでハードル上がるんだよ…。あ、改めてだけど、成と湊と、ケンも来る？」
「え？」
突然ふられた湊が声を上げ、篤志はそういえば湊には何も話していなかったことを思い出した。
「あっそっか、湊には話してなかったよな」
美都に完全にふられたからなのか、顔の痛々しい痣とは対照的に湊はいやにすっきりとした表情になっていた。
実際、篤志がコンパの話をすると、今までにない反応が返ってきた。
「そうだね、折角だから行ってみようかな」
するとケンがそう言った湊の背中を勢いよく叩く。
「よし！いいぞ！湊！その勢いだ！」
「なんだよケン、急に」
咳き込む湊の隣で、遠くの方を見た成が声を上げた。
「あ…」
「どうした？成。まさか今度はお前が参加しないとか言うのか？」
ふざけるなくらいの勢いのケンに、成は違うってと答える。
「そうじゃなくて、右京が通りかかったから」
昨日の練習試合のボイコット事件があってから、右京は常に単独行動をしている。ただ、練習をさぼっているわけではなく、ひたすらランニングをしているだけのようだ。石橋もそんな右京には何も言わずに、静観することに決めたらしい。
ふらふらと校舎の陰に消えていく右京の後姿を見ながら、ケンが呟いた。
「どうせだったらあいつも誘ってみたら？何か吹っ切れるかもしれないぜ」
もともと人とは距離を測るタイプで、おまけに抜群の才能を持ち、スランプもあまりない右京だ。この時期に迎えた大きなスランプを前に、右京も、そして周囲の部員たちも戸惑っており、ますます右京は孤立していた。
興仁などは泰然と話しかけていたりもするが、右京にも余裕がないのか、いつにもまして素っ気ない対応に、為すすべもないといったところだ。
「コンパがいいかははわからないけど、やっぱり右京がベストコンディションじゃないと、きついよな。インターハイ」
湊が冷静に呟いた。
特にインターハイの初戦は強豪の邦南だ。
仮に右京がベストコンディションで臨んだとしても、簡単に勝たせてくれる相手ではない。
「…けど、人数多すぎないか？コンパ」
指折りして人数を数えていたケンがそう呟き、思わず篤志が言い返す。
「だったらケン、いらないだろ。萌子だって、ケンがどうしていくのかって、逆に亮子ちゃんとのこと心配してたよ」
「だからっ、あいつは俺のことはもういいから自分の心配してろっての！アッチもどうしてそう余計なこと萌子に話すんだよ！」
「やめろって、ケン！」
ケンは山田からホースを奪うと、篤志に向けて水を放った。
油断していた分、思い切り顔にかかり、篤志が悲鳴を上げる。
そんな二人をしり目に、ずっと右京が消えたあたりを見ていた成だったが、ふいに自分の背中に水がかけられて、声を上げた。
「うわっ、どうして俺？」
「それじゃな、沢木」
「はい、ありがとうございました」
背中を向けた俊平に、萌子は丁寧に頭を下げた。
約束した通り、最終日俊平は他のＯＢを伴って練習にきた。その練習後、萌子は呼び出された。人があまりいない場所、ということで、北校舎の教室を指定した。
萌子の気持ちが変わらないことを俊平は確認すると、あっさりとわかったと答えた。そして、一度も萌子を振り返らずに、廊下を歩いて行った。萌子も、そんな俊平の姿が見えなくなるまで頭を下げていた。
顔を上げた時、萌子は小さく息をついた。
これでよかったのか、と逡巡する気持ちはなかった。
自ら決めたことなのだから、悩んで立ち止まっている場合ではないと、むしろそう自分の気持ちを確かめていた。
そんな時に、グラウンドの方からふいに自分の名前が聞こえてきて、思わず萌子は廊下の窓からグラウンドをのぞいた。
そこには楽しそうにホースの水を掛け合う成たちがいた。
青痣を作っている湊も、皆と一緒に楽しそうにホースから逃げながら笑っている。
思わず窓枠に寄りかかり、萌子はグラウンドを眺めた。何より水しぶきの下で、日焼けした成の笑顔が眩しかった。
この合宿中は、あまり成と話す機会もなかった。というより、萌子は、なるべく成に近づかないようにしていた。
あれほど強い決意をしたというのに、側にいれば簡単に気持ちが揺らいでしまうのだ。
気づけば成を目で追いかけていたりすることもある。
それに気づくたびに、萌子は慌てて目を逸らしていた。
だが、今は周囲に誰もいないし、成たちもまさか萌子が校舎の廊下から自分たちを見下ろしているとは思っていないようだった。
その安心感が、萌子の心の扉を少し緩くさせた。
窓枠の影からそっとグラウンドを見下ろす。
成が笑っていると、萌子も自然と頬が緩んだ。
ホースから流れ出た水は、夏の日差しを受け、虹を描いている。
つかの間の休息だった。
この先は、インターハイに向けて遠征が続くし、終われば今度は選手権の県予選が始まる。
今度の選手権は、萌子たちにとって最後の選手権だ。
選手権は、インターハイとは違って、神奈川県代表の枠は一つしかなく、このところ凪浜は川城に負けこんでばかりいる。
そう、立ち止まっている時間なんか、ないんだ。
ふいに萌子は強い視線を感じ、グラウンドの隅を見つめた。
そこには、萌子をじっと見つめる由太がいた。目が合ったところで、萌子は慌てて廊下にしゃがみこんだ。
いったい、いつから由太は自分が成を見ていたことに気づいていたんだろう。
そう考えると、ますます鼓動が高鳴った。
由太の洞察力には、萌子も一目置いている。
おまけにそれだけではない。
由太は、萌子が史央と付き合っていないことを知っているのだ。それ故に、萌子は史央からこのことを聞かされて以来、なるべく由太と二人きりで話をする機会を避けていた。
まさか…気づいてないよ、ね。
萌子は両手を組み、口元にあてながら祈るようにそう思った。
片づけ終わった教室には、誰もいなかった。
窓の外からは、部活のためか登校している生徒の騒ぎ声も聞こえるが、その一切を遮断するかのように右京は固く目を閉じて、床に寝そべっていた。片隅には、無造作にまとめられた右京の荷物が置いてある。あと数分後には、サッカー部員は集合して、今回の合宿は終了となる。明日は一日休みになるからと、寮生活をしている部員の中には、一日実家に戻る部員もいるが、右京にそのつもりはない。
誰かの足音が聞こえてから、ふいにドアが乱暴に空き、「右京？」と名前を呼ばれた。入口には知朗が立っているのだが、右京は返事するどころか、体を起こすことも、目を開けることすらしない。
「そろそろ、時間だぞ」
知朗の方は慣れているのか、そんな右京を気にすることもなく、自分の用件だけ済ますと、さっさと教室を出て行こうとした。しかしその足音が止まったことに、右京も気づく。
「俺、寮には明日戻るから」
寮において、知朗と右京はルームメイトだ。この後実家で知朗は一泊してくるので、ルームメイトである右京は、今夜部屋に一人ということになる。
だが、あえて伝える理由はない。
いくらサッカー部のチームメイトだとしても、
右京のアシストで知朗が点を決めるのが凪高の必勝パターンだとしても、
それだけの関係だと、右京は思っている。
一方、反応のない右京を、じっと知朗は見据えていた。
スランプに陥ることは誰にでもある。
きっかけも原因も、人それぞれだ。
そして抜け出す方法も、人それぞれだ。
だが、一つだけ確かなことは、本人が抜け出すことを諦め、逃げてしまえば、それで終わりなのだ。
「お前、明日一日はサッカーのこと忘れて、体休めとけよ」
知朗はそれだけ伝えると、静かに教室のドアを閉めた。