Maybe Blue 第三部 誰かのために
夕凪10
暗闇の中にか細く咲いた線香花火を見つめながら、ふいに理香が呟いた。
「線香花火って、地味だけど結構好き」
「私も」
美都がそう答える。萌子も小さく頷いた。
「なんか夏が終わっていくって感じがするよね」
「本当はこれから始まるのにね」
夜の海辺には、まだ時間が浅いこともあり、他に人はいない。三人は防波堤に並んで腰かけていた。
萌子は、小さな明かりに照らされた理香の横顔をちらりと盗み見した。つい数時間前までは泣いていたのが嘘のように、すっきりとした表情をしている。
いや、泣きに泣いたから、気持ちが晴れたのかもしれないと萌子は思った。
家からの呼び出しに理香が教室を去ってから、集合時間が近づいても理香はなかなか戻ってこなかった。次に合宿を行う部が、その教室を使うこともあり、萌子たちは理香が戻ってくるのを諦めて理香の荷物を持ち、昇降口に向かおうとしたところで、理香が現れた。走ってきたのか、息を切らせて何も言わない理香に、萌子も美都も何と言っていいのか悩んでいると、理香の方から二人に抱き付いてきて、叫ぶように言ったのだ。
「大丈夫だって。お母さん、大したことなかったって。入院とか手術とか、しなくてすむって！」
「よかったぁ」
「ほんと、よかったね。理香」
「うん、心配かけてごめんね。萌子も美都も」
そういうと、理香は周囲を気遣うこともなく、しばらく大声で泣き続けたのだ。おかげで集合した時には、真っ赤に晴れた目を冷やしたタオルで隠さねばならず、部員たちからの好奇な視線を向けられることになってしまった。
不調を訴えていた理香の母も、検査の結果を聞いた途端に元気になってしまったらしい。
まさに、病は気から、だ。
一本目の線香花火は、美都が一番長く続いた。
そして二本目の花火に火をつけた時、ふいにその美都が呟いた。
「最高の夏…か」
それは合宿初日に理香が言った言葉だ。
高校最後の夏。
一生の思い出になるような夏。この先辛いことがあっても、乗り越えていけるようなそんな夏にしたいと理香は言っていた。
それを思い出し、理香はえへへと照れ笑いを浮かべる。
「我ながら、ずいぶん高い目標にしちゃったよね」
「でも、忘れられない夏になったよ。大きな一歩、踏み出すことのできた夏になった。
今まで自分に自信がなくて、色んなこと諦めてきたけど、これからはそういうのやめようと思う」
美都が引退せず、夏以降も部活を続ける話は、合宿最後のミーティングで発表された。
周囲の反応が怖かった美都だったが、まりと千鶴には笑顔で歓迎され、他の部員たちからも嬉しそうに本当かと聞かれた。天敵ともいえる樹生には睨まれるかと思っていたが、美都と目が合うと恥ずかしそうに小さく会釈をされた。どうやら宜しくお願いします、ということらしい。
『皆喜ぶよ、それ聞いたら』
湊に相談した時、そう言われたことを思い出した。
結局卑屈になっていただけなのかもしれない。
もっと自信を持とうと美都は思った。
自信がないのは、不安だからで、不安ならば、がむしゃらに頑張ることで、消し去るしかないのだ。
ありがとう、湊君。
穏やかな笑顔で、他の部員たち同様に美都に拍手を送る湊をちらりと見て、美都はそう思ったのだ。
それから、さよなら、湊君。
今までは何かにつけ湊に頼っていたが、それももう終わりにする。
湊の気持ちを知らなかったとは言え、利用していたのは事実だ。
そういう自分とも、さよならしようと美都は決めた。
「新しい美都の、始まりの夏だね」
理香がにやりと笑ってそう言った。笑顔で答えると、えへへと理香も口を開く。
「あたしもね、決めたの。小さい頃からずっと夢はアッチのお嫁さんだったんだけど、そういうの、やめようと思うんだ」
「理香、それって…」
驚いた表情で萌子が口を挟んだが、理香は笑いながら、違うよと明るい表情で答えた。
「別にアッチが嫌いになったとか、もうどうでもいいとかそういうことじゃなくて。ちゃんと真剣に、自分の将来のこと考えてみようと思う。もちろんその先に、アッチと結婚できたらいいけど、未来のことなんか誰にもわかんないし。もしかしたら大学行って新しい出会いがあって、もっといい人みつかるかもしれないし」
「新しい理香の始まりの夏だね」
ふふふと笑いながら美都が答える。そんな美都と笑いあいながら、理香は視線を萌子に向けた。
「萌子は？」
いきなり話をふられて、萌子は戸惑った。
「私は…」
新たな目標に向かって歩き始めた二人の笑顔は、萌子には眩しかった。
その心の動揺を表すように、萌子の線香花火が真っ先に落ちた。
理香と美都だけではない。
和美も、自分の意志で関西の大学に進学することを決めた。
人伝にだが、成も希望するプロチームを決めたらしい。
スランプに陥っていた湊も、今日の練習から何かが吹っ切れたように動きが良くなっていた。
皆、それぞれの道を進み始めている。
それなのに自分は、きちんと前を向いて歩いているのだろうか。
その答えを見つける前に、萌子は心配そうに見つめる理香と美都の視線に気づいて、慌てて、冷静を装って答えた。
「とりあえず、部活を頑張る」
優等生的な回答に、美都は柔らかく答える。
「そうだよね、インターハイすぐだし」
その時、遠くから理香を呼ぶ声が聞こえてきた。
「理香ー」
「あれ？アッチ」
電灯に照らされた篤志と、他にも数人の影を見て怪訝そうな表情を浮かべた時、理香の線香花火が落ちた。
「あれ？また美都が一番？」
「えへへ。実は得意なの」
そんな会話をしていると、篤志が駆け寄って来た。
「俺たちも入れて入れて」
篤志の手には、途中で買ってきたのか、花火が大量にある。その中から一本ずつ理香や萌子に渡す篤志の後ろから、追いかけてきた興仁が口を開いた。
「アッチが理香の親父さんから聞きつけたんだ。女の子だけで夜の海は危険だし」
他にも由太や、厳己、一馬たちがいる。いつもの寮のメンバーである知朗や湊たちがいないのは、実家に戻っている為だろう。
「花火沢山持ってきたよ」
そう言って手際よく蝋燭とバケツを用意する厳巳を理香が褒めた。
「気が効いてるね、厳己ちゃん」
「勉強の気晴らしにもなるしね」
本来であれば引退した厳己も実家に戻って、予備校の夏期講習に参加するのだろうが、こちらにいた方が集中できるからと、厳己は寮で生活しながらこちらの予備校に通っている。
久しぶりの厳己の姿に、もっと話をしようと口を開きかけた理香だったが、その腕を篤志に掴まれた。
「理香理香！ちょっと」
「なに？アッチ…」
そしてそのまま、理香は篤志に連れ出されていく。そんな姿を横目で見ながらも、萌子は成を探している自分に気づき、目を伏せた。
厳己たちが持ってきた花火セットには、打ち上げ花火やねずみ花火などもあり、萌子たちは久しぶりに声を上げてはしゃいでいた。さっきまでの心の靄を忘れて笑う萌子の隣に、暫くして理香がやってきて呟いた。
「おかしい」
「どうしたの理香」
「なんかアッチが追いかけてくるんだよね」
理香の記憶が正しければ、今までにないことである。昨日の夜、理香のことを心配していた篤志のことを思い出し、萌子は笑顔で答えた。
「理香の大切さがようやくわかったんじゃないの？」
「どうだか」
理香は呆れたようにそう答えた。
一通り花火を楽しんだ後は、全員で片付けをした。
途中、火照った体を冷やしたくなった萌子は、一人浜辺に降り、夜の海に素足を浸していた。夜の海はただ暗く、波が引いていくときには、まるで海に引きずり込まれそうな気持ちになる。噂に、海で死んだ人がそうやって生きている人間を呼ぶのだと聞いたこともあった。
もし、このまま海に引きずり込まれたら、そうしたら、すべてリセットされるのだろうか。
成への気持ちも、
史央との関係も。
そんなことを考えていた萌子は、背後に近づく姿に気づいていなかった。
ざくっと砂浜を踏みしめる音がして、顔を上げると、隣に由太が立っていた。
予感がして萌子が口を開くより先に、由太がまっすぐ海を見つめたままで言った。
「わからなかった。
お前が今川と付き合ってると嘘をつく理由が。
そういうことだったんだな。
お前は、あいつのことが、まだ成のことが―」
「言わないでっ」
咄嗟に萌子は由太の両腕を掴んだ。
由太が驚いて、目を見開くのを見て、萌子は更にその手に力を入れた。
「それ以上は言わないで。…今川くんのことも。誰にも言わないで」
やはり由太は気づいてしまったのだ。
萌子の成への気持ちも。
史央との見せかけの関係の理由も。
公正名大で、曲がったことが嫌いな由太が、萌子のついている嘘を許すわけがない。
萌子は必死だった。
「お願い、由太」
怖くて顔は上げられなかった。暫くして、由太の低い声が小さく響いた。
「…わかった」
その声を聞き、萌子はほっとして力を入れていた手を緩めた。
「ありがとう」
そう答えたタイミングで、由太の背後から、理香の大きな声が聞こえてきた。
「萌子ーっ、せっかくだから美都と三人で写真撮ろうよー」
「今行く」
萌子はそういうと、先に行くねと由太に言い残して、脱いだ靴を手に砂浜から階段を昇って行った。
萌子と理香の声が聞こえなくなってから、由太は自分の左腕を右手でそっと掴んだ。
先ほどまで萌子が触れていたそこは、実際はそんなことはない筈だが、ひどく熱く感じる。
…どうして、言えなかったんだ。
由太は自問自答した。
お互いに想いあっているのに、どうしてそれを伝えないのか、と。
成の気持ちは、見ていればわかる。
史央の存在があるから、一歩引いたところで萌子を見てはいるが、それでもふとした瞬間に萌子に送る視線は、正直だ。
そして萌子も成と同じ気持ちでいるのであれば、障害はないはずだ。
萌子が史央との関係を嘘ついたのは、おそらく成の浮気問題の為だろうが、正直に話せば成は許すだろう。
だが、萌子は言ったのだ。
『誰にも言わないで』と。
由太は唾をごくりと飲み込んだ。
おそらくは何か事情があるのだろう。しかしそれも、二人ならば乗り越えられるに違いない。
それでも由太は、萌子をそう言って引き止めなかった。
自分しか知らない萌子の秘密。
その言葉が、甘い蜜のように由太の体を雁字搦めにしていた。
由太は嘘は嫌いだ。仮に誰かを救うものであっても、嘘という行為は許しがたい。
だが、由太は萌子の嘘を容認した。
そうすることで、密かに萌子と繋がることを選んだのだ。
どうして俺は、こんなにも、堕落してしまったんだろうか。
気づけば由太は、跡がつくほどに掴んだ左腕を強く握りしめていた。