Maybe Blue 第三部 誰かのために
夕凪5
「理香さん！」
考え事をしながら歩いていた理香を、甲高い声が引き留める。振り返るとまりだった。まりは理香の返事も聞かずに、一方的にしゃべり始めた。
「もう少し怒った方がいいですよ、アッチ先輩のこと。他の女の子に鼻の下デレっと伸ばしちゃって、情けないったらありゃしない。おまけにああやって目立つところでわざといちゃつくなんて、こっちのこと馬鹿にしてるとしか思えない！」
機関銃のように次から次へと口早に言葉を並べたてるまりをみて、別のことで頭がいっぱいだった理香はそれが自分と篤志のことを言っているのだと、ようやく気付いた。
「ここは彼女である理香さんがびしっと叱らないとケジメがつきませんよ、ケジメが―」
「まりっ！」
慌ててまりを宥めに入ってきたのが、千鶴だ。千鶴はまりの激しく揺れる肩をまあまあと抑えると、理香に向かって頭を下げた。
「ごめんなさい理香さん。この子、後片付けの時に水泳部の子に食事の味付けのことグチグチ言われて、気が立ってるんです。手伝わないのに、文句言うなんて、向こうの方がおかしいのに」
「それもムカついたけど、今理香さんに話してるのとは別のことっ。もう千鶴は黙ってて！」
今にも喧嘩を始めてしまいそうな二人を見ていて、理香ははたと気付いた。
「ありがとう、まりちゃん。でも、気にしてないから大丈夫」
「でも―」
理香の声を聞いてほっとした表情を浮かべる千鶴とは違い、まりはまだまだ納得がいかないと言った様子だ。
しかし実際に、理香は篤志以外のことを考えていた。
検査の為に入院した母親が退院するのが今日だった。夜になり、様子を聞こうと家に電話すると、出たのは父親だった。とりあえず、検査中にすぐ発見されるような大きな問題はなかったらしいのだが、帰ってきた母は背中が痛いと言って、すぐ横になってしまったらしい。
父は、検査の結果がでる合宿最終日までは気にせず、今まで通り部活を頑張れと言っているが、もし検査の結果が悪く、おまけにすぐ入院や手術となれば、理香は母親の傍についていなければならないし、店の手伝いもしなければならなくなる。当然、インターハイどころではない。
萌子に相談しようかな。
でも、まだ結果が出たわけじゃないし。
そう悩んでいたところに、水泳部の一年生と篤志が一緒にいるところに遭遇した。篤志は慌てていたようだけれど、理香にはそれをいちいち怒る気力もなかっ た。目の前で、そのことを自分のことのように心配してくれているまりを見ると、嬉しさと共に、僅かな苦さを覚える。きっと一年生の頃なら色恋沙汰で、一喜 一憂していたであろう、自分の若さを思って。
大人になりたいとは思っていなかった。むしろ、今のままでずっといれればと思っていた。
でも、そうも言ってられない。
そう気付いた時点で、着実に子供から大人へと変わる大きな一歩を踏み出していることを、理香は感じていたのだ。
「本当に、気にしてない。それより、千鶴ちゃんが言ってたことって何？水泳部の子が味付けに文句を言ったって？」
味見をしたのは理香だ。ラーメンというジャンルの違いはあれ、親が飲食店を営み、その手伝いを小さい頃からやってきている理香にとって、味付けの文句は聞き流せないことではあった。
今日の晩御飯はハンバーグだった。マネージャーが一人しかいなく手伝いができず、大会も近い為に部員は手伝えないと言う水泳部に代わって、理香や千鶴が一生懸命になって作った料理だ。
「つけ合わせの人参のグラッセが、甘いとか、どうとか」
詰まらせながらそう答える千鶴に、理香は思わず言い返す。
「人参が嫌いなだけじゃないの？だいたいグラッセは甘いものってわかってないんじゃない？」
「す、すみません」
理香の勢いに思わず謝る千鶴に、理香は、
「別に千鶴ちゃんのせいじゃないよ」
と答えた。つけ合わせの料理担当は千鶴だった。それでも、千鶴に落ち度はない。文句を言うなら、自分たちで作ればいいのだ。理香や千鶴は、水泳部の賄いではないのだから。
「もうそろそろ消灯時間よ」
そこに萌子が現れた。どうやら萌子は外に出ていたようだ。
「先生に見つかるとまずいから、戻りましょう」
そう言って三人を促しながら、萌子は理香に話しかけた。
「理香、話があるんだけど」
「何？」
萌子は小声になって理香の耳元で囁くように言った。
「ここじゃ、ちょっと。彼女たち教室に連れて行ったら、いい？」
自ら敷いた布団の上で、成は大の字になって寝っ転がった。思いのほか、体は疲れているようだ。
そうだ、ストレッチしないと。
練習の前後にストレッチをするとしないとでは、翌日の体の重さが全然変わってくる。成は、雑然としている教室の中で体を伸ばしながら、さっとその中で一人海を見て佇んでいる湊を見つけた。
ケンに言われた言葉が、重く成の体にのしかかる。
『お前さ、レックスからも誘いが来てるだろ？』
レックスは、Ｊリーグのどちらかといえば中の下いるチームだった。確かに成はレックスのスカウトから誘いを受けていた。しかも、熱心に。
しかし成としては入りたいのはマリウスで、マリウスからも誘いを受けている。しかし、マリウスとしては欲しいのはトップの若手選手だ。仮に成がマリウス一本に絞ったとしても、入れる保証はない。
『湊も第一志望はマリウスだけど、ほぼほぼないって諦めてるらしいんだよ。まあ仕方ないとは思うけど。それで次に希望しているのがレックスらしい』
レックスの本拠地は、マリウス同様湊の実家からも通おうと思えば通える距離だ。両親に楽をさせたいからプロになりたいと言う湊にとっては、最近体の調子の良くない父に何かあっても、すぐ駆け付けられる距離にいるということでレックスを選んでもいるのだろう。
『けど、レックスからは、お前が入れば、湊の枠はないって言われてるらしいよ。
だからさ、お前がさっさとマリウスに決めれば、湊もレックスに決まるってわけ。全部お前次第なんだよ』
成は単純に勉強が苦手で、サッカーをしたいからプロになりたいわけだから、そう考えればマリウスやレックスである理由はない。実はもう１チーム、成をスカウトしに来たチームもあるのだが、そのチームには成はあまり魅力を感じなかった。
けれど、そういう感覚で決めていいものかとも思う。湊のようにレックスに入りたい立派な理由が自分にはあるわけじゃない。
だったら、レックスの枠は湊の方がふさわしいような気がする。
けれどそうすることは、湊を侮辱することになるのだということを、成は分かっていた。
サッカーは実力と運が物を言う世界だ。
自分の実力不足で、運がなかっただけで、代表選手に選ばれないことは多々ある。自分より相応しいと思える選手を押しのけて、自分が上に上がってしまうこ ともある。しかしそういう時すべきことは、その選手にポジションを譲ることではない。そのポジションに相応しかったと、押しのけた選手たちに思えるよう努 力をすることしかないのだ。
頭ではわかっていても、気持ちが落ちづかず、そんな自分に成は腹を立てていた。
そうやって一人で悶々と考えて、気付けば海に出ていたのだ。
そういえば、萌子は何があったんだろう。
床に寝そべるようにしてストレッチを続けると成は、見上げた夜空にぽかんと浮かんだ月を見ながらふと思った。
悩み事があれば、海に出てしまうのは、自分だけの癖ではないらしい。
今まで何度、悩み事を抱えた萌子と海で顔をあわせたことだろうか。
何があったと尋ねると、萌子からはいやに曖昧な返事が返ってきた。
それもそうなのだろう。今まで二人に遭った出来事を思えば、そう簡単に腹の割って悩みを相談することはできない。萌子の性格を考えれば特に、だ。
成は、悩み事を何でも抱え込むその性格を知っているからこそ、海にやってきた萌子のことが気になった。
…もしかして、朔哉さんのことなんだろうか。
毎年、学校で行う合宿には、誰かしらＯＢが顔を出している。朔哉の功績や性格を考えると、絶対顔を出すはずなのに、やってこないのはやはり萌子のことがあるからなのだろうか。実際に、そうじゃなくても、萌子が自分のせいだと感じることは容易に想像できる。
俺じゃなくてもいい。
今川でも、誰でもいいから。
一人で抱え込んで、苦しまないでほしい。
そう思いながら、成はリラックスした体を再び大の字にして、天井を見上げた。
「え？あっ…」
大きな声を上げた理香だったが、ふと今の状況を思い出し、慌てて口に手をあてた。向き合っている萌子と黙りこんだまま周囲の様子をうかがったが、誰もやってこないことを確認してから、理香は声を潜めて言った。
「嘘でしょう？何で突然」
消灯までの僅かな時間。千鶴たちに聞かれるのも避け、誰も使っていない教室に理香を連れてきた萌子は、口早に美都が和美に別れを切り出されたと話した。
理香からしても、美都と和美はうまくいっていると思っていた。曖昧で小さなことにもすぐに揺らぐ、恋人とも言えない自分と篤志の関係を思うと、意外なこの恋人たちは羨ましい存在でもあったのだ。
ひと気のない教室の隅で、電気も点けずに向き合った萌子の青白い顔が、わからない、と小さく告げた。
「美都は、愛想尽かされたって言ってたけど」
「けど、美都がミッキーに当たり散らされるなんて、いつものことじゃん」
そうやって八つ当たりしているだけだから気にするなと、理香も何度も美都を慰めてきていた。
「それより、北内君はどうしたのよ。また相変わらず無視？」
萌子と理香の違いはここだ。
萌子は、和美はシャイだから、人目につくようにして美都を慰めないのだと美都に話す。しかし理香は、仮にそうだとしても、恋人である美都を和美は守るべきだと主張する。
「そういう言いかたしないでって。和美も心の中では何とかしたいんだと思ってるんだから」
「だったら言うなり行動なりしなきゃ」
でしょう？と言われ、萌子も今回ばかりは口を閉ざした。
「それで？湊君は？」
そうして美都が落ち込んでいる時に、フォローするのが湊の役目だった。しかし、今回は違っていた。湊も美都から目を逸らしたのだ。
「珍しいね」
「美都が言うには、相談ばかりして、美都のこと重荷なってるんだって」
「それじゃあ、美都も自覚はしてたんだ。湊君に甘えてたんだってこと」
萌子は曖昧に答える。甘えると言っても、美都は湊の気持ちには気付いてないだろう。湊の自分に対する気持ちを知って利用するほどの度胸は美都には据わっていない。
「どうしたらいいのかなって思って。愛想尽かされるなんてこと、美都に限ってないと思うから、和美にもそれなりの理由があるんだろうけど、下手に聞くと和 美が怒りだしそうだし、逆に頑なに美都を拒絶されても困るでしょう。だからと言って、美都は聞けるような状況じゃないし」
溜め息をつく萌子に、確かになあと理香が賛同した。
「いつもだったら、こういう時湊君に頼むんだけどね、こればっかりは…」
そうして溜め息をついた理香だったが、ふいに顔を上げて言った。
「いっそのこと、美都は北内君と別れて、湊君とさっさと付き合っちゃえばいいのに」
「理香っ」
「だって、ほとんどの人がそう思ってるよ」
あっさりそう言う理香に、萌子は小さくため息をつく。
「湊君が美都のことずーっと好きなの知らないのは、美都と北内くんくらいでしょう？ほんと、見てて思わず言いたくなるもん」
「駄目よ理香。そんなこと湊は望んでない」
「わかってるってば。…だから、余計にイライラするの」
そう言って理香が顔を上げたところで、声を上げた。
「やばい、そろそろ見回り来ちゃうんじゃないの？」
「そうだね、戻ろう」
足早に自分たちが寝床にしている教室に向かって、萌子と理香は歩き出した。隣の教室の前を通ろうとしたところで、萌子が思わず足を止める。
「どうしたの？」
心配そうに声を上げる理香に、
「なんか物音がした気がして」
と答えて、萌子は教室を覗きこもうとしたが、理香に腕を掴まれた。
「止めようよ、そんな肝試しみたいなこと。きっとゴキブリだよ、ゴキブリ。昨日も出たんでしょう？水泳部の女子の教室から。
それに、消灯時間過ぎてるのに、歩き回ってることばれたら、監督から説教されるよ」
萌子は一瞬だけ物音がした方に視線を向けたが、時間の方が気になって、理香に引っ張られるままに自分たちの教室に戻って行った。
夜中、ふいに目が覚めて、成はトイレに行きたくなった。
電灯のついていない廊下を歩くのは少し心細いが、それでも月明かりが廊下を照らしていて、道に迷うようなことはなさそうだった。むくっと起き上がった成は、ふと開け放たれた窓から聞こえてくる波音に気付いて、目を向ける。窓の手すりのところに、誰かの後頭部が見えた。
誰がベランダに？
トイレも忘れて成が顔をのぞかせると、ベランダには湊が座っていた。
軽く窓を叩くと、すぐに湊が振り返り、成を見つけると、戸惑ったような笑みを見せた。ベランダに出るドアの前には鼾をかいて寝ている興仁がいたので、成は窓枠に手をかけると、ひょいとそれを飛び越える。そうして湊の隣に座ると、二人して空を見上げた。
「星がよく見えるんだな」
二人とも、基本的には寝付きがよく、疲れきって熟睡してしまう合宿中にこうして夜空を見上げるなんてことはなかった。
お互い心に悩みを抱えてるから、眠れないってことなのかな。
成はそう思い、視線と落として隣の湊を見つめる。
今日も調子よさそうじゃなかったし。
しかしその悩みが将来のことであれば、成も全くの無関係とは言えない。どう切り出したものかと考えていると、先に湊が口を開いた。
「卒業したらどうするか、決めた？成」
「一応、プロには入りたいんだけどね」
「マリウス？」
「…ああ」
「小さい頃から、憧れてたもんな。それに、今は日本代表のリベロの伊澤さんがいるから、色々学べるだろうしね」
考えていたこと全てを言われて、成はそうなんだと答えた。
「でも、マリウスは若手のディフェンダーは基本いらないみたいなんだ」
小さい頃から共に闘ってきた仲間だった。グランドの外でも、湊と一緒にいる時間は多く、色んなことを話した。今では互いが互いの良き理解者だ。
今更取り繕う意味もないか。
すると、湊もそっかと答える。
「俺もマリウスって思ってたけど、全然無理。だったらレックスって思ったんだ。家からも通えるしさ。でも、レックスが欲しいのは成だってね。誘われただろ？」
「うん」
厭味な言い方ではない湊に、成も素直に答えた。そっか、と答えながら湊は空を見上げる。
「俺の為に、レックスけるなよ」
「湊―」
「わかってると思うけど、意外と成ってそう言うところ気にするからさ」
湊はそう言ってにやりと笑った。そこまで見抜かれていたかと、成は小さな声で謝る。
「…ごめん」
穏やかな波の音が二人の間に流れる。あとどのくらい、この凪浜でこういう時間と湊と共に過ごせるのだろうかと、成は考えた。
「覚えてる？成。大きくなったら、二人でマリウスのユニホーム着てリーグ優勝しようって話してたの」
「覚えてるよ」
「すぐには無理だと思うけど、いつかそうなったらいいな」
「ああ」
お互い卒業後にはマリウスに入れなくても、入ったチームで活躍すれば、いつかマリウスに入れることもあるだろう。
成は、新たな二人の目標を見つけて、大きく頷いた。
「もちろん、インターハイも選手権も、頑張ろう」
それが確実に二人が同じユニホームを着て、グラウンドでボールを追いかける僅かに残された試合になる。
ずっと一緒だったから、この先別々になるなんて、想像したことがなかった。
少しセンチメンタルな気持ちになって、成は夜空を見上げる。
「俺、湊とチームメートでよかったって思ってるよ」
ふいにそう口にした。今でなければ、言えそうになかった。
「俺もだよ」
そう言って湊も夜空を見上げる。大きく深呼吸をすると、塩を含んで少し重たい空気が体の中に入ってきた。
「なあ、成」
見上げながら、湊はそう話しかけた。
「俺、椎名のこともう忘れようと思う」
「え？」
突然の話に、成は驚いて声を上げると、湊を見つめた。それから、そっと立ちあがって、教室の中で誰かが起きていないかを確認したが、皆疲れているのか、数人の鼾や歯ぎしり、小さな寝言が聞こえるだけで、誰も自分たちの方に視線を向ける者はいなかった。
どういうことだと尋ねる前に、湊が淡々と語る。
「想うくらいは、いいだろうって思ってた。俺の気持ちは、誰のものでもないし、誰の邪魔もしないって。
忘れようにも忘れられないんだ、仕方ないだろうって。
彼女の笑顔が好きで、そういう時は必ず隣に和美がいて、別にそれで構わないと思ってた。それで幸せになれる自分がいたから。
でも、それは勝手な俺の考えなんだよな。
結果、俺が彼女に迷惑をかけているんだとしたら、もう俺は彼女のことを忘れるべきだと思う」
それは相談ではなかった。
もう決めたことだった。
湊はそれ以上口を開くことはなかった。二人はそのまましばらく、じっと夜空を眺めていた。