Maybe Blue 第三部 誰かのために
夕凪6
合宿も折り返し地点となる三日目。
美都は変わらず重い空気を纏いながらも、それでもきちんと時間通りに起床をし、準備を進める。
だが仕事の内容は、萌子と理香で相談して、なるべく部員と関わらないにと食事班に回ることになった。萌子がそれを告げると、美都は分かったとだけ答え、 そそくさと萌子の前から姿を消した。その前にも何度か美都に他愛もない話を向けてはみたものの、返ってくる言葉はどこかぎこちなく、萌子だけではなく理香 とも目を合わそうとしない。
「美都、なんか様子変だよね」
と理香は言っているが、それも美都の気持ちを考えると当然なのかもしれないと、萌子は思った。
朝食後、部員たちは昼までの時間を使って、学校の周辺を走ることになった。口頭でコースは伝えているものの、フォローの為に萌子とまりは自転車でそのコースを回ることになっていた。
「けっこう登り坂だと思うんですけど」
そう言って悲鳴を上げたまりに、
「ダイエットになると思って。それに選手は自分の足で走るのに、私たちは自転車を使うんだから、少しはましでしょう？」
と答えた萌子は、朝食の片付けを終えると石橋のいる教官室へと向かった。大所帯のサッカー部員全員で一気にスタートすれば、通行人の邪魔になるからと、何 グループかに分けて走る予定となっているのだが、そのグループ分けを長距離のタイムごとに分けてはと提案しようと思ったのだ。タイムの遅い部員から先に走 れば、マラソンにかける時間も短くて済む。その分部員たちは体を休め、午後の練習に集中することができるはずだ。そして萌子はそのリストもすでに作り上げ ていた。
階段を上ったところで、教官室のドアが開いた。失礼しましたというぶっきらぼうな声とともに出てきたのは、和美だった。
思わず萌子が足を止めると、和美も萌子に気付き、二人は一瞬だけ目をあわせたが、和美はすぐに萌子から視線を逸らすとドアを閉め、廊下を歩いてきた。
「どうかしたの？」
和美が教官室にいくことはそうそうない。擦れ違い様にそう尋ねると、和美の不機嫌そうな「別に」という声だけが返ってくる。美都のことを言われたくないのだろう。萌子はさっさと階段を下りていく和美の後ろ姿を見つめて、小さくため息をついた。
萌子からしても、和美の気持ちはいつもわからない。気まぐれな上に、気分の浮き沈みも激しく、あまり自分から話をしないので、その僅かな表情でしか和美の気持ちを読み取れないのだ。
それでも美都とは二年以上も続いていたから、美都には和美の気持ちがわかっているんだと思っていたのに。
萌子は気持ちを切り替えるように顔を上げて、ドアをノックした。
リストを提出し説明をすると、石橋は、萌子の提案を受け入れ、そのグループ分けも全て萌子に任せると言ってきた。ありがとうございますと答えながら、萌子は石橋のデスクに置かれた資料の山を見つけた。
「大学の資料、ですか？」
三年生の部員の進路について、石橋が色々と奔走しているとは聞いていた。理香の話によれば、右京と成にはプロからオファーが来ているらしいし、知朗は大学の推薦を受けることになっているのだという。
萌子の問いに、石橋はああと答えてその資料をまとめながら、
「まだ他の部員には言わないでもらいたいが、北内が関西の大学の推薦を受けることが決まった」
と答えた。思わず「関西ですか？」と聞き返した萌子に、石橋は説明を続けた。
「北内はいい選手だが癖も強い。その癖を認めて、うまくあいつを使ってくれそうな監督がいる大学があってな。本人も、自分がやりやすい環境であれば、どこでもかまわないと言っている」
そう言われて、萌子は思わず「あ」と声を上げる。
「何だ？」
と怪訝そうな表情の石橋に、なんでもありませんと答えながらも、萌子の中では、和美が突然美都に別れを切り出したその理由を見つけた気がしていた。
美都が推薦ではなく、通常の大学入試を受けると聞いた時に、それとなく和美のことを萌子は聞いていた。
「多分東京の大学の推薦を受けるって言ってた。いくつか話もあるみたいだし。同じ大学は無理かもしれないけど、でも同じ東京の大学だったら、会おうと思ったら会えるし、応援にも行けるでしょう？」
しかし和美は関西の大学に行くと言う。別れる理由がわからないと美都は言っていたのだから、おそらくそのことはまだ美都にも話していないはずだ。
もし和美がそう話せば、美都は自分も関西の大学に行くと言うだろう。自分の行きたい大学よりも、和美が大事だからと言って。
だから、別れようって言ったんだ。
萌子はそう確信した。
マラソンのグループは四つに分けられた。同じグループの人間には同じ色のビブスをつけ、それぞれにタイムを計る。
受け取った青いビブスを渡された湊は、萌子に小声で呼び出された。周りには部員が沢山いて、それぞれがストレッチを始めている。五分おきにスタートが切られる中、湊のいる最終グループのスタートまではまだ時間があった。湊はビブスを着ながら、萌子の後を追いかけた。萌子の足が止まったのは部室の脇で、周囲に誰もいないことを確認すると萌子は、
「美都と和美のこと、聞いた？」
と尋ねてきた。自分のせいだと思っている湊は、表情を曇らせたが、平然を装って答えた。
「聞いた」
「それって、美都から、だよね」
「…ああ」
「その時、湊って何か美都に言ったの？」
「いや…でもどうして？」
むしろ、何か気のきいた言葉をかけたやりたかったのに、それができなかったことを湊は後悔していた。だが今思えば、こんな状況に陥らせたのが自分なのだとしたら、そんな言葉をかける資格すらない。萌子は湊の質問に、首を傾げる。
「美都、湊にも嫌われたって落ち込んでたから」
そう聞いて、湊は自己嫌悪に陥った。和美の誤解を解くために、あえて美都と話さないようにしていたことを、美都は自分が嫌われたのだと思ったらしい。
「ただでさえ落ち込んでるでしょう？美都。
美都にとって、湊は大事な相談相手だから、できれば、話を聞いてあげてほしいの。…湊には、申し訳ないんだけど」
最後に声をひそめた萌子の気遣いが、湊には辛かった。
そう、湊の気持ちは、萌子だけじゃなく成や理香も知っていることなのだ。隠してはいなかったが、誰かに自分から話したわけでもない、それでも知っている人がいて、和美に気付かれないとなぜ思ったのだろう。
自分の愚かさに唇を噛みしめながらも、湊は萌子に自分が何故美都を避けるようになったのか、つまりは和美が美都と別れることになったその理由を話そうとした時、
「和美、関西の大学に行くらしいの」
と萌子の方が先に口を開いた。
「え？」
先に話されてしまったのと、唐突な話に湊は思わず声を上げる。
「だから、美都と別れるって言ってるんだと思う。ほら、美都は東京の大学を受験するって言ってるし、でも和美が関西の大学に行くなら、二人は離ればなれに なる。そうなったら美都のことだから、自分も関西に行くって言い出しかねないもの。きっと、和美はそうさせたくないんだと思うの」
そう思うでしょう？と萌子に視線を向けられ、湊は言葉を詰まらせた。
「…たしかに。そうだね」
「美都は多分知らない。私から話すとこじれそうだから、和美と話して、和美から美都に話してもらおうとは思うけど。美都のフォロー、湊にお願いできたらと思って。今日も、あんまり顔色良くないから、食事班に回したんだけど、いつまでも和美のこと避けられるわけじゃないでしょう？」
その時、遠くの方から笛の音が聞こえてきた。どうやら、最初のグループがスタートしたらしい。
「それじゃ、悪いけど。よろしくね」
萌子はそれだけ言い残すと、慌ててスタート地点に向かって走り出した。二番目のグループがスタートしたら、萌子も自転車で追いかけなければならないのだ。
パタパタと走って行く萌子の足音が消えたところで、湊は笑いとも溜め息ともとれる息を漏らした。
別に俺が理由じゃなかったんだ。
他にもっと、大事な理由があったんだ。
それなのに、自分のせいだと、俺は椎名を避けて、逆に混乱させた。
ははっ、と今度は笑えるように声を出してみたが、お世辞にもその声は固くぎこちないものだった。
「だけど監督もさ、せっかくの合宿なんだから、こんな筋トレしなくてもいいのに。練習試合でいいじゃん、練習試合で」
「それじゃあ出れない部員が出てくるだろ？マラソンだったら、皆ができるし、場所もそれほど取らない。それに夏にスタミナは重要だ」
「そりゃ毎日ランニングしてる知朗にとってはこんな坂、屁でもないだろうけどさ。うへっキツッ」
声を上げたケンを無視して、知朗はさっさと先を走って行く。歩き始めてしまったケンを見て、並んで走っていた成は声をかけた。
「先行くぞ？ケン」
「勝手に行ってくれ」
やる気がないのか、ケンは腰に手を当てて歩き始めている。成は後ろ向きに走りながらこう言った。
「スタメンで、同じグループの中で最下位になったら、夕食後にも走らせるって監督言ってたぞ」
途端にケンの表情が変わる。
「何？それを早く言えって」
一番後発、つまりは長距離に強いグループに入ったケンだったが、それでもグループの中ではタイムは下の方だ。いきなり駆けだしたケンを、今度は成が追いかける形になった。
「そういや湊は？」
同じグループに居るはずの湊の姿が見当たらず、ケンがそう成に尋ねる。
「後ろに居るよ」
長距離は得意の湊だが、どうもこの合宿では調子が上がらないようだ。
「まだ迷ってるのかな、湊のやつ」
呟くようにそう言ったケンに、成は曖昧に答える。ケンは、湊の不調が希望のチームに行けないことだと思っているようだが、成は知っていた。
『俺、椎名のこともう忘れようと思う』
夜空を見上げてそう独り言のように呟いた湊。
昨日の椎名の様子。
きっと何かがあって、湊がそう決心したのだとしたら。
成は顔を上げた。心地よく高まっている胸の鼓動を感じ、後ろから吹いてくる海の風を感じながら成は口を開く。
「コンパ、俺も参加しようかな」
「へ？」
聞き返してきたケンに、成は爽やかに答えた。
「ケンの言う通り、彼女でも作ってみるよ」
それが萌子の為になると言うのならば。
成は気合いを入れると、おい？と声を上げているケンを無視して、スピードを上げた。
いつもならお代わりするご飯を、一杯だけで終わらせて、片づけするために立ちあがった湊を見て、興仁が声をかけた。
「具合悪いのか、湊」
長距離が得意なはずの湊だが、午前中のマラソン大会では、グループ内で最下位になってしまった。ペナルティとして、夕食後に同じコースを回らなければならない。他にスタメン選手では、右京も同じくペナルティを与えられていた。
心配そうな興仁に、湊はにこりと笑いかける。
「大丈夫。少しばてただけ」
実際に食欲もあまりない。ペナルティを言い渡される時、湊は右京と共に石橋から小言を言われた。
「インターハイが近いんだ。おまけに初戦は強豪の邦南。お前たちがしっかりしなくてどうする」
それだけ期待を持たれていると思えば気持ちも上がるものの、今の湊はそうは思えなかった。今までずっと、湊は優等生だった。言われたことは真面目にこな し、練習もサボらず、不服も口にしない。それだけに、石橋から何かを注意を受けることは少なかったように思う。それ故に、最後の夏を目の前にして、石橋も そんな湊の扱いに戸惑っているようにも感じていた。
今も何も答えない右京に対し、「すみません」と素直に謝る湊の方を見て、石橋は深いため息をついているようにも思える。
結局「とにかく、練習に集中しろ」とだけ言い残し、石橋は二人の前を去った。
サッカーとプライベートは別だとは思っていたし、それを切り分ける自信もあった湊だが、そうできない自分を目の当たりにして、更に落ち込んでいた。
片付けにとトレーを持って入った調理室に、見覚えのある姿を見つけて、湊は思わず入るのをためらった。
美都が一人で洗い物をしている。
食べ終えた食器を調理室まで運ぶことは、部員たちの義務ではあったが、用事があればそれを誰かに任せてもよく、実際にそうしている部員もいた。。
しかし、湊は萌子に頼まれていることを思い出して、心の中で小さく気持ちを固めると、中に入った。
「御苦労さま、椎名。手伝おうか？」
さりげなく隣に立ち、トレーを置く。なるべく自然にとそう言ってから、湊はちらりと美都の方を見た。しかし、美都は湊の声を聞いて、手を止めてしまっていた。蛇口からは勢いよく水が流れているままだ。
「椎名？」
そう言って湊が顔を覗きこもうとすると、美都は真っ赤な顔になって湊に背を向ける。
「いいっ、大丈夫っ、だからっ」
肩に力が入って上がっている背中を見て、湊はそうと答えた。
「なら、悪いけどこれ頼んだ」
美都は振り返りもせず、小刻みに何度も頷いている。どうしても湊と顔を合わせる気はないらしい。
もしかして、まだ顔がはれてるのかな。
美都のことだ。昨日の夜は泣いて過ごしたに違いない。そうとわかる顔を部員たちには見られたくないのかもしれない。
湊はそう思い、それじゃあよろしくと言い残して、調理室を出て行った。
しかし、湊はそれが誤解だったとその数時間後に気付く。
その後も萌子に頼まれたからと、なるべく積極的に美都に話しかけるようにしていた湊だが、美都は湊の姿を見かけると、脱兎のごとく逃げ出すのだ。追い掛 けて話すほどの用事でもないし、美都も何か気になることが他にあるのだと思っていた湊だったが、そうではないとそのうちに気付いた。美都が他の部員とは普 通に話している姿を見た時に今だったらいいかと様子を見て、その部員が立ち去るのを待ってから話しかけた時の美都の様子は明らかにおかしかったのだ。
「あのさ、椎名…」
という湊の声に、明らかに体を硬直させ、湊が何かしゃべろうとする前に、
「ごめんなさいっ」
と叫んで、走り去ってしまったのだ。
今までにはない美都の態度に、湊は戸惑った。
もしかして、昨日無視していたことで、嫌われたのかもしれない。
皮肉だな、と思いつつ、湊はそれ以上美都に話しかけるのをやめた。
午後の練習が始まっていた。
洗濯班の理香は、午前中に使ったビブスを洗って、干しているところだった。日差しは相変わらず強く、薄いビブスなら陽が落ちるまでに乾いてくれそうだ。するとそこにまりが駆け込んできて、一気にまくしたてるように話し始めた。
「ちょっと聞いてくださいよ、理香さん！
アッチ先輩、さっき私と千鶴掴まえて、何て言ったと思います？水泳部は、練習がすっごくキツくて、おまけの上下関係も厳しくて、合宿の準備は一年生が全てやることになってるんですって。それなのに、その準備で練習に出てないとコーチからサボったって見られて練習を増やされるんだって。その分サッカー部は マネージャーが五人もいるから、水泳部の合宿中の世話も、やってもらえないかって言ってきたんですよ！もう信じられない！
たしかにうちは五人マネージャーがいるけど、それでも部員の数も水泳部の五倍近くいるし、部員だって手伝って、何とかやってるっつーの！」
肩で息をしながらそう言ったまりは、その怒りに燃える目をそのまま理香に向けた。
「アッチ先輩だって私たちが大変なのわかっててくれてると思ったのに。ひどくないですか？
きっとこれもあの長江香織が猫なで声でアッチ先輩に甘えたのに決まってる！一発びしっと言ってやった方がいいですよ、びしっと！」
しかし興奮しているまりとは対照的に、理香は何も答えない。
「理香さん？」
そう問いかけると、ようやく口を開いた。
「いいわよ、そのまま放っておいて」
「理香さん！」
らしくないと怒鳴り声を上げるまりだが、理香は淡々とビブスを干し続けている。
「どうしたんですか？理香さん！」
そうまりが声を荒げたところで、萌子のが背後から聞こえてきた。
「まりちゃん？」
この日のまりは練習班だ。特に指示を受けていないのに、洗濯班の理香のところに居る理由はない。思わずビブスの影に隠れようとするまりだが、その前に萌子が顔を出してきた。
「すみませんっ、すぐに戻ります！」
「何かあったの？」
先ほどのまりの険しい声に、萌子がそう尋ねると、理香が「何でもない」と答えた。怪訝そうな表情をするまりを無視して、理香が萌子に聞き返す。
「それより、どうしたの？いいの？練習」
「うん。ちょっと気になったことがあって。美都の様子、今朝おかしいって理香言ってたよね？」
湊に自分は美都に嫌われているようだと言われて、萌子は美都の様子が気になって、話しかけてみたのだ。すると、湊ほどではないのだが、美都は顔を赤らめ て、恥ずかしそうに会話をすぐに切り上げて、逃げるようにして行ってしまう。昨日のように元気がないのとは違うが、それでも様子がおかしい。
何があったのか理香にも聞いてみることにしたのだ。
「うん。落ち込んでるって言うんじゃないけど、なんか話そうとすると、逃げられちゃうって言うか。何かあったのかな。北内くんのこと以外で」
「あの…美都さんの様子なら、昨日の夜からおかしかったですよ？」
急にまりが会話に入ってきて、萌子も理香も、まりに視線を向けた。
「ちょうど消灯時間の前に、お二人を追いかけて教室出て、戻ってきた辺りから」
「私たちを追いかけて？」
確かに消灯時間の前、萌子は理香を誰もいない教室に呼び出して、美都のことを話していた。
「でも、美都来なかったよ」
「え？そうなんですか？確かに、一緒に戻ってきてなかったですね。おかしいな、でも聞かれて、上の階にいるみたいですーとは言ったんですけど」
確かに萌子たちが教室に戻ってきた時、美都はいなかった。そして消灯時間ギリギリになって教室に現れると、おやすみなさいとも言わずに布団にもぐりこんでしまったのだ。
和美のことをまだ引きずっているんだと思ったんだけど。
萌子はふと昨日感じた物音を思い出した。
湊に対して異常に避ける態度。
恥ずかしそうに赤らめる顔。
あ…と小さく声を上げて、萌子は表情を曇らせた。
「もしかしたら、美都。昨日の話聞いてたのかもしれない」