Maybe Blue 第三部 誰かのために
夕凪3
グラウンドでは、レギュラー選手と、かつてのレギュラー選手で固められたOBチームが炎天下の元、ボールを追いかけ、競い合っていた。
「すげぇな、先輩達」
思わず試合をグラウンドの外から眺めている部員たちから溜め息が零れる。それぞれ別の大学などでサッカーを続けているとはいえ、一緒にプレーをするのは 久しぶりのはずだ。それなのにそのブランクを感じさせない息のあったパス回しは、長年築き上げてきた関係から生み出されるものなのだろうか。試合を有利に 進めているのは、OBチームだった。
今もまさに小山が俊平からのアシストを受け、シュートに持ち込もうとしたところだった。しかし、寸前のところで成がそのボールを大きくクリアする。ふぅ という溜め息が、部員たちから漏れる。すでに二点取られてもおかしくない展開だったが、成の活躍により、前半は〇対〇で終えていた。
あくまでも紅白戦だからと、普通の試合より時間は短いが、その分休憩もなく、後半が始められた。
「そういや朔哉先輩、来てないんすか？」
ふと部員の一人が、ベンチにいる田島にそう聞いているのが、萌子の耳にも届いた。
「あいつは用事があるってさ」
その答えを聞いた部員たちが、大きなため息をつく。
「残念だなあ」
朔哉を知らない一年生たちからも溜め息が零れた。それを聞きながら、萌子は本当にそうなのだろうか、と考えていた。
私がいるから、朔哉さんは来ないんじゃないだろうか。
自分が朔哉にした行為を思うと、それも当然のように思える。
本人だって行きたいはずだろうし、皆だって会いたいはずなのに。
別れてもなお、朔哉を苦しめている自分を、萌子はますます責めた。
再びシュートをクリアされ、小山はグラウンドに座りこんだ。しかし差しのべられた手に気付き、その手を掴むと立ち上がる。そして、自分を引っ張り上げた成の肩を叩いた。
「お前ら少しは手を抜いて、先輩に花持たせろよ」
息の上がっている小山とは違い、成は余裕の笑みすら浮かべて答える。
「駄目ですよ。だって全力で戦えって言ったのは小山さんでしょう」
二年前、小山がキャプテンで、まだ一年だった時の成は、伸びる力を持ちつつも、気持ちがそれに追いついていない感じがして、正直惜しいなと思っていた選手だった。身長も、小山よりは明らかに低かったはずだが、今ではもしかしたら自分より少し大きいくらいかもしれない。そう思いながら、小山は答える。
「早坂…、ずいぶんと成長したなあ」
心も、体も。
思えば今いる三年の中で、一番化けたのは成なのかもしれない。一年の時に右京と一緒にAチームになった時には、何であいつが、と陰口を叩かれるようなこともあったけれど、今では成は守りの要となっている。ユースチームに入ったのも、大きな経験と自信につながったようだ。
汗をぬぐいながら、ジリジリと照りつける日差しを仰ぐ小山に、成が答えた。
「最後の夏なんで」
日焼けした黒肌から、僅かにこぼれた白い歯が見える。
高校サッカーにはジンクスがある。選手権で優勝した三年後のチームは、再び強いチームになり、優勝を狙えるチームとなる。テレビで優勝するのを見た中学生たちが、その高校に憧れ、入学するのがその理由だと言う。ジンクスというより、自然と強い選手が集まるのは、必然なのかもしれない。
そうして入ってきたのが成たちの代だ。事実、右京を筆頭に、キャラクターも濃いが、いい選手がそろっている。それなのに、県大会では優勝できずにいることを歯がゆく思っているのは、小山たちOBだけではないだろう。
「早いもんですね。三年なんて、まだまだ先だって思ってたけど」
独り言のようにそう呟く成に、笑って小山が答える。
「そういうもんだ。あっという間に冬が来て、気付いたら卒業だぞ。悔いは残すななんて言うのは簡単だけどな、実際は悔いだらけだよっ」
ぽんと自分に向かって蹴りだされたパスを小山は追いかける。しかし少し強めだったボールは、小山の先を転がって、サイドラインを割る。
腰に手を当て、軽く息を吐きながら、小山は自分の横にぴたりと立っている成に言った。
「けど、そう言うのがないと、成長はできないんだって俺はそう思う」
そうしてボールを追いかける成の背中に、明るく答えた。
「まあ、頑張れよ」
その後試合は、一対一のドローで終わった。現役チームの一点は、カウンター攻撃からの知朗のドリブルシュートで、OBチームの一点は、湊のクリアミスから俊平が決めた一点だった。
グラウンドの端に座り込み、滝のように流れる汗をぬぐっていた柳田に、ペットボトルが差し出された。
「お疲れ様です」
「おう、沢木か。サンキュ」
柳田はそれを受け取ると、ごくごくと一気に飲み干した。冷たい飲み物が火照った体を冷やし、少し落ち着くことができた。萌子は周囲に居た他のOBたちにもペットボトルを配り終わると、柳田のもとに戻ってきて尋ねる。
「聞きたかったんですけど、柳田さんが三年生の時、試合会場で誰かが私を訪ねてきませんでしたか？」
「…あったような、なかったような」
一瞬間が開いたのは、心あたりがあったからだ。しかし、具体的に誰とまでは思い当たることはできない。はっきりいえばそう言ったことは日常茶飯事で、いちいち覚えていなかった。
「川城高校の人が来たことは？遠藤って人が来たことがあったと思うんですけど」
史央の言っていた二人を追い払った人物を、萌子は柳田ではないかと思っていたのだ。
しかし、川城と聞いても、柳田の反応は変わらなかった。
「川城？お前たちのライバルか。
…あの時は名前も知らない高校だったし、いちいち覚えとらん」
ちょっと苛立ったように答える柳田をフォローするように、隣に座っていた小山が口をはさむ。
「まあ許してやってくれよ、沢木。柳田もさ、一生懸命だったわけよ。沢木に群がってくる虫を取っ払うのにさ」
「おい小山！」
「いいだろう？もう時効みたいなもんなんだからさ。柳田って心配症だからさ、沢木のこと一番心配してたんだ。変なムシがついたら大変だって。それでお前に すり寄ってくる男は、片っぱしから排除してってたんだよ。そんなんで俺たちが卒業したらどうするんだって思ってたら、お前が朔哉と―」
「小山」
笠間が諌めるように言い、はっとしたように小山も口を閉ざした。どうやら萌子と朔哉の話は、OBたちにも周知の事実らしい。
「…ごめん」
萌子はいいえと小さく首をふる。何となく気まずくなる雰囲気の中、笠間が声を上げた。
「そうそう、今年も差し入れ持ってきたんだ。毎年で悪いけど」
笠間がそう言って近くにあった段ボールを指す。中には去年と同じでスイカが入っていた。
「ぬるくなっちゃってるだろうから、冷やして午後にでも食べてよ」
ありがとうございます、と言いながら、萌子はそういえば、と声をかける。
「これから昼食ですけど、先輩たちもどうですか？」
「いや、俺たちは遠慮しとくよ。せっかく久しぶりに凪浜に来たんだから、昼はアルジャーノンで食べるって決めててさ。あ、でも食べたら戻ってきて午後の練習も、参加させてもらうから」
小山がそう言って、立ち上がる。笠間と柳田もつられるように立ち上がった。
今から冷蔵庫で冷やせれば、午後の休憩の時にスイカを食べられるかもしれない。
近くを通った一年生の部員に、スイカを調理室に持って行ってもらうよう萌子が頼んでいると、ふいに声をかけられた。
「沢木。ちょっといいか？」
俊平の表情から、嬉しい話ではないだろうなと思いながら、萌子は頷いた。
人があまり通らなく、日陰な場所ということなのか、俊平が連れだした場所は、意外にも校舎の中だった。地学室は鍵もかかっておらず、すんなりと入ることができた。俊平はよく訪れていた場所のようで、変わんねぇなあと呟きながら、窓を開ける。
そういえば、真琴さんは元気なんだろうか。
そう思う萌子に、俊平は単刀直入に話を始めた。
「別れ切り出したの、朔哉からなんだってな。しかもバレンタインデーの日に。全然知らなかったから、びっくりした」
「…すみません」
「別に俺に謝ることねぇだろ。朔哉とお前が決めたことなんだから。
っつーかさ、俺、お前が早坂と付き合いだしたと思ってたんだけど、今お前が付き合ってるのって、他校生らしいな。しかも話題の川城のキャプテン」
淡々と語る俊平の言葉が耳に痛い。
「…すみません」
「謝る意味がわかんねぇよ。別にそれならそれで俺は構わないけど。
で、何でお前を呼び出したかっていうとだな。朔哉がお前のこと元気かどうか、教えてくれって言ってたんだ。
あー言っておくけど、あいつが来れないのはお前のせいじゃない。この夏休みはイギリスにサッカー留学してるんだってさ。それでだから」
気にするな、と言外に言っているのがわかる。素直に礼を言っても受け取る俊平ではないからと、萌子は心の中で、ありがとうとごめんなさいと言うと、少し表情を和らげて口を開いた。
「頑張ってるんですね」
もともと朔哉は努力家だった。ただ、人知れず練習をし、それを他人にひけらかす様なことはしないので、知らない人間には天賦の才能のように思われがちだった。
「俺もしょっちゅう連絡してるわけじゃないけど、相変わらずアイドルやってるみたいだぞ」
朔哉のことをからかい半分に言えるのも、朔哉をよく知る俊平だからこそだ。他人の望み通りの偶像である福山朔哉を演じ続ける朔哉ならではの悩みを知っているのも、俊平だ。
とりあえず朔哉は大学生活をそれなりに謳歌して過ごしているようだ。
そう思うと、萌子は安心した。俊平は、ほっと一息ついた萌子を見て、ふぅんと首をかしげて尋ねた。
「で、俺はどう答えたらいい？さっき聞いたままを話せばいいか？それとも、俺が見た、面だけ元気そうにやってるけどなんか微妙な顔してたって言えばいいか？」
鋭い俊平の言葉に、萌子は思わず顔を上げる。すると真っ直ぐに自分を見据えている俊平と視線がぶつかった。
実のところ、萌子はこの前の一件から、気付いたら成を見つめている自分に気付いていた。仕事をしていても、試合を見ていても、気付けば目は成を探し、追 いかけているのだ。それに気付くと、慌てて視線を逸らしはするものの、少しすればまた同じことを繰り返している。その度に、萌子は自己嫌悪に陥るのだ。
そこまで、俊平が見抜いているとは思えないが、それでもこれ以上、朔哉の優しさに甘えるようなことはしたくなかった。
「元気だった、って伝えてください」
萌子の言葉に、俊平は繰り返す。
「元気だった、それだけ？」
「それで、十分です」
史央の事を告げてまた朔哉に心配をかけたくはなかった。
「そ。わかった」
俊平は、あっさりそう答えて、俺は午後は出ないでもう帰ると言った。
「けど、最終日も来る予定だから、気が変わったら言えよ。連絡先、教えてやるから」
はいと答える萌子だったが、そんなことにはならないことがわかっていた。
昼食が終わると、再び午後の練習が始まった。
一通り洗濯を終えた美都は、午後から練習班に参加していた。グラウンドでは、石橋やコーチに加え、柳田たちOBの怒号も響いている。炎天下の為、水分補給は取るようにと言われているものの、それを理由にサボる余裕はなかった。
シュート練習を終えた湊がグラウンドの脇に置いたドリンクに手を伸ばした。調子の悪い湊は、全てのシュートを外していた。
ドリンクを飲みほしていると、そっと美都が駆け寄ってくるのが見えた。
「湊君、さっきはごめんね」
「いや、別に」
湊は短くそう答える。ちらりと顔を見たが、美都の目にはもう涙の跡は見られず、湊は少しホッとする。
「あのね―」
しかしそう言って話しだそうとした美都を、珍しく湊は遮った。
「ごめん、椎名。グラウンドに戻らないと」
「…うん。わかった。ごめんね」
湊は捨てるようにドリンクを置くと、そのままグラウンドへと駆け戻っていく。その後ろ姿を見ながら、美都は大きくため息をついた。
これで三度目だ。湊君に、逃げられるの。
今朝美都が泣きだしてしまった時、湊は戸惑っていた。おかげで練習に戻るのが遅くなったことを美都は知っている。怒られなかったかと不安になり、謝ろう と練習が終わってすぐに声をかけたが、着替えをするのに急いでいるからと断られた。その時は大して気にしていなかったが、その後昼食後に湊を見つけて声を かけた時も、用事があるからと言って湊は美都を置いていってしまった。
嫌な予感がしたが、今の美都にはそれを認める余裕はなかった。ただでさえ、和美から 別れを切り出されていると言うのに、美都にとって大切な相談相手である湊からも距離を置かれれば、誰を頼っていいのかわからない。萌子は史央と遠距離恋愛 をしている最中で、ただでさえ障害が多い。理香においては、また篤志が水泳部の女の子と仲良くしていると言う噂が流れている。そもそも、一週間後には大事な大会を控えているような状況で、美都の恋愛相談に二人が親身になって乗ってくれるかは微妙だ。もともと二人の和美の印象がよくないことは美都も気付いていたし、理香にならば、別れて正解だと言われかねない。
それに、三人で最高の夏にすると決めたのだ。自分がその足を引っ張るわけにはいかない。
どうしよう、どうしよう。
焦る気持ちが、ますます美都を追い詰める。
その時、ふいに萌子の声が響いた。
「危ない美都！」
俯いていた顔を上げた瞬間、黒い影が目の前を過ったかと思うと、そのまま美都の体に樹生がぶつかってきた。
「いったぁ…」
倒れた美都の前で、樹生は仁王立ちしている。
「おい！何ぼーっとしてんだよ！」
どうやらパスミスを樹生が受けようとして勢いよくグラウンドを飛び出したところに、美都が突っ立っていたらしい。
「ごめんなさい…」
情けないやら痛いやらで、思わず美都の目が潤んだ。しかしそれが、樹生の逆鱗に触れた。
「泣いたら許されると思うなよっ。あんたはあと少しで部活も終わりかもしれないけど、こっちはまだまだ先があるんだよ。やる気ねぇなら、さっさと辞めろって」
「ミッキー！」
「ちょっと、樹生君！」
暴言を吐く樹生を諌める望と萌子の声が聞こえたが、美都の耳には樹生の声しか届いていなかった。
思わず立ち上がると、そのままグラウンドを駆けだしていく。萌子は美都の名前を呼んだが、止まることなく美都は校舎の影に消えていく。
咄嗟に萌子はグラウンドの中に和美の姿を探した。しかし、当の和美は唖然としている周囲に混ざることなく、何事もなかったかのように足元をボールを蹴っている。萌子は次に思わず湊を探した。こういう時、湊は必ず動くはずだと。しかし、湊は顔を俯かせたままで動こうとはしなかった。
まりも千鶴も理香の手伝いで、グラウンドにはいない。
ただ一人のマネージャーである萌子が動いてはいけないとはわかっていたけれど、萌子は手にしていたスコアをベンチに置くと、美都の後を追いかけた。グラウンドを出ていく時に、背中越しに笠間の練習の促す声が聞こえてきた。
美都は簡単に見つかった。
萌子が部室の脇を通った時、中から嗚咽が聞こえてきたのだ。
「美都」
中に入ると、美都は机に伏せるようにして泣いていた。萌子に気付くと僅かに顔を上げたが、すぐにまた伏せって泣き始めた。
萌子はドアを閉めると、美都の正面の椅子に座って、その肩に触れながら言った。
「樹生君の言うことは、気にしなくていいから。さっきの練習試合でレギュラーチームに選ばれたの、青山君だったでしょう？だから、気が立ってるのよ」
すると美都は押し殺すような声で、しゃくりあげながら答える。
「…でも、確かに言う通りだと思う。私なんかいない方が、練習の邪魔にならないし」
一度卑屈になると、美都はそれを引きずる。
それに、人一倍自分に自信のない美都に、樹生の言葉はきつすぎるのだ。
「美都。そんなことないって―」
「だからきっと愛想尽かされたの、和美君にも、湊君にも」
いつもと違う方向に話が流れていき、萌子は違和感を感じながらも必死で説得する。
「和美は照れ屋だから、皆の前で美都のこと庇ったりできるタイプじゃない。長い付き合いだから、美都だってわかってるでしょう。湊だって、和美を差し置いて動けるわけないじゃない」
一緒に過ごせる最後の夏だった。
あと一週間したら、美都にとって最後の大会が始まる。
理香の言う通り、大事な夏を、萌子は想い出になるいい夏にしたかった。
しかし、美都はううんと激しく首を左右に振った。
「きっと、もう嫌になったんだと思う。私のこと。だから、別れようって言ったんだよ」
別れる？と萌子の表情が曇る。
初めて聞く話だった。それに、昨日の美都は幸せそうだった。夜も和美を呼びだしていたし、帰ってきたのは消灯時間ギリギリだった。確かに浮かない表情はしていたけれど。
どういうことかと聞く前に、美都はどんどん一人で話を進めていく。
「湊君にも嫌われたの。私がいつもくだらない相談ばっかりしてるから、きっと重荷になったのよ」
「え？」
だが萌子が何か聞きだそうとする前に、美都は再び机に伏せると、声を上げて泣き始めた。