Maybe Blue 第三部 誰かのために
夕凪7
ともすれば振り返り、今来たばかりの道を戻っていきそうな気持ちを、握りしめた拳で小さく閉じ込めるようにして、紗依は大きく息を吐くと校門の中に入って行った。気付いた生徒は、当たり前のように挨拶をして通り過ぎていく。
そう、おかしくない。夏休みに、教師が学校に来ることは、いたって普通のことだ。
だが、関係のないサッカー部に顔を出すというのはどうなのだろう。
そう思ったところで、紗依は歩く速度を落とした。
思い返すと、何も考えずに手伝いをしていた去年の自分が恥ずかしい。とはいえ、萌子と約束をしてしまったのだから、破るわけにもいかない。
やっぱり嘘の理由をつけて、断ってしまえばよかったのだ。
振り子のように揺らぐ自分の気持ちに、紗依は苛立つものの、コントロールすることもできずにいる。
結局、最後の最後で約束をしてしまったのは、ひとえに自分の弱さにすぎない。
それでも、あの人に会いたい、と。
萌子は何故か必死に紗依に来てほしいのだと話していた。サッカー部の士気も上がるんです、と。
しかし自分が行ったところで、そうなるとは紗依には到底思えない。
たかが少し若いだけの女教師が差し入れを持ってやってきたからと言って、試合の結果が左右されるほど、凪高のレベルは低くない。サッカーを全く知らない紗依にも、そのくらいはわかっていた。
サッカー部の不調の話は、春辺りから何となく聞いていた。だからこそ、批判の目に晒される石橋を助けたいと思った。
そう、石橋にはっきりと拒絶される前までは。
グラウンドへと続く、坂を上って行くと、生徒たちの声が聞こえてくる。
時折混じる、鋭く低い声も。
持ってきた差し入れ用の果物の重さが、一気に増した気がした。さっさとこれを渡して帰ってしまえばいいのだ。引きとめられれば用事があると言えばいい。
そうすれば石橋と顔を会わせる機会もなく済む。
よし、と気合を入れて止まっていた一歩を踏み出そうとした時、グランウンドの方からふいに萌子の声が聞こえた。
と同時に別の女性の笑い声と、子供のはしゃぐような声まで聞こえた。
予想していなかったわけではない。だから、紗依は足を止めることはしなかった。
そしてグラウンドが見えた時、ベンチ脇に立つ萌子と、その隣に居る女性が見えた。
自分より確実に年上であることはわかるけれど、綺麗だと思える女性、そしてその女性の視線の先には、追いかけっこをして遊ぶ女の子二人。勢い余ってグラウンド中央に入ろうとした二人を、別の声が引き留める。
「七海！愛海！」
さっきまでは突き刺すように鋭く聞こえたのが、打って変って優しい声に変わる。近くにやってきた父親に、叱られたことを忘れて駆け寄って行く二人の女の子。
石橋は、二人を抱きかかえると、顔を上げて妻の汐里を見た。
「日差しが強いし、ボールも飛んでくるから別の場所にしたらどうだ？」
「大丈夫よ。ちゃんと気をつけてるわ。それにこの子たちがパパの近くが良いって。ね？」
笑いあう二人の女の子。それを見て顔を緩ませる石橋。
紗依にはそれが陽炎のように思えたが、握りしめた手の痛みでそれが現実であると思い返した。覚悟はしてきたはずなのに、それでもまだ足りなかった。
紗依は踵を返して、グラウンドを出ていった。力を失くした手から袋が落ち、中の果物がグラウンドに転がったがそれを拾う余裕など紗依にはない。
「田波先生？」
萌子の声が聞こえた気がしたが、紗依は振り返ることなく散らばった果物をそのままに学校を出て行った。
午前の練習が終わり、グラウンドから部員たちが続々と引き揚げてきた。昼を食べに行こうと言う成たちの誘いを断って、湊は一人校舎脇の水道で顔を洗っていた。
汗と土とでべたつく肌をすっきりさせたいせいもあるが、それよりも気持ちを引き締めたかった。この合宿から、特に調子が悪い。湊自身何とかしたいのだが、やろうとするほど空回りしている気がしていた。原因は沢山ある。だが、どれも今まで抱えていた悩み事であり、今までとそう変わらないはずなのに、今までのように処理できない。
タオルで顔を拭きながら、ふうと溜め息をついていると、背後を誰かが通り過ぎた。
洗濯ものを抱えたサッカー部のジャージを着ている女子の背中に、思わず振り返ると、そんな湊に驚く理香がいた。
「あ、お疲れさま…」
「…うん、お疲れ」
自分が理香の背中を誰と間違えたのか気付いた湊は気まずくなってそう答えると、なんてことない返事が返ってきた。重症だと、深いため息をつこうとしたところで、歩き出していた理香がふいに振りかえって頭を下げた。
「ごめん、湊君」
「ん？何が？」
思い当たる節のない湊がにこにこと爽やかな笑みを浮かべていると、更に理香の表情が曇った。
「あのね…」
理香は周囲に誰もいないのを確認して、それでも建物の陰に湊を連れていった。
それは一昨日の夜の話。
何気ない理香と萌子の会話。内容は美都のこと。
つい言ってしまった理香の本心。
まさか本人が聞いているとは思わなかった。
「ほんっとごめんなさい」
膝に頭がつくくらい頭を下げた理香に、呟くような湊の声が聞こえてきた。
「…そ、か」
「湊君？」
思わず理香が顔を上げると、湊は照れたような笑いを浮かべて答えた。
「昨日あたりから椎名から、突然避けられるようになったから、何があったのかとは思ってたんだけど。…そう、か」
ふっと浮かべたその笑みは、どこか余裕すら感じられる。それが理香の気に障った。
「そうかって、湊君。あたしが言うのも何だけど、チャンスなんだよ、今。美都は北内くんに別れようって言われてて、美都には自分の気持ちがばれちゃってて。
いっそのことここで告白しよう！とか思わないわけ？」
本当のことを言えば、理香はずっとそう思っていた。美都が和美に傷ついて泣くたびに、これが湊なら傷つくことはないはずだと何回も思った。実際に美都は和美よりも湊を頼りにしてるように見えて、理香は美都の気持ちが湊に移ることを願っていた。もしくは、強引にでも湊に和美から美都を奪ってほしいと思っていた。
だから、今は絶好のチャンスなのだ。
それなのにのんびり構えている湊に、つい理香は切れてしまったのだ。しかし冷静な湊の態度は、喧嘩腰の理香の言葉でも変わることはなかった。
「答えはでてるよ」
言われて理香もハッと気付く。どんなに和美に傷つけられようと、どんなに湊の優しさに甘えようと、いつだって美都の気持ちは変わらなかった。
湊を傷つけたことに気付いた理香は、それでもと言葉を続けた。
「…ごめん、あたし。また余計な事言って。でも、皆思ってるよ。美都には北内くんなんかより、湊君の方が絶対にお似合いだって」
それがせめて湊の傷を癒してくれればと思っての言葉だった。
けれどそれは理香のエゴでしかなかった。
湊は少し寂しげとも取れる表情を浮かべると、微笑みながら答えた。
「だとしても小池。決めるのは、椎名だよ。そして彼女の気持ちは、もうずっと決まってるんだ」
今日も美都は料理班だった。ここ最近は、萌子たちの気遣いもあってずっとそうだ。美都としても、暑い炎天下で走り回っているよりも、教室で黙々と野菜を 切っている方が好きだし、何より和美と顔を会わさなくて済むのがいい。それに顔を会わせたくない相手は他にもいる。何かと美都に文句を言ってくる樹生も、 落ち込んでいる時はできる限り避けたかったし、何より今の美都にとっては、湊と顔を会わずに済むのが一番大きかった。
いくら美都でも、今まで湊にしてきた数々の和美に対しての相談事がどんなに湊を傷つけていたのか、想像はできた。誰か教えてくれればよかったのに、と思うものの、実際に自分が反対の立場だったら言えるわけはないと、更に自分の鈍感さを責める。
『椎名にとっては大丈夫でも、俺にとってはそうじゃないんだよ』
いつか聞いたあの言葉だって、今振り返ると違う意味に聞こえてくる。
あーもう！
頭を激しく左右に振っていると、ふいに名前を呼ばれる。
慌てて顔を上げると、ちょうど食料を持ってまりが入ってきたところだった。
「遅くなってすみません。萌子さんに、美都さん手伝うようにって言われて」
こんなときにも自分に気を使ってくれる萌子に、美都は感謝した。まりは調理室を見渡しながら、怪訝そうに言った。
「それにしても、水泳部、誰も来てないんですか？」
「…みたいね」
言われてみればそうなのだが、自分のことで手一杯だった美都は気付いていなかった。そんな美都に、まりが怒鳴る。
「美都さんも人がよすぎますよ！あたし、絶対に水泳部に抗議してやる！」
「まりちゃん、落ち着いて。わたし、料理するの好きだし、合宿は明日で終わりだし。このくらい平気だから」
「でも―」
「それより時間ないから、早く作業しよう」
「…はい」
優しく答える美都の前に座りながら、包丁とニンジンを手にして、まりは大きくため息をついた。
「これだから、いけないんですよね、あたし」
「ん？」
「美都さんみたいに、優しく包み込むおおらかな人にならないと、彼氏もできないんだろうなって」
「そんなことないよ」
おおらかではなく、鈍感すぎるだけなのだと美都は謙遜ではなく本気で否定したが、まりに美都の声は届いていないらしく、まるで独り言のような呟きが続いた。
「だってあんな身勝手な北内先輩と付き合えるのなんて、美都さんくらいしかいないですよ」
「…そんなこと、ない」
褒めているのか貶しているのかいるのかわからないまりの言葉に気づくより先に、和美と別れたことを隠して詰まりながら返事をする。まりも自分の言葉に気付かずに思ったことを次々と口にしていた。
「あたしだったら、即効別れますよ。だって身勝手すぎますよ。急に関西の大学に決めちゃうなんて」
「え？」
突然出てきた話に美都が驚いて顔を上げると、そこには美都以上に驚いているまりがいた。
「ええ？」
余計な事を言ってしまったとまりが気付いて口を手で塞いだが、もう遅かった。
「藤原っ！」
午後の練習が始まったが、石橋の怒号は相変わらずだった。午後は紅白戦になった。レギュラーである右京は、赤いビブスを着けてグラウンドを走っていた。
「もっと動けっ。ボールに集中しろ！」
今日の石橋は、特に右京をよく呼んだ。単に、チームの要である右京の調子が悪いからであって、他意はない。しかし、今まで怪我以外の不調をあまり経験したことのない右京にとっては、石橋に怒鳴られる度に、心が荒立っていくのを感じていた。
もともと体の線が細く、スタミナが足りない右京にとって、夏の暑さはきつい。そこに加えて、紗依に会えないことが、右京を今までにない絶不調に陥れていた。
最後に紗依と話したのは、紗依に石橋のことを忠告した時だ。あれ以来、紗依は右京を避けているように感じる。学校では見かけても、まるで逃げるように背を向けられていた。
右京の忠告通りに、見事に拒絶された紗依からすれば、あわせる顔がないのかもしれないが、そんなことは右京にとってはどうでもいい。
自宅に行けば会えるかもしれないが、練習続きでそんな時間はないし、押しかけたところでやっているのは紗依と同じことになる。
苛立つ気持ちが更に集中力を奪い、そんな自分に更に苛立つ、そんな負の連鎖の真っただ中に右京はいた。
「藤原！」
石橋の怒号で、目の前をボールが飛んで、サイドラインを割るのが見えた。
深いため息の後、石橋は呟くように言った。
「交代だ」
代わりにと、望を呼ぶ。そしてグラウンドの中に居る和美に向かって、右京のポジションに移るよう指示した。右京は肩で息をしながらビブスを脱ぐと、汗に まみれたそのビブスをばさりとグラウンドに投げ落とす。他の部員たちが固唾をのむようにして右京の動向を見ている中、右京はそのまま、グラウンドの外に向 かって歩き始めた。グラウンドの中の選手に指示をしていて、それに気付くのが遅れた石橋が、周囲の視線に気付くと、歩き出している右京に振り返って尋ね た。
「藤原？どこに―」
「ランニング、行ってきます」
休憩ではないが、それでもこの紅白戦を出場していなくても見学している部員たちの前で、それは明らかに身勝手な行為だった。
「藤原、おいっ―」
呼びとめる石橋の声を無視して、右京はグラウンドから姿を消した。
深いため息が石橋から漏れる。が、それも一瞬のことで、石橋は大きく手を叩くと、試合再開を指示した。
どこかぎこちない雰囲気の中、右京のいない試合が始まったところで、
「初めて見た、右京くんが切れるの」
と、理香がそう呟いた。それに篤志が答える。
「まあわからないでもないかな。だって監督、右京に集中砲火だし」
「それだけ期待してるのよ、スランプから抜け出してくれることに」
萌子はそう答えると、石橋と同じように深いため息をついた。逃げるようにしてグラウンドを出て行った紗依を、萌子はあの後ひきとめることはできなかった。追いかけようとしたのだが、怪我をした部員が出て手当てを しなければならなくなったからだ。あれだけお願いして来てもらったと言うのに、目的である右京に会わせることもできなかった。
紗依の気持ちは何となく感じている。となれば石橋の家族の姿を目の当たりにして、傷ついたに違いない。
そう考えると萌子は胸が痛んだ。
そしてその思いが、グラウンドを出る右京を引き留めることを躊躇わせた。
美都のことにしても、湊のことにしてもそうだ。
結局、自分は何もできないんじゃないか。
そう考えだすと、今までのようにただがむしゃらに動くことができなくなっていた。
「あれ？もうないの？」
ふいに後ろで部員の声があがる。どうやら朝用意したお茶が、もうなくなったらしい。二つ用意した魔法瓶の一つが、午前中に空になったことに気付いたのに、他の仕事に忙しくて、すっかり忘れていた。休憩時間にやっておけばよかったとまた萌子は自分を責める。
「ごめんなさい。すぐ新しいの用意する」
空になった大きな魔法瓶をふたつ持ち、萌子は部室へ向かい始めた。
皆、一生懸命だ。
目の前のインターハイの試合に向けて必死だ。
それをサポートするのが自分の役目だと言うのに…。
思わず地面を見つめながら萌子が歩いていると、ふいに名前を呼ばれた。
「おーい、萌子」
顔を上げると成が手を振っている。そして、自分の方に飛んでくるボールが見えた。どうやらボールを取ってくれ、ということのようだ。慌てて萌子が魔法瓶を持ちながらボールを足でとらえようとしたものの、選手でもない萌子がスピードのあるうまくボールを捕まえられるわけもなく、ボールはコロコロと転がって いく。
「ごめんなさい」
魔法瓶を置いてボールを追いかけようとする萌子の脇を、駆けてきた成が、いいよと言って追い越していく。グラウンドを駆け回って疲れているだろうに、成はその足を緩めることなく、すぐさまボールを拾ってグラウンドへと戻って行く。
「ごめんね」
再びすれ違う瞬間萌子がそういうと、成は、
「気にしない、気にしない」
と言って、戻って行く。その瞬間、萌子の心の中に柔らかな風が吹いた気がした。
気にしない。
たったそれだけの言葉だが、萌子には今日の数々のミスをそう言われた気がした。
起こってしまってミスを気にしてても仕方ない。
がんばろう。
心の中でそう呟くと、萌子はえいっと魔法瓶を持ち上げた。重かったはずの魔法瓶は、さっきよりずっと軽く感じられた。