Maybe Blue 第三部 誰かのために
夕凪1
夏休みが始まった。
同時に、凪浜高校サッカー部はインターハイまでの厳しい合宿の日々がスタートした。すでに静岡での短い合宿を終え、それから凪浜に戻ってきてまたすぐに 学校での４泊５日の合宿。一日挟んで、今度はインターハイの行われる宮崎に飛び、合宿をしながらインターハイを迎える予定だ。
厳己は一学期をもって、サッカー部を引退した形になっているが、その他のＡチーム以外の大半の三年生はこのインターハイが終わると同時に引退することになっていた。
美都もそうだ。
美都は行きたい大学の学部の推薦枠が、凪高にないことから、一般入試をするつもりだった。今の状態では、ぎりぎり合格できる範囲だけれど、選手権まで部 活に参加するとなれば、合格できるかは微妙だ。両親は浪人してもいいと言ってくれてはいるが、姉二人が大学と短大に進学している状況で、そこまで家に余裕があるとも思えなかった。
引退の時期は、萌子と理香にも話していたし、石橋も了解していることだ。
けれど、最近ふとした時にそれでいいのだろうかと胸が騒ぐ。
全速力でグラウンドを駆け抜ける選手を応援している時、練習の最後に、ありがとうございましたと全員で声を出す時、あと一月後には確実にここに自分がいないと思うと、胸が靄で覆われたようなすっきりしない気分になった。
一つには、先日の川城高校との決勝戦のことがあるのは、美都もわかっていた。最初は確かに川城に流れが向いていたが、後半から凪高のペースへと変わった。
あと十分、いいえあと５分でも試合時間が長ければ、きっと勝っていたのに。
実際、試合内容でも遺恨を残す内容で、選手たちの中では打倒川城を上げる者もいるくらいだ。
インターハイには、神奈川県から二校出場できることになっており、今回は一位の川城と二位の凪浜が出場するのだが、組み合わせで対戦するとしたら決勝戦でしかなく、それは不可能に近い。次に、川城と対戦するとすれば、それは選手権の予選でしかなかった。
もう一度、あの試合の続きを見守りたい。
それまで、皆のことを応援したい。
今まで思ったことのなかったそんな気持ちが美都の中に小さく、しかし確かに芽生え始めていた。
「はじまったね、合宿」
割り当てられた教室に荷物を運び込んだ理香が、そう言った。先の静岡合宿には一部の部員しか参加できず、美都はこれなかった為に、この合宿が三人で過ごす最初の夏の合宿だった。
「高校最後の夏だね」
感慨深くそう言った理香に、萌子も美都もそうだねと答える。まりと千鶴の一年生コンビは、部室の片づけがあるとかで、教室には三人しかいなかった。窓を開け、吹き込んできた風を受けて、あのねと理香が言った。
「一緒に過ごす最後の夏でもあるでしょう。だからあたし、今年の夏は最高の夏にしたいの」
「最高の夏？」
そう繰り返した美都に、理香がうんと頷く。
「一生の思い出になるような夏。この先辛いことがあっても、乗り越えていけるようなそんな夏にしたい」
いつになく真剣な表情の理香に、萌子も思わず答える。
「最高の夏、か」
そしてそれはこの凪浜で三人で過ごす最後の夏になる。
「しっかし、右京はどうしたんだ？絶不調じゃんか」
割り当てられた教室に荷物を置いたところで、教室を出ていった右京をちらりと見たケンが口を開いた。
右京は荷物を置くと、広げることもせずに教室を出て行ってしまった。練習が始まる頃には戻ってくるのだろうが、最近の右京はいつにもまして、人を避けるようになっていた。右京自身も自分の不調を持て余しているのかもしれないと、皆見守る体勢だ。
「邦南に勝つためには、右京は外せないんだけどね」
呟くようにそう湊が答えた。
チーム全体の雰囲気としては悪くはない。だが、要になる右京の調子がよくなければ、初戦の邦南に勝つ可能性は低い。
邦南は、十五年連続インターハイ出場を決めているチームで、それ以外の全国大会でも、必ず上位に入ってくる強豪チームだ。飛びぬけた選手がいない代わりに、粒ぞろいが多い印象は、軍隊的で、見事としか言いようがない。
一方の凪浜は、調子をあげてきたとは言ってもやはり攻撃の要である右京の存在は大きい。
「膝の調子が悪いとか？」
去年受けた手術を思い出し、ケンの背後で鞄を枕に寝転がっていた篤志が尋ねるが、
「いや、それはない」
と興仁が答える。
それじゃあ、と考えてみても、その理由を誰も予想できなかった。
以前に比べるとその距離はずいぶん近づいたとはいえ、右京と親しくサッカー以外のことを話している部員は誰もいない。
あ…と思いだしたように篤志が言う。
「萌子、知らないかな」
唯一右京が心を許しているように思えるのは萌子だった。部員にとって二人の関係は、恋人とも友達とも言えない不思議な関係なのだ。
「気付いてたら、あいつの場合先に動いてるだろ」
ケンがそう言うと、誰もが納得して口を閉ざした。
つい数週間前まで続いていた萌子と部員たちとのぎこちない関係は、決勝戦の一件で水に流されていた。今は、いつものように皆が萌子に接している。
ふいにケンが口を開いた。
「それよりさ…。萌子ってうまくいってるんだよな、あいつと」
「あいつ？」
首をかしげた興仁に、ケンがちらりと成を見てから苛立たしく早口に答えた。
「だーかーらっ、今川だよ。川城の」
篤志が、口を開く。
「そりゃいってるんじゃないの？…ってケン。何か企んでる？」
ジロリと睨まれて、ケンは振り返ってばーかと答えた。
「違うって。逆だ、その逆。
俺なりに、色々反省して。で、これからは、同じ遠距離恋愛の先輩として、あいつのこと応援してやろうかと思ってさ」
先輩ねぇと興仁は呟いてから、ふと気付いたことを口にした。
「そういや萌子から、今川の話って聞いたことないね」
「そんな雰囲気じゃなかったじゃん、そもそも」
篤志はそう言うと、まるでお前のせいだとばかりにケンの方を見た。ケンが気まずそうな表情をして自分に背を向けたのを見て更に口を開く。
「それに萌子ってそういうタイプじゃないし。朔哉さん時もそうだったろ？」
そういえば…と誰もが納得した表情をする。
朔哉の時も、少し雰囲気の変わった朔哉とは違って、萌子は良くも悪くも変わらなかった。
だけど…と興仁は思う。
だけど、成の時は、違ってた。
付き合い始めてすぐは、やっぱり幸せオーラがにじみ出てたもんなぁ。
だがそれも一カ月くらいのことだったと興仁は思い直す。その後は、それこそ修行僧のように二人して苦々しい表情をいつも浮かべていた。
「いいよな？成」
「え？」
突然話を振られた成は、思わず声を上げた。ケンが気まずそうにちらちらと成を見て、言葉を詰まらせながら続ける。
「その…一応、お前にも聞いておかないとと思ってさ」
成は思わず何度か瞬きをする。
いいも悪いも、今の自分は萌子にとってはただの部員でしかない。
成としては、萌子のことを応援することにしたのだ。萌子が幸せになるのであれば、当然止めることもない。
「いいよ、全然。俺もそれにのるし」
成がそう答えると、ケンは力強く頷いてから後ろ居るはずの篤志を振り返った。
「それじゃまず、事情聴取だ。篤志。理香に話聞きに行くぞ！あれ？」
しかしそこにあるのは篤志の鞄だけだ。キョロキョロと教室を見渡すケンに、興仁が飄々と答える。
「篤志なら、水泳部見に行ったぞ。今回は水泳部が一緒の期間だから、挨拶してくるって。なんか一年で可愛い女の子がいるとかどうとか」
それを聞いたケンは思わず立ちあがって答える。
「何？俺もいく！」
バタバタと慌ただしく教室を出ていく部員たちの足音を聞きながら、由太は開け放たれた窓から望む海を見つめながら、決勝戦の後のことを思い出していた。一人、物陰で泣いていた萌子を見て、由太はその原因が恋人である史央にあると思った。偶然通りかかった史央に思わず詰ったが、史央の浮かべた驚きの表情に嘘はなく、由太は二人の交際がまだ始まっていないことに気付いた。しかしそう言った由太に対し、史央ははっきりと答えたのだ。
「沢木がそう言ったのならそうだ。俺の気持ちはもう決まっているから」
史央としては付き合いたいと言うことなのだろう。
それはつまり、鍵を握っているのは萌子になる。
しかし部員に対し、史央と付き合っていると言ったのは萌子だ。
実際は付き合っていないのに、部員に対しては嘘をついた。
何故。
相思相愛ならば、史央の気持ちに萌子が答えればいいだけなのに、何故そうしない。
何か問題があるのか。
あるとすれば、どんな問題なのか。
あいつは、萌子は、何を一人で抱えているのか。
この数日間、由太は気がつけば萌子を見て何度も考えていた。
答えはまだ見つからない。
しかし萌子を見るうちに気付いたことがある。
以前に戻ったように見えて、萌子は時折深いため息をついていた。
今までであれば、部内の居心地の悪さだと思っていただろう。
だが、その問題もなくなった今、萌子を悩ませている問題はないはずなのだ。
そう、史央との一件以外は。
さっき、ケンたちは萌子が史央の事を語らない理由を探していた。
だが、由太からすれば、萌子が史央の事を語らないのは、当然のことなのだ。
何故なら、二人は付き合っていないのだから。
「わりぃ、絆創膏くれ」
グラウンドから抜けてきたケンがそう言って萌子に手を差し出してきた。萌子は救急箱の中から絆創膏を抜き出してケンに渡す。どうやら膝をすりむいたらしい。ケンが絆創膏を貼りつける前に、消毒と萌子がマキロンをかけると、ケンは苦々しい表情を一瞬だけ浮かべたが、されるがままになっていた。その隙に萌子 はケンの手から絆創膏を奪うと、代わりに貼り付ける。サンキュとケンが答えた。
グラウンドの中ではまだ練習が続いている。すぐに戻ろうとしたケンだったが、ふと思い出したように萌子に振り向いて口を開いた。
「あのさ、萌子」
「うん？」
「テレカ、欲しくなったら言ってくれ。結構持ってるから、俺」
「うん？ありがとう」
ケンの言いたいことが何かわからなかったけれど、とりあえず気を使ってくれているようだと萌子は礼を言う。すでに萌子の頭の中は、合宿中の仕事のことでいっぱいだったのだ。
食事は美都に任せたとして、洗濯は理香と一緒にやらないと。あと、インターハイの宿泊所の手配と…。
そうだ、来年のことも考えて、まりちゃんか千鶴ちゃんに頼んでみてもいいかもしれない。
そんなことを考えていたから、ケンが戻ってきて萌子の傍に座り、話し続けていることにもあまり気付いていなかった。
「つーか、今頃あっちも合宿中とかだよな。連絡取りづらいよな」
練習中であることを気にしてなのか、ケンの声は小さい。
「え？アッチ？篤志なら、そこにいるけど」
指差した萌子を見て、ケンは深いため息をつく。
「篤志じゃねぇよ。今川だよ、今川」
「今川って、川城の今川君？」
「他に誰がいんだよ」
「あ、うん。そうだよね。でも、どうして？」
萌子は、ケンが川城のことを敵視しているのは知っていた。史央との仲も快く思ってないことも、萌子はわかっていた。確かに、この前の試合で萌子と部員たちとのわだかまりは無くなったものの、逆に川城との軋轢は大きくなったと萌子は思っていた。
萌子の視線に、ケンは気まずそうに頭をかきながら答える。
「いやほら、俺も遠距離恋愛してるわけでさ、その、少しはお前の気持ちわかってやれるからさ。会いたいのに、会えない気持ちとか。そういうこと。
だから、お前がインターハイであいつに会いに行きたいって言ったら、少しは協力してやるよ。そうそう、宿から電話するのは気が引けるだろうから、移動中に公衆電話とか探しとくと、後が楽」
ぎこちなくだが、それでもケンの気持ちは萌子に伝わるには十分だった。
夏休みに入ってからは史央からの連絡はない。凪浜と同様、川城も初めてのインターハイ出場とあって合宿に練習にと忙しいらしい。最後に電話をもらったのは、一学期の終業式の日で、次に会えるのはどうやらインターハイの会場になりそうだと話していたくらいだった。それでも何かあれば連絡してくれと、史央が今いる合宿所の電話番号を萌子は教えてもらっていた。
『泣くな。俺の知らないところで泣いたりしないでくれ』
しかし、あの試合の日以来、史央が心配するようなことは起きていない。
それはつまり、萌子が徐々に、成のことを忘れてきているという証拠なのかもしれない。
『それじゃあ、俺はずっと待ってる。
沢木が、沢木のことを泣かした奴のこと、ゆっくり忘れていくのを待ってるから』
いつかはわからない。
それでも、きっと、忘れられる日はくる。
ゆっくりと、萌子はそう思うようになってきていた。
「ありがとう。でも大丈夫。お互い、今はサッカーで手一杯だし」
色々な思いを振り切るようにそう萌子が答えると、はぁーっとわざとらしいくらいに大きいため息をケンがついた。
「手一杯ってな。あのな萌子。我慢することないぞ。会いたい時は会いたいって言ってくれた方が、喜ぶから、男ってのは。散々我慢された挙句、久々に会えたって時に、会えなかった時の愚痴を聞かされるより、その方が可愛げあるし、ぐっとくる―」
「それで、ケンは亮子ちゃんのことをますます好きになっちゃうのね」
くすりと萌子に笑われて、思わずムッとしたケンは萌子を睨み返す。だが萌子はそこまで予想していたらしく、ごめんごめんと謝ってから軽く頭を下げた。
「心配してくれてありがとう。でも、いいの。向こうも練習と合宿で、インターハイまでは忙しいみたいだし。
そうね、もしインターハイで会いたい時がきたら、ケンに相談するから、その時はよろしくね」
萌子はそう答えると、近くを通ったまりを捕まえて、校舎の方に消えて行った。
長かった初日の練習も終わり、篤志はケンと共に教室に戻ろうとして、近くにあった水道で喉をうるおしていた。
夏の強い日差しは容赦なく、部員たちから水分と体力を奪っていた。
水道の蛇口を閉めたところで、木陰になっているこの場所からは、海からの心地よい風が吹いてくる。
その風を受けながら、一息ついていると、隣で同じように水を飲んでいたケンが呟くように言った。
「おかしいよな、あいつ」
「誰のこと？右京」
右京の不調は続いているらしく、今日も石橋の怒号がグラウンドに響いていたことを篤志は思いだした。しかしそれは、期待の裏返しでもあり、未だ下位のＣチームに居る篤志からすれば羨ましいことでもある。
ケンは篤志の方をジロリと睨んで答える。
「じゃなくて、萌子」
「萌子？」
「なんつーか。嘘はついてる感じないんだよな。ほんと、大丈夫みたいなんだよ。今川と連絡取れてなくても」
納得がいかない表情のケンに篤志は答える。
「仕方ないって思ってんじゃないの？」
我儘を言う萌子を篤志は想像できなかった。それに、本当のことを言えば、萌子の気持ちが篤志にはわからなかった。史央と付き合うことにした萌子の、もっと言えばあの時史央の元に向かった萌子の気持ちからわからなかった。
萌子が成を裏切るようにして朔哉のところに向かったはずが、史央の家に泊まって帰ってきたことを知っているのは、いまだ篤志と理香と成の三人だけだ。
成が萌子の行動をどう思っているのかはわからないが、理香とは一度話したことがある。
「萌子が好きなのは、成くんだと思う」
だったら元の鞘に収まればと言う篤志に、理香はいつになく神妙な面持ちで答えたのだ。
「でもね、朔哉さんのところに行ったってことは、成くんに対する裏切りだから、成くんのところには戻れないって。
おまけに萌子は、あたしたちも裏切ったって思ってるんだよね」
あたしたち？と尋ねる篤志に、理香は頷きながら「凪浜の人ってこと」とだけ答えた。
「だから、あたしたちには頼っちゃいけないって思ってるみたい。だから、今川君なの」
だけどと篤志は言いかけて言葉を止めた。その言葉は、理香を非難する言葉でもあったからだ。だが理香はそんな篤志の気持ちをくみ取って答えた。
「朔哉さんのところに萌子を行かせたのは、あたしや菅原さんだってこと、わかってる。そういう風に仕向けたのは、自分だって。だけど萌子は、思ってないの。決めたのも、実際に向かったのも自分の意志だからって。頑固で、責任感強いから。萌子」
そう言って理香は深いため息をついた。
「だけど、そんな萌子ならわかってると思うんだ。今川くんと付き合っても、それは今川くんだけじゃなくて萌子も傷つくことになるんだってこと。それなのに…」
理香の言う通りだと思う。
どうして萌子は、幸せとは逆の方向に進んでしまうのだろうかと。
そういう複雑な事情を知っている篤志からすれば、ケンが考えた企みは、むしろ萌子にとって迷惑でしかないように思えて、そもそも篤志は乗り気ではなかった。
そんな篤志の前で、何も知らないケンは腕組みをして唸り続けていた。
「普通はさ、そう思っても、心の底では、会いたいって思ってるはずなわけ。だから、こっちが話を聞くって態度見せると、どばーって相手の話をしてくるわけよ、女ってのは。なのに、全然話さないんだ。萌子」
しかしどうやっても、ケンはこの企みを成功させるつもりらしい。篤志はさらりと答える。
「警戒してるんじゃないか？今までのケンの態度からさ」
「俺だけじゃねぇんだって。理香にも聞いたけど、あいつにもほとんどしゃべらないらしい。
っつぅか篤志、お前抜け駆けして水泳部見に行っただろ。一年に可愛い子がいるとか言って」
言いだしたのは山田で、自分は誘われて言っただけだと言い返そうとする篤志の頭を、コツンとケンが小突く。
「お前ね、全然懲りてないわけ？何？去年の合宿だってそうじゃねぇか。散々理香ともめた挙句―」
話の矛先が自分に向けられたことで、篤志は慌てて言い返した。
「萌子はさ、理香には言ってないで椎名には言ってるかもしれなくない？」
「どうして？」
聞き返されて、篤志はまずいと思った。ただ篤志としても、実際の萌子のことが気になっていた。ただ事情を知りすぎている自分や理香には萌子は本当のことを話しづらいだろうと思っていたのだ。だが美都であれば逆に素直に話しているかもと思っただけなのだ。
「それは…」
言葉を詰まらせたところで、ちょうど美都が一人で歩いてくるのが見え、思わずケンが声を上げた。
「あ、椎名！ちょうどいいところに―」
しかし、美都はちょうど木陰に隠れてしまっている二人に気付くことなく、その先に居た一人でいた湊に声をかけた。
「湊君」
「あー椎名、お疲れ様」
「あのね、少し相談したいことがあるんだけど」
「いいよ。えーっと部室とかの方がいい？」
「うん」
練習を終えた今の時間ならば、部室には誰もいない。
ケンと篤志は、寄り添って歩く二人の背中を見つめながら言った。
「完全無視されたな」
「聞こえなかっただけだよ」
「けど、なんかいい雰囲気だったな、あの二人。部室って二人だけで話したいってことだろ？」
「だって湊は椎名のこと、好きじゃん」
思わず篤志がそう言うと、ケンが舌打ちをした。
「ったく、あいつも報われない恋しやがって。だから、そういうのもありだって成が思うんだろう」
食事を終えた萌子が、サッカー部マネージャー用に割り当てられた教室に顔をのぞかせると、そこには理香しかいなかった。
「お風呂空いたって。あれ？美都は？」
「デート」
寝転がって雑誌を読んでいた理香がぶっきらぼうにそう言う。一年生の二人は、後片付けをやっているはずだ。萌子は理香の隣に座り、鞄からお風呂セットを取り出しす。
「やるね、美都も」
雑誌から顔を上げた理香が、萌子に尋ねる。
「ねえ萌子は？」
「私？何が？」
「今川君とデート、してるの？」
実のところ、ケンに話を聞かれた時から、いやもっと前から理香も萌子と史央の事が気になっていたのだ。じっと見つめる理香の前で、萌子は静かに首を振った。
「そんな時間ないよ。お互い忙しいし」
「それでいいの？」
「いいも悪いも、仕方ないじゃない。お風呂、行かないんなら私先に行ってるね」
萌子はそう言うと、そそくさとお風呂セットを持って立ちあがる。この話をもう終わらせたいようだ。理香は慌てて立ちあがると、教室を出て行こうとしている萌子を呼び止めた。
「萌子はさ、もっと甘えた方がいいよ。今川君に」
「…十分甘えてるよ」
呟くようにそう答えた萌子に、理香は声を上げて言い返す。
「それじゃあ、もっともっと甘えて。萌子の甘えてるは、普通の女の子の一割くらいなんだから。男って甘えた方が喜ぶんだよ」
真っ直ぐな理香の視線を受け止めて、萌子はこぼれるように微笑んだ。
理香は、本当に真っ直ぐだ。
私が決めたことを、認めて、応援しようとしてくれてる。
最初は反対してたのに。
「ありがとう。じゃあ、合宿終わったら、連絡してみる」
「そうじゃなくて。あ、あたしもお風呂行くから、ちょっと待って」
そう言い返しながら、理香も慌てて風呂に行く準備を始めた。仕方なく萌子は壁に寄りかかると、ふと思い出して理香に尋ねる。
「急にどうしたの？そういえば、ケンにも色々言われた」
「皆萌子のこと心配してるんだよ。萌子は、一人で抱え込んで無理するの、わかってるから。
皆、萌子にもっと頼ってほしいって思ってるの」
ケンも、史央との事を大反対した部員の一人だ。
皆、そうだ。凪浜の人は、皆優しい。
わかっていたとはいえ、実際に優しくされると、しかし萌子はどこか身構えてしまう。
「ありがと」
そう言っている間に、準備の終えた理香は荷物を持って立ちあがった。
「そういえば、理香はいいの？篤志とデート」
「いいのいいの。もう。アッチのことなんか、忘れたの。だって今年もまた、可愛い女の子が水泳部に居るとかで、騒いでるんだよ。毎度のこととはいえ、なんかもう、勝手にしてよって感じ」
そう言ってしまえるだけの余裕がある関係に、二人はようやくなってきたようだ。萌子は思わずくすりと笑って答えた。
「らしいといえばらしいね。篤志も飽きっぽいのね」
「でしょ？もういい加減疲れた。いちいちアッチに振り回されるのに。だから…アッチ以外のことにも目を向けてみようかなって。高校生活最後の夏だもん。悩むことなんか、あたしにだってアッチのこと以外でも沢山あるんだから」
インターハイのこと、その先の将来のこと。
友達のこと、家のこと。
悩み事を上げればきりがない。
そうだね、と萌子は答えた。
待ち合わせた場所に、向かってくる影が見えた時、美都は小さく手を振った。
「和美君」
その声に気付いて、和美がちらりと視線を上げる。その表情から察するに、機嫌はいい方ではないらしい。
疲れてるのに、呼び出しちゃったんだから、当然か。
「ごめんね、呼び出して」
いつもだったらその表情に怖気づいて、顔を伏せる美都だが、今日は違っていた。
後押ししているのは湊だ。
「あのね、ちょっと。相談したいことがあって」
美都の中で芽生えた気持ちは、理香の『最高の夏にしよう』という言葉で、より大きなものへと変わっていった。二人に相談することも考えたが、驚かせよう と自分の中で自信がついたら、報告しようと思ったのだ。とはいえ、まだ自分の気持ちが不安で揺れていて、美都は誰かに相談をしたくなっていた。では誰にと 考えた時、美都が真っ先に思いついたのは和美ではなく湊だった。湊だったら、美都の気持ちを尊重し、賛成してくれると思ったのだ。逆に和美であれば、反対しかねない。そして反対されたら自分は何も言えなくなるだろうまで美都は思っていた。でも今回は、どうしても背中を押してくれる人に最初に聞いてほしかったのだ。
実際に相談したら、湊は驚きながらも、大歓迎すると言ってくれた。
「皆喜ぶよ、それ聞いたら」
「そうかな。でも、まりちゃんや千鶴ちゃんとか、気を悪くしないかなと思って」
もとは、美都が夏に引退する時のことを考えて、春のタイミングで二人を入部させることにしたのだ。それが、引退しないとなれば、二人の仕事は必然的に減るだろうし、元から美都のことを煙たがっている樹生などはいい顔しないだろうということは、美都にもわかっていた。
しかし湊は言ってくれたのだ。
「二人だって喜ぶに決まってるだろ？」
おまけに湊は心配そうに聞いてくれた。
「和美にも話したんだろ？」
「ううん、まだ。…反対されるかもって、思っちゃって」
「反対するわけない。喜ぶに決まってるよ。彼女が近くで応援してくれることを、喜ばない男はいないって」
悩んでいた和美への報告も、この言葉が後押しになって、すぐに言うことにしたのだ。
インターハイが終わったら引退すると和美に話した時の反応は、あっさりとしたもので、美都は拍子抜けしたくらいだった。しかし、今回のことはきっと和美 も驚くに違いない。素直に喜んではくれないだろうけど、それでも突然のことだから、思いがけず表情に出てしまうかもしれない。
美都は気持ちを高ぶらせていた。だから、和美の表情が浮かないことにも、それは突然の呼び出しのせいだとしか思っていなかったのだ。
期待に胸を膨らませて、美都は口を開く。
「あのね。夏が終わったら―」
引退するって話、やめたの。私、選手権までマネージャー続ける。
そうして、和美君のこと、最後まで近くで応援する。
高校最後の夏を、最高の夏にしたいから。
しかしそう続ける前に、俯いていた和美が、かすれた声を上げた。
「終わりだな」
「…え？」
言っていることが分からず、高い声が上がる。しかし和美はそんな美都の声を気にする様子もなく、俯いたままで続けた。
「夏が終わって、お前がサッカー部辞めたら、俺たちの関係は終わりだ」