Maybe Blue 第三部 誰かのために
夕凪4
グラウンドから美都と萌子が姿を消しても、練習はすぐに再開された。だが、しばらく二人が戻ってこない様子を見て、部員たちも集中できていないようだ。ちらちらとベンチに視線を送っている部員もいた。そんな部員たちに、石橋は素早く喝を入れる。
「ほら、集中しろ、集中！」
大半の部員がその声にハッとして目の前のボールに目を向ける中で、湊にはそんな石橋の声も響いていなかった。
「湊！」
突然ケンに叫ばれて、はっと気付くと、目の前をボールが通り抜けていく。
「和泉！何してるんだ！ボールをしっかり追え！」
はいと返事をして、グラウンドを出てしまったボールを追いかける。途中すれ違う成には、肩を叩かれ、気にするなと無言で言われた。思いつめた自分の表情がどうやら成には石橋に叱られたことで落ち込んだと見えたらしい。だが、湊が思っていたことは全然違っていた。
俺の、せいだ。
俺の…。
気付いたのは、今朝美都から和美に別れ話を切り出されたと聞いた時だった。湊は美都以上に驚いた。ショックでもあった。付き合い始めた当初は一カ月足ら ずで別れると言われた二人だったけれど、月日が経つごとに、二人の関係は固いものになっているように思っていたのだ。照れ屋で言葉が足りない和美の精一杯 の気持ちを、理解して、受け止める美都。二人が付き合う前から、湊は美都をずっと見つめていた。二人が付き合い始めてからも、その気持ちは変わらなかっ た。事情を知っている部員たちからは、よく恋人のいる女を好きで居続けられると半ば馬鹿にされてきたけれど、湊の想いは変わることはなかった。
笑顔の椎名が好きだ。そう言う時は、たいてい隣に和美がいる。だから、俺は今のままで構わない。
たまに美都から相談を受けることもあった。部員のこと、サッカーのこと、学校のこと。湊は友人としてその相談を受け、自分なりに答えた。和美にはいいところを見せたいし、重荷になるかもと心配するのだが、無関係な自分には色んなことをぶっちゃけて話しやすいのだろうと思った。
だがある時から、美都と話していると、ふと別の方向から視線を感じることがあり、そういう時はたいてい和美がそこに立っていた。美都に用事があるのなら、自分を無視して話しかければいいのにと思う湊の前で、和美はじっと美都を見つめていた。
でもあれは、ただ椎名を待っていたわけじゃない。
あの視線は、そういう温かいものじゃなかった。
だから、美都が和美から別れを切り出されたと聞いた時、湊は思ったのだ。
和美は自分と美都の関係を誤解したのではないか、と。
偶然だが、ここ最近の美都からの相談事は、重い話が多かった。それゆえ、どこか人目を避けるようにして、話すことがよくあった。もともと早とちりしやすい性格の和美が、表面には出さないが人一倍嫉妬心の強い和美が、それを見て何とも思わなかったはずがない。
だから、俺のせいなんだ。
和美が椎名に別れを切り出したのは。
そう気付いてからは、美都と話せなくなっていた。また二人で話しているところを見れば、ますます和美が誤解するだけなのだ。
そしてそんな和美の誤解を確信したのは、さっきグラウンドから美都が出ていく時のことだ。駆けだした美都を見て、咄嗟に追いかけてしまいそうになった。 だが、和美のことを思い出し、湊は拳を握りしめて足をとどめた。その時、強い視線を感じた。顔を向けるとそこには和美がいて、湊をじろりと見ていたのだ。
目があったのは一瞬で、和美は何事もなかったかのように視線を逸らしたけれど、湊には和美が自分に向けたメッセージを感じていた。
お前が行けよ。
そしてそのメッセージ通りに、和美は自分は関係ないとばかりに、戸惑い立ちつくしている部員の中でいち早くボールを蹴りだし練習を再開させた。
笑顔の椎名が好きだった。そんな椎名を、影でひっそり見つめていられれば良いと思っていた。和美から奪おうなんて、思ったことはなかった。椎名が笑っている時は、たいてい隣に和美がいたから。
それなのに、自分が椎名から笑顔を奪ってしまったんだ。
グラウンドからは、変わらず石橋の怒号が響いている。
湊は唇をかみしめると、大きく顔を歪ませた。
どうしたものか。
グラウンドに戻ってきた萌子は、座ったベンチで深くため息をついていた。
美都からの話には驚かされた。結局美都は涙が止まらなくなってしまい、体調不良という理由で保健室で休むことになってしまった。一方の和美はというと、いつもと変わらぬ様子でボールを蹴っている。
まずは和美から話を聞かないととは思うが、一筋縄ではいかない和美が相手では、逆にこじれる可能性がある。
湊に相談してみようかとも思ったが、それは美都のことが好きな湊からすれば、酷になるとすぐに諦めた。
そういえば、湊は知っているのだろうか。
萌子はグラウンドで腰に手を当て、肩で息をしている様子の湊を見つめた。調子がよくないのか、何度もミスをして、その度に監督から怒鳴られている湊の姿を目の当たりにするのは珍しい。
どうしたんだろう、湊。
スタミナは人一倍あるはずなのに、それでも体力の消耗が激しいのか、表情も硬く、辛そうだ。
立ちあがろうとする萌子の隣に、ふいに笠間が腰を下ろした。
「椎名は大丈夫か？」
「…はい」
仕方なく萌子も再び腰を下ろす。笠間は手にしたボトルから水分を補給すると、
「何かあったのか？藤原は」
と話を変えてきた。右京の調子の悪さは、入学以来最悪と言っていいほどだった。本人もそれがわかっていて、なのにどうしていいのかわからないらしく、いつも以上に無愛想でいるために、部員たちからはまるで腫れ物のような扱いになっている。
萌子が何も答えられずにいると、笠間はふぅと溜め息ともとれる息を吐いて話を続けた。
「初戦は邦南だろう？おまけに場所が宮崎だと、こっちより気温も暑い。藤原の調子がこのままだときついだろうな」
誰もが気付いていることをはっきりと言われ、萌子は言葉を失った。凪浜は右京以外にもいい選手はいる。だが、右京がいるといないとで、チームの士気は大きく変わり、右京の代わりになるような選手はいない。黙りこんだ萌子をどう思ったのか、笠間はさらりと話を続けた。
「きっと沢木のことだから、不調の原因の予想はついてるんだろう？藤原は、メンタルな部分で弱い上に、それを自分で解決できるようなタイプじゃない。
そんな選手を助けるのも、マネージャーの仕事だと思うけど」
萌子が思わず顔を上げた時には、笠間の背中はもうグランドに向かっていた。
右京の不調の原因は、萌子もはっきりとわかっているわけではない。ただ、時に空を舞う右京の視線に気付くたびに、萌子にはそれが紗依を探しているようにしか思えなかった。実際、よく練習に顔を出していたはずの紗依が、 ここ数カ月は顔を出さない。今は夏休みだから、ということもあるのだが、去年などはマネージャーの数が足りなくて紗依にヘルプに来てもらっていたのだから、ここまで顔を会わせないのは右京にとって初めてのことなのかもしれない。。
…連絡を、取ってみようかな。先生に。
そう思いながら、萌子はグラウンドを走る右京の姿を見つめていた。
元気のないチームメイトの中で、成は一人息巻いていた。実際に、調子もいい。
「ほんと、タフだよな。お前」
午後の練習が終わり、汗まみれのシャツを着替えていると、隣でケンがそう声をかけてきた。
「そう、かな？」
食事の前にシャワーでも浴びたいところだが、団体生活ではそうはいかない。シャワーは食事の後、他にも合宿している生徒たちと順番に使わなければならない。
「まあ右京も湊も絶不調だから、お前が頑張ってくれないと、こっちもきついけど」
「…湊、どうしたんだろう」
成がそう呟くと、ケンが唸り声を上げてから、
「まあ、あいつも色々あるんじゃねぇの？将来のこととかさ」
将来のこと…と呟く成に、ケンがひっそりと尋ねた。
「お前は決めたわけ？卒業したらどうするのか」
「うん。だいたいは」
成は始めからプロに行くことを決めていた。実際にいくつかのチームからは幸運にも誘いが来ている。その中から、成は地元が一番近いマリウスに入ろうと考 えていた。マリウスには、成と同じポジションで長く日本代表を務めている伊澤がいる。言うなれば成の目標でもある選手だ。小さい頃から応援していたチーム だからということもあるが、伊澤の下でなら学べることも多いのではとそう思っている。
「いいな、プロか」
そう呟くケンは都内の大学から誘いが来ているらしい。右京は、早々にプロ入りを表明していたし、知朗は大学進学を決め、推薦も決まっていると聞いている。
皆、バラバラになるんだな。
楽しいことも沢山あったが、辛い時期も共に乗り越えてきた仲間だった。
寝食も共にし、いつだって学校に来れば会えた仲間たちと、集まると決めなければ会えなくなるなんて、考えたこともなかった。
…そういえば、湊はどうするんだろう。
本人はプロ入り希望だが、思ったところから声が掛かっていないとだけ聞いていた。
自分が早々に希望のチームから連絡をもらえたと言うこともあり、成はあまり仲間の進路について自分から聞いてはいなかった。皆が希望通りの道を進めるわけじゃないと言うのは、わかっていたことだった。
「湊は…どうするんだろう」
小学校から湊とはずっと一緒にやってきていた。姉よりも一緒に長い時間を過ごしたと言っても過言ではない。湊と一緒にいて、救われたことも沢山あった。その湊が同じ場所にいなくなるということを、成はうまく想像できそうになかった。
「第一希望はマリウスらしいけど、難しいみたいだな。レックスからも打診が来たみたいだけど、色々あるらしいぞ」
湊も卒業後は大学進学ではなく、プロ入りを希望している。湊の場合は、今までかかったサッカーの費用を早く親に返して、親孝行したいという理由からだ。成のように、勉強は苦手だし、サッカーは大好きだからという単純な理由ではない。
やっぱり湊もマリウスか。
一緒に入団できれば、もちろん嬉しいが、現実としてそれは難しいだろう。特にマリウスは、どちらかといえば今はトップの若手が欲しいと聞いている。タイプが違うとはいえ、成も湊もとディフェンダーの選手を二人いれても、使いどころがない。
「湊の為にもさっさと決めてやれよ」
ケンにそう言われて、脇腹をつつかれ、成は身をよじりながらケンに言い返す。
「将来のこと、そう簡単に決められないだろう」
マリウスから打診があったのは確かだが、実のところスカウトマンからは経営者側が欲しがっているのはトップの選手、もっと言えば右京だという話を、石橋 とスカウトマンが話しているのを、実は成は聞いてしまっていたのだ。右京がどのチームに入るかは部員は誰も知らないようだが、もし右京がマリウスに入ると なれば、成は入団できなくなるかもしれない。
まるでチェスの駒を動かすように自分たちも動かされているのだと思うと、少しばかり成は憤りを感じたが、それも仕方のないことだった。ユース代表もそう だ。監督が、自分が自分の目指すサッカーをする為に、日本各地から選手を集める。いくら優秀な選手とはいえ、監督と意見があわないとか、目指すサッカーに 必要ないと思われれば、招集されることはないのだ。
はっきり答えた成に、ケンは、
「お前、湊とそういう話してないのか？」
と妙に真剣な表情になって言われて、成は素直に頷いた。小さい頃は、一緒にマリウスのトリコロールカラーのユニホームを着てグランドを駆けまわろうと約束したが、最近ではそう言った話はほとんどしていない。
頷いた成を見て、ケンも、
「まあそうだよな」
と答えたものの、何か奥歯に物が挟まっているような表情を浮かべている。何だろうと成がケンのことをじっと見ていると、根負けしたようにケンが口を開いた。
「あのさ、これ俺から聞いたって湊には言わないでほしいんだけどさ…」
瞬く間に二日目の夜の練習も終わった。
風呂上がりの髪を、夜の潮風に揺らしながら、萌子は海辺に佇んでいた。美都のことを理香に相談しようと思いつつも、水泳部の分まで食事を作る理香と話せる余裕はなく、一方で萌子も美都の面倒を見たりして、また近くにまりや千鶴がいると話しづらいこともあり、話を切り出す暇がなかった。
ようやく一日の仕事も終わって二人で話せると思ったものの、気付けば理香が消えており、萌子は仕方なく一人海に向かっていた。
夕食前に、紗依に電話をして練習に来てもらえるようお願いしたが、最初はあまりいい返事が得られなかった。去年のあの積極性から思うと、意外なほどだった。しかしそれでもと萌子は食い下がり、明後日なら顔を出せると言う約束を取り付けたのだ。
でもこれで良かったのか、本当のところ萌子にはわからなかった。
紗依がサッカー部を避ける理由は、石橋がいるからだ。右京のためとはいえ、紗依を傷つけていいものかどうなのか、萌子にはわからなかった。
人目や車を避けて、防波堤のところまでやってきた萌子は、そこにある人影に気付いた。
暗くてよく見えず、目を凝らしたところで、車のライトがその横顔を照らす。
…成。
咄嗟に学校に戻ろうとしたところで、足元の砂利が音を立てる。
「萌子？」
呼び止められた萌子は、振り返るしかなかった。
「どうしたの？消灯時間まで、あまりないのに」
「うん…何だか無性に海の近くまで来たくなって。萌子こそ、こんなところに女の子一人は危ないだろう」
昔はそんな風な心配を口にしたりはしなかったのに。
そう思いながら萌子は、
「私も、同じような理由」
と答えた。このまま帰ろうとすれば、一人歩きは危険だと成はついてくるだろう。だったらいっそ、消灯時間までここにいた方がいい。
萌子はそう思った。腹をくくって萌子は成に尋ねる。
「サッカーのこと？インターハイ？」
「将来のこと、かな」
そう言って成は大きく伸びをする。
「うまくいかないな、色んなことが。何て言うか、解けないパズルみたいだ」
たまに通りかかる車のライトに浮かび上がった成の表情はもう少年と呼ぶには大人びて、それほどに成長したのだとわかる。
「萌子は？また同じようなこと？」
「じゃ、ないかな。自分のやってることが、いいことなのか悪いことなのか、わからなくなったってところ」
抽象的だなと成が笑って答えた。
「だけど、それってきっといいことでもあるし悪いこともでもあるんだよ。きっと、そういうもんだと思う」
成がそう呟くように言って、二人の間に波音が流れる。
それは、絶え間なく、永遠に続くように思える時間だった。
成の少し後ろに佇みながら、萌子はただじっと海を見つめている成の後ろ姿を見つめている。
どうしてなんだろう。
どうして成は、私が言ってもらいたい言葉が、わかるんだろうか。
萌子は黙って成の横顔を暗闇に紛れて盗み見する。
去年の夏だってそうだ。
ううん、もっと前から。
いつだって、そうだった。
萌子が悩んでいる時はいつも、成が萌子が必要としている言葉を言ってくれた。
どうして簡単に忘れられるなんて思ったんだろう。
吐き出すことで綺麗さっぱり忘れられるなんて、違ってる。むしろ言葉が心に刺さって、ますます好きになっていく。
グラウンドにいても、どこにいても、気付けば成のことを目が追いかけている。こんなんじゃいけないと思っても、気付けば元に戻っている。
それなのに、どうして忘れられると思ったの？
目の前の成が再び大きく伸びをして、その手を自分の頭の後ろへと回す。
大きな手。
日に焼けて、骨ばっていて、甲には血管が少し浮いている。
じんわりと温かい手だった。試合の後ということもあったのかもしれないが、成の体温を感じ、ドキドキした。
その手に引かれた時のことを思い出し、萌子は両手を握りしめ、自分の心に深く刻んだ。
だけど、あの手を拒否したのは、自分なんだ。
私が、選んだことなんだ。
海風が成の髪をさらさらと揺らす。
両手を下ろして、成が振り返った。
「そろそろ戻ろうか。遅れると、うるさいし」
「そうだね」
答えながら、萌子は頬に流れた涙を暗闇の中でそっと拭った。
渡り廊下で水泳部の一年女子と話していた篤志は、そろそろ消灯時間だぞと言い回る部員たちの鋭い声をはいはいと流して、彼女に向き合った。
「それじゃ消灯の時間だから」
「もうそんな時間なんですね…」
寂しそうにそう言われて、篤志も自分の顔がにやけるのがわかった。
香織と篤志が話すようになったきっかけは、合宿初日に女子水泳部が割り当てられた教室に出たゴキブリにある。偶然すぐ下の渡り廊下を歩いていた篤志はゴキブリを退治できない彼女たちに代わって、特別に彼女たちの教室入り、そのゴキブリを倒したのだ。
後処理まで全部やったおかげで、篤志はまるでヒーローのように持ち上げられた。中でも、涙を浮かべてまでお礼を言っていたのが香織で、篤志は噂通りの美少女である香織に、最初からデレデレだった。
サッカー部ではあまり頼られることのない篤志だが、香織は年下ということもあるのか、篤志を頼っているのがわかる。
不思議と守ってあげよう、という気にさせられるのだ。
サッカー部のマネージャー連中は、わりと気の強いのばっかりだしな。あるいは萌子みたいに優秀か、椎名みたいにすぐへこむタイプか。
香織を前にすると、篤志は自分が一人前の男になったような気持ちになれた。
今も、香織から水泳部がどれだけ過酷な部なのか愚痴を聞いてやっていたところだ。一人いるマネージャーというのも、忙しくて大変らしく、とてもじゃない が仕事をこなし切れていないのだと言う。合宿中の食事の準備などは、通常なら各部で平等に人を出して共同で行うのだが、一年生が部活ではなく準備の方を やったらやったで、上級生からはサボっていると見られ、その分練習量を増やされるのだと言う。篤志はそれだったら、サッカー部には五人もマネージャーがい るから、水泳部が手伝わなくても大丈夫だと大見得を切ったところだった。
「安心していいって。俺が萌子に話つけとくからさ」
そう言って笑ったところで、篤志の表情が凍りついた。正面の方からこちらに向かって理香が歩いてきているのだ。無表情で篤志の方を見ることもなく歩いていることが逆に怖い。その時、女子校舎となっている建物の中から、水泳部の別の一年が顔を出し、香織を呼んだ。
「それじゃ、日比野先輩。よろしくお願いします」
そう言って校舎に戻って行く香織に、ああと答えながらも、篤志はこの修羅場をどうすべきか考えていた。
流石に現場を見られて、知らないふりは無理だ。諦めて、篤志は先に言い訳することにした。
「あー、理香っ違うんだ、これは、成の為、引いては萌子の為に―」
自分の脇をすり抜けて校舎に入ろうとする理香にそう言いながら追いすがる篤志だが、理香は淡々と答えた。
「もう少しで消灯時間だから、先生たちにはばれないようにね」
「…はい」
肩をすくめたが、理香がそれ以上何かを追求することはなく、
「それじゃ、おやすみ」
とだけ言い残すと、さっさと篤志を置いて校舎に消えて行った。戸惑ったのは、篤志の方だ。
「どうかしたんですか？日比野先輩」
通りかかった一年にそう言われるが、篤志はそれすら聞こえないのか腕組みをして理香の消えた方向をじっと見ていた。
「…おかしいな」
今までの理香だったら、篤志が他の女の子、しかも可愛い子と話してるのを見て何も言わないはずはない。
それなのに、今は何のリアクションもしなかった。
それどころか『先生たちにはばれないように』って、何で心配すらしてんだ？
「…変なもんでも食べたかな」
「ほら、集中しろ、集中！」
大半の部員がその声にハッとして目の前のボールに目を向ける中で、湊にはそんな石橋の声も響いていなかった。
「湊！」
突然ケンに叫ばれて、はっと気付くと、目の前をボールが通り抜けていく。
「和泉！何してるんだ！ボールをしっかり追え！」
はいと返事をして、グラウンドを出てしまったボールを追いかける。途中すれ違う成には、肩を叩かれ、気にするなと無言で言われた。思いつめた自分の表情がどうやら成には石橋に叱られたことで落ち込んだと見えたらしい。だが、湊が思っていたことは全然違っていた。
俺の、せいだ。
俺の…。
気付いたのは、今朝美都から和美に別れ話を切り出されたと聞いた時だった。湊は美都以上に驚いた。ショックでもあった。付き合い始めた当初は一カ月足ら ずで別れると言われた二人だったけれど、月日が経つごとに、二人の関係は固いものになっているように思っていたのだ。照れ屋で言葉が足りない和美の精一杯 の気持ちを、理解して、受け止める美都。二人が付き合う前から、湊は美都をずっと見つめていた。二人が付き合い始めてからも、その気持ちは変わらなかっ た。事情を知っている部員たちからは、よく恋人のいる女を好きで居続けられると半ば馬鹿にされてきたけれど、湊の想いは変わることはなかった。
笑顔の椎名が好きだ。そう言う時は、たいてい隣に和美がいる。だから、俺は今のままで構わない。
たまに美都から相談を受けることもあった。部員のこと、サッカーのこと、学校のこと。湊は友人としてその相談を受け、自分なりに答えた。和美にはいいところを見せたいし、重荷になるかもと心配するのだが、無関係な自分には色んなことをぶっちゃけて話しやすいのだろうと思った。
だがある時から、美都と話していると、ふと別の方向から視線を感じることがあり、そういう時はたいてい和美がそこに立っていた。美都に用事があるのなら、自分を無視して話しかければいいのにと思う湊の前で、和美はじっと美都を見つめていた。
でもあれは、ただ椎名を待っていたわけじゃない。
あの視線は、そういう温かいものじゃなかった。
だから、美都が和美から別れを切り出されたと聞いた時、湊は思ったのだ。
和美は自分と美都の関係を誤解したのではないか、と。
偶然だが、ここ最近の美都からの相談事は、重い話が多かった。それゆえ、どこか人目を避けるようにして、話すことがよくあった。もともと早とちりしやすい性格の和美が、表面には出さないが人一倍嫉妬心の強い和美が、それを見て何とも思わなかったはずがない。
だから、俺のせいなんだ。
和美が椎名に別れを切り出したのは。
そう気付いてからは、美都と話せなくなっていた。また二人で話しているところを見れば、ますます和美が誤解するだけなのだ。
そしてそんな和美の誤解を確信したのは、さっきグラウンドから美都が出ていく時のことだ。駆けだした美都を見て、咄嗟に追いかけてしまいそうになった。 だが、和美のことを思い出し、湊は拳を握りしめて足をとどめた。その時、強い視線を感じた。顔を向けるとそこには和美がいて、湊をじろりと見ていたのだ。
目があったのは一瞬で、和美は何事もなかったかのように視線を逸らしたけれど、湊には和美が自分に向けたメッセージを感じていた。
お前が行けよ。
そしてそのメッセージ通りに、和美は自分は関係ないとばかりに、戸惑い立ちつくしている部員の中でいち早くボールを蹴りだし練習を再開させた。
笑顔の椎名が好きだった。そんな椎名を、影でひっそり見つめていられれば良いと思っていた。和美から奪おうなんて、思ったことはなかった。椎名が笑っている時は、たいてい隣に和美がいたから。
それなのに、自分が椎名から笑顔を奪ってしまったんだ。
グラウンドからは、変わらず石橋の怒号が響いている。
湊は唇をかみしめると、大きく顔を歪ませた。
どうしたものか。
グラウンドに戻ってきた萌子は、座ったベンチで深くため息をついていた。
美都からの話には驚かされた。結局美都は涙が止まらなくなってしまい、体調不良という理由で保健室で休むことになってしまった。一方の和美はというと、いつもと変わらぬ様子でボールを蹴っている。
まずは和美から話を聞かないととは思うが、一筋縄ではいかない和美が相手では、逆にこじれる可能性がある。
湊に相談してみようかとも思ったが、それは美都のことが好きな湊からすれば、酷になるとすぐに諦めた。
そういえば、湊は知っているのだろうか。
萌子はグラウンドで腰に手を当て、肩で息をしている様子の湊を見つめた。調子がよくないのか、何度もミスをして、その度に監督から怒鳴られている湊の姿を目の当たりにするのは珍しい。
どうしたんだろう、湊。
スタミナは人一倍あるはずなのに、それでも体力の消耗が激しいのか、表情も硬く、辛そうだ。
立ちあがろうとする萌子の隣に、ふいに笠間が腰を下ろした。
「椎名は大丈夫か？」
「…はい」
仕方なく萌子も再び腰を下ろす。笠間は手にしたボトルから水分を補給すると、
「何かあったのか？藤原は」
と話を変えてきた。右京の調子の悪さは、入学以来最悪と言っていいほどだった。本人もそれがわかっていて、なのにどうしていいのかわからないらしく、いつも以上に無愛想でいるために、部員たちからはまるで腫れ物のような扱いになっている。
萌子が何も答えられずにいると、笠間はふぅと溜め息ともとれる息を吐いて話を続けた。
「初戦は邦南だろう？おまけに場所が宮崎だと、こっちより気温も暑い。藤原の調子がこのままだときついだろうな」
誰もが気付いていることをはっきりと言われ、萌子は言葉を失った。凪浜は右京以外にもいい選手はいる。だが、右京がいるといないとで、チームの士気は大きく変わり、右京の代わりになるような選手はいない。黙りこんだ萌子をどう思ったのか、笠間はさらりと話を続けた。
「きっと沢木のことだから、不調の原因の予想はついてるんだろう？藤原は、メンタルな部分で弱い上に、それを自分で解決できるようなタイプじゃない。
そんな選手を助けるのも、マネージャーの仕事だと思うけど」
萌子が思わず顔を上げた時には、笠間の背中はもうグランドに向かっていた。
右京の不調の原因は、萌子もはっきりとわかっているわけではない。ただ、時に空を舞う右京の視線に気付くたびに、萌子にはそれが紗依を探しているようにしか思えなかった。実際、よく練習に顔を出していたはずの紗依が、 ここ数カ月は顔を出さない。今は夏休みだから、ということもあるのだが、去年などはマネージャーの数が足りなくて紗依にヘルプに来てもらっていたのだから、ここまで顔を会わせないのは右京にとって初めてのことなのかもしれない。。
…連絡を、取ってみようかな。先生に。
そう思いながら、萌子はグラウンドを走る右京の姿を見つめていた。
元気のないチームメイトの中で、成は一人息巻いていた。実際に、調子もいい。
「ほんと、タフだよな。お前」
午後の練習が終わり、汗まみれのシャツを着替えていると、隣でケンがそう声をかけてきた。
「そう、かな？」
食事の前にシャワーでも浴びたいところだが、団体生活ではそうはいかない。シャワーは食事の後、他にも合宿している生徒たちと順番に使わなければならない。
「まあ右京も湊も絶不調だから、お前が頑張ってくれないと、こっちもきついけど」
「…湊、どうしたんだろう」
成がそう呟くと、ケンが唸り声を上げてから、
「まあ、あいつも色々あるんじゃねぇの？将来のこととかさ」
将来のこと…と呟く成に、ケンがひっそりと尋ねた。
「お前は決めたわけ？卒業したらどうするのか」
「うん。だいたいは」
成は始めからプロに行くことを決めていた。実際にいくつかのチームからは幸運にも誘いが来ている。その中から、成は地元が一番近いマリウスに入ろうと考 えていた。マリウスには、成と同じポジションで長く日本代表を務めている伊澤がいる。言うなれば成の目標でもある選手だ。小さい頃から応援していたチーム だからということもあるが、伊澤の下でなら学べることも多いのではとそう思っている。
「いいな、プロか」
そう呟くケンは都内の大学から誘いが来ているらしい。右京は、早々にプロ入りを表明していたし、知朗は大学進学を決め、推薦も決まっていると聞いている。
皆、バラバラになるんだな。
楽しいことも沢山あったが、辛い時期も共に乗り越えてきた仲間だった。
寝食も共にし、いつだって学校に来れば会えた仲間たちと、集まると決めなければ会えなくなるなんて、考えたこともなかった。
…そういえば、湊はどうするんだろう。
本人はプロ入り希望だが、思ったところから声が掛かっていないとだけ聞いていた。
自分が早々に希望のチームから連絡をもらえたと言うこともあり、成はあまり仲間の進路について自分から聞いてはいなかった。皆が希望通りの道を進めるわけじゃないと言うのは、わかっていたことだった。
「湊は…どうするんだろう」
小学校から湊とはずっと一緒にやってきていた。姉よりも一緒に長い時間を過ごしたと言っても過言ではない。湊と一緒にいて、救われたことも沢山あった。その湊が同じ場所にいなくなるということを、成はうまく想像できそうになかった。
「第一希望はマリウスらしいけど、難しいみたいだな。レックスからも打診が来たみたいだけど、色々あるらしいぞ」
湊も卒業後は大学進学ではなく、プロ入りを希望している。湊の場合は、今までかかったサッカーの費用を早く親に返して、親孝行したいという理由からだ。成のように、勉強は苦手だし、サッカーは大好きだからという単純な理由ではない。
やっぱり湊もマリウスか。
一緒に入団できれば、もちろん嬉しいが、現実としてそれは難しいだろう。特にマリウスは、どちらかといえば今はトップの若手が欲しいと聞いている。タイプが違うとはいえ、成も湊もとディフェンダーの選手を二人いれても、使いどころがない。
「湊の為にもさっさと決めてやれよ」
ケンにそう言われて、脇腹をつつかれ、成は身をよじりながらケンに言い返す。
「将来のこと、そう簡単に決められないだろう」
マリウスから打診があったのは確かだが、実のところスカウトマンからは経営者側が欲しがっているのはトップの選手、もっと言えば右京だという話を、石橋 とスカウトマンが話しているのを、実は成は聞いてしまっていたのだ。右京がどのチームに入るかは部員は誰も知らないようだが、もし右京がマリウスに入ると なれば、成は入団できなくなるかもしれない。
まるでチェスの駒を動かすように自分たちも動かされているのだと思うと、少しばかり成は憤りを感じたが、それも仕方のないことだった。ユース代表もそう だ。監督が、自分が自分の目指すサッカーをする為に、日本各地から選手を集める。いくら優秀な選手とはいえ、監督と意見があわないとか、目指すサッカーに 必要ないと思われれば、招集されることはないのだ。
はっきり答えた成に、ケンは、
「お前、湊とそういう話してないのか？」
と妙に真剣な表情になって言われて、成は素直に頷いた。小さい頃は、一緒にマリウスのトリコロールカラーのユニホームを着てグランドを駆けまわろうと約束したが、最近ではそう言った話はほとんどしていない。
頷いた成を見て、ケンも、
「まあそうだよな」
と答えたものの、何か奥歯に物が挟まっているような表情を浮かべている。何だろうと成がケンのことをじっと見ていると、根負けしたようにケンが口を開いた。
「あのさ、これ俺から聞いたって湊には言わないでほしいんだけどさ…」
瞬く間に二日目の夜の練習も終わった。
風呂上がりの髪を、夜の潮風に揺らしながら、萌子は海辺に佇んでいた。美都のことを理香に相談しようと思いつつも、水泳部の分まで食事を作る理香と話せる余裕はなく、一方で萌子も美都の面倒を見たりして、また近くにまりや千鶴がいると話しづらいこともあり、話を切り出す暇がなかった。
ようやく一日の仕事も終わって二人で話せると思ったものの、気付けば理香が消えており、萌子は仕方なく一人海に向かっていた。
夕食前に、紗依に電話をして練習に来てもらえるようお願いしたが、最初はあまりいい返事が得られなかった。去年のあの積極性から思うと、意外なほどだった。しかしそれでもと萌子は食い下がり、明後日なら顔を出せると言う約束を取り付けたのだ。
でもこれで良かったのか、本当のところ萌子にはわからなかった。
紗依がサッカー部を避ける理由は、石橋がいるからだ。右京のためとはいえ、紗依を傷つけていいものかどうなのか、萌子にはわからなかった。
人目や車を避けて、防波堤のところまでやってきた萌子は、そこにある人影に気付いた。
暗くてよく見えず、目を凝らしたところで、車のライトがその横顔を照らす。
…成。
咄嗟に学校に戻ろうとしたところで、足元の砂利が音を立てる。
「萌子？」
呼び止められた萌子は、振り返るしかなかった。
「どうしたの？消灯時間まで、あまりないのに」
「うん…何だか無性に海の近くまで来たくなって。萌子こそ、こんなところに女の子一人は危ないだろう」
昔はそんな風な心配を口にしたりはしなかったのに。
そう思いながら萌子は、
「私も、同じような理由」
と答えた。このまま帰ろうとすれば、一人歩きは危険だと成はついてくるだろう。だったらいっそ、消灯時間までここにいた方がいい。
萌子はそう思った。腹をくくって萌子は成に尋ねる。
「サッカーのこと？インターハイ？」
「将来のこと、かな」
そう言って成は大きく伸びをする。
「うまくいかないな、色んなことが。何て言うか、解けないパズルみたいだ」
たまに通りかかる車のライトに浮かび上がった成の表情はもう少年と呼ぶには大人びて、それほどに成長したのだとわかる。
「萌子は？また同じようなこと？」
「じゃ、ないかな。自分のやってることが、いいことなのか悪いことなのか、わからなくなったってところ」
抽象的だなと成が笑って答えた。
「だけど、それってきっといいことでもあるし悪いこともでもあるんだよ。きっと、そういうもんだと思う」
成がそう呟くように言って、二人の間に波音が流れる。
それは、絶え間なく、永遠に続くように思える時間だった。
成の少し後ろに佇みながら、萌子はただじっと海を見つめている成の後ろ姿を見つめている。
どうしてなんだろう。
どうして成は、私が言ってもらいたい言葉が、わかるんだろうか。
萌子は黙って成の横顔を暗闇に紛れて盗み見する。
去年の夏だってそうだ。
ううん、もっと前から。
いつだって、そうだった。
萌子が悩んでいる時はいつも、成が萌子が必要としている言葉を言ってくれた。
どうして簡単に忘れられるなんて思ったんだろう。
吐き出すことで綺麗さっぱり忘れられるなんて、違ってる。むしろ言葉が心に刺さって、ますます好きになっていく。
グラウンドにいても、どこにいても、気付けば成のことを目が追いかけている。こんなんじゃいけないと思っても、気付けば元に戻っている。
それなのに、どうして忘れられると思ったの？
目の前の成が再び大きく伸びをして、その手を自分の頭の後ろへと回す。
大きな手。
日に焼けて、骨ばっていて、甲には血管が少し浮いている。
じんわりと温かい手だった。試合の後ということもあったのかもしれないが、成の体温を感じ、ドキドキした。
その手に引かれた時のことを思い出し、萌子は両手を握りしめ、自分の心に深く刻んだ。
だけど、あの手を拒否したのは、自分なんだ。
私が、選んだことなんだ。
海風が成の髪をさらさらと揺らす。
両手を下ろして、成が振り返った。
「そろそろ戻ろうか。遅れると、うるさいし」
「そうだね」
答えながら、萌子は頬に流れた涙を暗闇の中でそっと拭った。
渡り廊下で水泳部の一年女子と話していた篤志は、そろそろ消灯時間だぞと言い回る部員たちの鋭い声をはいはいと流して、彼女に向き合った。
「それじゃ消灯の時間だから」
「もうそんな時間なんですね…」
寂しそうにそう言われて、篤志も自分の顔がにやけるのがわかった。
香織と篤志が話すようになったきっかけは、合宿初日に女子水泳部が割り当てられた教室に出たゴキブリにある。偶然すぐ下の渡り廊下を歩いていた篤志はゴキブリを退治できない彼女たちに代わって、特別に彼女たちの教室入り、そのゴキブリを倒したのだ。
後処理まで全部やったおかげで、篤志はまるでヒーローのように持ち上げられた。中でも、涙を浮かべてまでお礼を言っていたのが香織で、篤志は噂通りの美少女である香織に、最初からデレデレだった。
サッカー部ではあまり頼られることのない篤志だが、香織は年下ということもあるのか、篤志を頼っているのがわかる。
不思議と守ってあげよう、という気にさせられるのだ。
サッカー部のマネージャー連中は、わりと気の強いのばっかりだしな。あるいは萌子みたいに優秀か、椎名みたいにすぐへこむタイプか。
香織を前にすると、篤志は自分が一人前の男になったような気持ちになれた。
今も、香織から水泳部がどれだけ過酷な部なのか愚痴を聞いてやっていたところだ。一人いるマネージャーというのも、忙しくて大変らしく、とてもじゃない が仕事をこなし切れていないのだと言う。合宿中の食事の準備などは、通常なら各部で平等に人を出して共同で行うのだが、一年生が部活ではなく準備の方を やったらやったで、上級生からはサボっていると見られ、その分練習量を増やされるのだと言う。篤志はそれだったら、サッカー部には五人もマネージャーがい るから、水泳部が手伝わなくても大丈夫だと大見得を切ったところだった。
「安心していいって。俺が萌子に話つけとくからさ」
そう言って笑ったところで、篤志の表情が凍りついた。正面の方からこちらに向かって理香が歩いてきているのだ。無表情で篤志の方を見ることもなく歩いていることが逆に怖い。その時、女子校舎となっている建物の中から、水泳部の別の一年が顔を出し、香織を呼んだ。
「それじゃ、日比野先輩。よろしくお願いします」
そう言って校舎に戻って行く香織に、ああと答えながらも、篤志はこの修羅場をどうすべきか考えていた。
流石に現場を見られて、知らないふりは無理だ。諦めて、篤志は先に言い訳することにした。
「あー、理香っ違うんだ、これは、成の為、引いては萌子の為に―」
自分の脇をすり抜けて校舎に入ろうとする理香にそう言いながら追いすがる篤志だが、理香は淡々と答えた。
「もう少しで消灯時間だから、先生たちにはばれないようにね」
「…はい」
肩をすくめたが、理香がそれ以上何かを追求することはなく、
「それじゃ、おやすみ」
とだけ言い残すと、さっさと篤志を置いて校舎に消えて行った。戸惑ったのは、篤志の方だ。
「どうかしたんですか？日比野先輩」
通りかかった一年にそう言われるが、篤志はそれすら聞こえないのか腕組みをして理香の消えた方向をじっと見ていた。
「…おかしいな」
今までの理香だったら、篤志が他の女の子、しかも可愛い子と話してるのを見て何も言わないはずはない。
それなのに、今は何のリアクションもしなかった。
それどころか『先生たちにはばれないように』って、何で心配すらしてんだ？
「…変なもんでも食べたかな」