Maybe Blue 第三部 誰かのために
夕凪2
理香は大きくため息をついて寝がえりを打った。
静まり返った教室で、聞こえてくるのは一年生のまりの穏やかな寝息だ。練習には慣れてきたとはいえ、学校での合宿が初めての千鶴とまりの一年生コンビは、初日を慌ただしく過ごし、疲れ切ったようで、今はぐっすり眠っている。
理香は目を開き、隣で眠る萌子を見つめた。起きてたら相談しようかとも思ったけれど、どうやら萌子も眠っているようだ。
でも、萌子に相談するのもムシのいい話なのかもしれない。
理香は千鶴とまりが入部した時のことを思い出した。本来なら、マネージャーの引き継ぎ期間は三カ月ほどの為、次の世代のマネージャーが入部するのは、他の部員たちより半年近く遅れてということになっている。しかし、石橋が同時に取ると決めたのは、美都がインターハイを最後にマネージャーを引退することに なっていたからだった。
大所帯になったサッカー部をマネージャー二人で回すのはキツい。おまけに選手権を前にしてマネージャーが引き継ぎでばたついて選手たちに負担がかかるよりは、ということで、この春から二人が入部することになった。
しかし、理香は最初それを反対していた。もとより、美都にも選手権までは一緒に頑張ることを願っていた。でもそれは、理香の希望であって、現実に大学受験をする美都にすれば、選手権まで部活を続けることはできなかった。
わかっていたけれど、三人一緒に引退をしたかった。
楽しいことも、嬉しいことも、悔しいことも、悲しいことも、全部一緒に経験した仲間だったから。
結局、理香は現実を受け止め、千鶴とまりが入部した。
そして予定通り、インターハイが終われば、美都はサッカー部を引退する。
だけどもし、夏が終わったら、萌子一人になっちゃうって言ったら…やっぱり怒るよね、萌子。
理香はそう思い、更に深いため息をつく。
理香だって、最後まで萌子や部員と共に戦いたいし、そうするつもりだった。
だが、昨日。合宿の準備をしていた時に、思いがけぬところから理香の描いた高校生活が変わり始めたのだ。
後片付けも終わった店に呼び出された理香は、いつもとは違い暗い表情の両親を見て、嫌な予感はしていた。梅雨が始まった頃から、背中が痛いと言いだした母親が梅雨が明けてもその痛みが消えないからと、店の定休日に病院に行ったのは、理香が静岡に合宿中のことだった。
帰ってきても、何も言わないと言うのは、問題がなかったんだろうと思っていた理香に伝えられたのは、母親が検査入院することになったという話だった。
「…どういうこと？」
目の前が急に真っ暗になった気がして、理香がそう言うと、母親も詳しいことは分からないのだと言う。
「ただちょっと気になるところがあるから、一度入院してちゃんと調べてもらった方がいいってお医者さんが言うのよ」
しかもなるべく早い方がいいということで、明日から一日入院するのだという。
痛む母親の背中をさすりながら、父親も言う。
「とりあえず、一週間は鈴木君が続けてバイトしてくれることにはなったんだけど、お盆になったら鈴木君も実家に帰るそうなんだ」
鈴木は理香の実家のラーメン屋・小池軒のバイトをしている大学生だ。母親の体調が悪くなった時に、父親が思い切ってバイトを入れたのだ。思いのほかよく 働いてくれるということだが、理香は夜中によく父親が売り上げの計算をしながら溜め息をついていることを知っていた。バイトが入った分、いままでかからな かった人件費がかかるのだ。
もともとバイトを入れるのも夏の間だけというだったが、この先理香の母親が入院するとなれば、その間もバイトを雇わなければならないし、入院費もかかる。
「お店のことは私も手伝うから。それよりママ、体は大丈夫なの？」
理香はそう言って心配そうに母親を見つめた。母は、そんな理香に優しく微笑む。
「まあ大丈夫よ。検査するってのも、念のためってことみたいだし。理香は私のことよりも、サッカー部のこと頑張ってね」
だったらいいけど…と理香は不安げに体調のおかげで少し痩せた母親を見つめた。
店を手伝うとは言ったものの、理香にはサッカー部のマネージャーという仕事がある。お盆のあたりはサッカー部も休みになるので店の手伝いはできるが、そ の後は練習が終わってからになり、帰宅するのは夜の七時を過ぎる。学校が始まれば、もっと遅くなるだろう。そうなれば、アルバイトは引き続き必要になる。
加えて、理香は来年短大に進学する予定なのだ。
大丈夫かな、お父さん。
精神的にも金銭的にも、負担は大きいはずだ。家のことを考えれば、バイトの代わりに理香が手伝えばいいのだが、そうすると部活には出れなくなる。三年のこの時期、それは引退を意味する。
こんなはずじゃなかったのにな。
大した悩みは今までなかった。あえて言うなら、篤志のことくらい。それも最近は理香の方も諦めたのか悟ったのか、今日篤志が水泳部の女子と楽しく話をしていたと聞かされても、以前ほど動揺しなくなっていた。それに理香は、篤志が知らない彼女の秘密を知っている。
なのに、大事な時期に限って、悩み事はどうにもならない勢いで一気に押し寄せてくる。
『高校最後の夏を、最高の夏に』
二人にそう言ったのは、その思い出がなければ、この先にあるかもしれない試練を自分が乗り越えて行けそうにないと思ったからだ。
絶対、最高の夏にしてみせる。
理香はそう思いながら、もう一度寝がえりをうった。
翌朝、目を覚ますとすでに布団が一つ挙げられている。まだ寝ている面々を見て、成はそれが知朗であることに気付いた。
合宿中もランニングか。
知朗の隠れた努力には、成も頭が上がらない。
なんて人ごとじゃなく、俺も明日から始めようかな。
そう思いながら手洗い場で顔を洗っていると、のそっとした影が自分の隣に立つ。
「おはよ」
「ういーっす」
大きな欠伸をしながらケンはそう答えると、ふと気付いたように自分の顔を洗うのも忘れたように成の顔をまじまじと見つめた。
「なんか俺の顔についてる？」
もう一度顔を洗うべきかと悩む成に、ケンは瞬きもせずに答えた。
「いや。…思ったんだけどさ。お前、彼女作れ」
「何で急に。しかも朝っぱらから？」
冗談かと思いきや、ケンはいたって真面目な表情で答える。
「昨日一晩考えたんだ。萌子が今川とイマイチ盛り上がってない理由。それはお前だ。成」
「え？俺？」
「お前がいつまでたっても、彼女を作らないから、萌子は気兼ねしてんだよ、お前に」
指でさされ、そう断言された成は思わず息をのんだが、振り返って冷静になって答えた。
「何で萌子が気兼ねするんだよ。だって俺はふられたわけで」
それに萌子を祥子のことで傷つけもした。
俺を恨みに思うことはあっても、気兼ねなんてする必要はない。
「だからさ、あいつの性格考えてみろよ。お前のことをふって選んだ今川のことを、皆の前で楽しそうに話せるわけないだろう？」
「そっ…、かなあ」
言われるとたしかにそんな気がしてきて、成はいくらか心を揺らした。そんな成を満足そうに眺めながら、ケンは成の両肩にぽんと手を置く。
「つーわけで、コンパだ。ちょうど篤志が水泳部の可愛い女子とお友達になったみたいだし、誰か紹介してもらおうぜ。俺も、お前のことが心配だから参加する」
ちょうどそこに起きてきたばかりの篤志が欠伸しながら、口をはさんだ。
「そんなこと言って、お前がコンパに参加する理由が欲しいだけだろ？ケン」
「違うって！おい、篤志、誤解すんなよな。とにかく、水泳部の子に話つけとけよ」
「どうかな。香織ちゃんも忙しいみたいなんだよね」
「香織ちゃんだと？！なに名前で呼んでんだよ！おい篤志ぃ〜」
そう言って成の肩に置いた両手を、ケンは篤志の首元に持ってくると、絞めるふりをする。篤志の叫び声が廊下に響いたところで、教室から顔を出した由太がぴしゃりとその声を静める。
「お前ら、さっさと顔を洗って食堂に行け。食べたら、すぐに練習始まるぞ」
「はーい」
仲良く手を上げたケンと篤志を見つめながら、成は僅かに口許を引き締めた。
午前中の練習が一段落して、休憩になり、湊はタイミングを見計らってベンチに居る萌子に尋ねた。
「あれ？椎名は？」
今日は朝から美都の姿を見ていなかった。湊は、美都が昨日和美にうまく話せたのかが気になっていたのだ。萌子は部室から持ってきた物を確認しながら答える。
「美都は洗濯班。部室の辺りにいると思うけど。何かあった？湊」
「何でもない」
この様子だと、美都は萌子にはまだ話していないようだと思い、湊は部室を覗いてみようかと考えた。部室の脇には洗濯機があるのだ。そのくせ物干し台があ るのは、体育倉庫の脇。洗濯班になると、濡れて重くなった洗い物をそこまで運ばなければならないので、結構な重労働だ。担当は料理班と、練習班と、洗濯班 とに分かれ、日替わりで交代することになっている。
持ち物をチェックしていた萌子は、あれ？と声を出して、隣を通ったまりに尋ねる。
「ビブスは？まりちゃん」
「ごめんなさい。持ち切れなくて。あの、あたし料理の買い出し頼まれちゃって行かなきゃいけないんですけど。なんか、今日の料理班、理香さんしかいないらしくて…」
今回同時に合宿を行うことになった水泳部は、人数の割にマネージャーが一人しかおらずに、共同でやらなければならない合宿準備には、サッカー部のマネージャーが多く手伝うことになっていた。萌子は仕方ないと立ちあがる。この休憩が終われば、すぐに練習試合が始まる。その時にチーム分けをするビブスがなければその練習試合も始めることができない。もう一人の一年生の千鶴は洗濯班で、今頃は洗濯ものを干している頃だった。
「わかったわ。私で何とかする」
「それじゃ、俺が持ってくるよ。萌子もここ離れられないんだろ？」
ベンチの後ろの日陰のところで、麦茶が出なくなったと部員たちが騒ぎだしている。大方飲みきってしまったのだろうが、そうなるとマネージャーの誰かが用 意しなければならなくなる。今グラウンドに居るのは萌子だけだった。部室に顔を出す予定だった湊がそう言うと、萌子が笑顔でありがとうと答えた。
グラウンドを過りながら、湊は昨日、美都からの相談事を聞いた時のことを思い出す。湊は素直にそれを喜んだ。
「本当に？大歓迎だよ、そんな相談事なら」
最初にいつもごめんねと謝った美都に対しての返答に、それでも美都は素直に受け取れないのか、まりと千鶴のことを心配し始めた。湊が二人も喜ぶと返す と、そこで美都の表情はようやく安心したようだった。何となく気になって、和美のことを聞いてみたら、まだ話してないのだと言う。
「彼女が近くで応援してくれることを、喜ばない男はいないって」
湊はそう言って、すぐにでも和美に相談するようにと美都を諭した。あの後、夜の自由時間になってふらりと教室を出ていく和美の姿が廊下に見えたから、 きっと美都が和美を呼び出したと湊は思っていた。実際和美が戻ってきたのは消灯時間ギリギリで、和美の割り当てられた隣の教室から、遅くなった和美をから かう声が聞こえてきもしていた。
美都が、このインターハイで引退せずに、選手権まで一緒に頑張ると言う話は、湊の気持ちにも影響を与えていた。
クラスも違う二人の、唯一の共通点が部活だ。
美都には和美がいるとは知りながら、それでもどこかで美都を感じながらサッカーを続けることは、湊のモチベーションを上げていた。
報われない想いなら、いっそ早く忘れてしまいたい。そう思う人もいるとは思う。
だが湊は、報われない思いだからこそ、いつかは忘れなきゃいけない時が来るからこそ、少なくともこの凪浜にいる間は、大事に向き合っていきたいと思っていたのだ。
美都の姿はすぐに見つかった。
ガタガタと揺れる洗濯機を前に、沢山の洗い物にうずもれる様にして、美都は座り込んでいた。
「どうかした？椎名。ぼーっとして」
「みっ…湊君」
声をかけると、美都はびくっとして立ちあがった。手に持っていたタオルがひらりと足元に落ちる。
「ほら、タオル落としてる。…椎名？」
そう言って落ちたタオルを拾い上げたところで、湊は美都の表情に気付いた。
目の周りを赤くして、美都はぼろぼろと涙をこぼしていたのだ。
「…どうしよう、私。
和美君に、別れようって言われた」
そろそろ休憩も終わると言うのに、仕事を頼んだ湊が戻ってこない。
湊のことだから、美都の手伝いして、遅れてるのかも。
グラウンドにマネージャーが誰一人いないことには気が引けるが、それでも練習時間が遅れるよりはと萌子が立ちあがったところで、グラウンドに現れた面々に、萌子は思わず声を上げる。
「笠間さん、小山さん、それに柳田さんも！」
そこにはサッカー部ＯＢ達が並んで立っていた。
「元気か？沢木」
「もっ、ってなんだよ、もって」
「まあまあ細かいことは気にするなよ、柳田」
そしてその後ろから、俊平がひょっこりと顔を出す。
「相変わらずな感じだな」
「細谷先輩！」
そういう細谷の後ろからも、今年の春凪高を卒業した部員たちがぞろぞろと顔を出す。雰囲気が変わった気がするのは、私服だからという理由だけではなさそうだ。
萌子の声を聞きつけて、他の部員たちもが集まってくる。
「どうだ、調子は。インターはもうすぐだろ？」
「聞いたぞ、県決勝で負けたそうじゃないか。しかも無名の高校に」
「柳田さん、古いっすよその情報。川城は無名なんかじゃないですから」
思わずケンが言い返すと、フンと鼻を鳴らして柳田が答えた。
「無名でも有名でも、負けは負けだ。お前らの腐った根性、俺が叩き直してやる。沢木っ、これからの予定は？」
「練習試合ですけど」
「よし、現役対ＯＢだ。今すぐ着替えてくるから待ってろっ」
言うなり駆けだした柳田の背中を萌子が心配そうに見ていると、笠間が「監督にはちゃんと話してるから大丈夫」と答えた。着替えにと部室に向かっていくＯＢたちの後ろ姿を見つめながら、萌子はその中心に居るべきはずの人物がいないことに気付き、顔を俯かせた。
少しして、湊がビブスを持って萌子の前に現れた。
「ごめん、遅くなって。あれ？練習試合は？」
「スペシャルゲストのおかげで少し遅れてやることになった。すれ違わなかった？笠間先輩たちと」
萌子がそう尋ねると、湊は照れ笑いを浮かべるだけで何も答えなかった。それじゃあとグラウンドに入っていこうとする湊に、萌子は気になって声をかける。
「美都、何かあったの？」
そう言えば昨日、戻ってくるのも美都は消灯時間ギリギリで、今朝もどこか浮かない表情だった。体調が悪いのだとしたら、校舎内での仕事が多い料理班の理香と代わってもらった方がいいのかもしれないと思い、萌子が、
「もし体調が悪いなら、理香と代わってもらったりできると思うけど」
と続けると、湊は首を傾げてから、
「そんなことはなさそうだけど。少し寝不足みたいだね」
とだけ答えた。すぐに背を向けた湊が気になって、声をかけようとした萌子だったけれど、そこに着替えを済ませた柳田たちが到着して、すぐに練習再開となった。
「はぁー」
大きくため息をついては見たけれど、聞こえてくるのはグラウンドからの歓声だけで、誰も理香に「どうしたの？」とは尋ねてくれなかった。
合宿中の仕事の中で比較的楽な料理班とはいえ、目の前に山のように積まれたじゃがいもの皮を一人でむくことを思ったら、気が滅入った。水泳部のたった一人のマネージャーは、練習中は部の仕事があるとかで、昼食の三十分前にならないとこっちを手伝いには来ない。まりは練習班、千鶴は午前中は洗濯班になって おり、この山のような野菜を理香一人で剥かなければならないのだ。
おまけに理香には、考えても答えのない問題が目の前に大きく立ちはだかっている。
「あーっ、もうっ！」
思い切って叫んでみると、ドアがガラガラと開いて、聞き覚えのある声がした。
「驚かせんなよ」
「一馬っち！どうしたの？」
理香の声に一馬はあからさまに顔を歪めた。
「お前が大変だから、手伝えって萌子が」
「練習はいいの？」
「笠間さんとか来て、練習試合中。他に包丁つかえる奴もいないだろ」
一馬は喫茶店でバイトしているおかげで、簡単な料理なら作れる腕前だ。他は家の手伝いをしたこともないような部員だらけなのだ。
「けど、お前がまだ変な呼び方するんだったら、俺は練習に戻る」
そう言って理香に背を向けた一馬に、思わず理香は猫なで声を出す。
「ごめんごめん、許してよ、一馬」
一馬は一瞬顔を歪めたが、仕方ないと理香の隣に立ち、包丁を手にした。
実際、一馬の手際はよく、理香はその風貌とのギャップに少し驚いた。
「家でも料理するの？」
「たまに。マスターに色々教えてもらったんだ」
「へぇ。偉いね」
「それでさっき叫んでたのは、篤志のことか？」
いきなり言われて、理香は思わず手を止める。
「違うよ。水泳部の子のことじゃない」
そういえば去年も、篤志のことで悩んでいた時、一馬はアドバイスをくれたなと理香は思いだした。
「余裕だな」
「慣れだよ、慣れ」
そう答えて、理香はそれに、と言葉を繋げる。
「アッチって無理なとこばっか狙うからさ。心配しても、取り越し苦労で終わるんだよね」
今回だってと思う理香に、そうかと一馬が答えた。そうやって話をしながら作業をしていると、山のようにあった野菜は残り僅かになっていた。そろそろ練習試合が終わるから戻ると言う一馬の背中に、理香は慌ててお礼を言った。
「ありがとう。一馬。助かった」
「礼なら萌子に言ってくれ。大野を買い出し班に回して、あいつも忙しそうだったぞ」
用意したはずの野菜が足りず、理香は偶然通りかかったまりにその買い出しを頼んだのだ。
「うん。わかった」
軽く手を振りながら、理香は思う。
そんな萌子に、迷惑かけるわけにはいかない、と。